« 『御伝鈔』(2)第一段②~出家得度~ | トップページ | 西七条の「えんま堂」展 »

『御伝鈔』(2)第一段③~比叡山での勉学~

第三節 比叡山での勉学
 『御伝鈔』上巻の第一段「出家学道」を三分科した第三節は、わすか九歳で得度された聖人は、その後、比叡山で天台宗の奥義を究め、そして横川で源信僧都の流れを汲む浄土教を学ばれたことが記載される。

「しばしば、(1)南岳・天台の玄風を訪ひて、ひろく(2)三観仏乗の理を達し、とこしなへに(3)楞厳横川の余流を湛へ、ふかく(4)四教円融和の義にあきらかなり」

という一文だが、聞きなられない難しい言葉が並んでいる。
(1)「南岳・天台の玄風」とは、中国天台宗の祖師、南岳大師慧思(515~577)と、その弟子天台大師智顗(538~597)によって説き明かされた奥深い教え。
(2)「三観仏乗の理」は、天台宗の根本的な教え。空・仮・中の三種の観法によって、生きとし生けるものが悟りを開くという教え。仏乗は、一仏乗、一乗。
(3)「楞厳横川の余流」とは、楞厳とは、首楞厳院の良源上人、横川とは源信僧都で、共に比叡山の碩学であり、浄土教の大家。特に源信僧都の流れを汲む浄土教ということ。
(4)「四教円融の義」は、天台宗の根本的な教え。蔵・通・別・円の四教を立て釈尊の一代の教説内容を判別(教相判釈)し、その究極である円教の内容を三諦円融の理で解説。

 つまりは、天台宗の教学を実践的に探求され、その教判論、化法の四教の中、円融無碍の道理を説く天台円教に精通されていた。そして、横川の源信僧都の浄土の教えも学んでおられた。比叡山三塔(東塔・西塔・横川)のうち、横川で勉学修行に励んでおられたということである。

この文からはこれ以上のことはわからないが、他の文献から補足して考えると、

 比叡山での修行は、伝教大師最澄の定められた『山家学生式』によると、十二年間、山に籠もり、勉学と修行に励む籠山の決まりがあった。
 最初の六年は、聞慧(学問)を主として、後の六年は、思慧(深い思索)と修慧(修行)を行うというのだ。修慧(修行)は、天台の代表的な修行の中でも、「止観業」は、天台大師が『摩訶止観』の中で成仏道として示された四種三昧(常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧)が中心となっている。 

四種三昧のうち、常行三昧とは『般舟三昧経』に説かれる般舟三昧と呼ばれる行法である。諸仏現前三昧、仏立三昧とも呼ばれている。一定の期間(九十日間)、口に称名、心には常に阿弥陀仏を念じながら、昼夜を問わず、ひたすら堂内の阿弥陀仏の回りを歩き続けるので、常行といわれる。十方世界の無数の諸仏方が、行者の目の前に立ち現れてくださるという禅定の境地をめざしているのである。

 親鸞聖人も、比叡山を降りられる二十九歳の時には、常行三昧堂の堂僧をされていたことが、恵信尼公(奥様)のお手紙から窺える。

 「この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠もらせたまひて、後世のこといのりまうさせたまひける、九十五日のあか月の御示現の文なり」(『恵信尼消息』814) 

 これは、次ぎの第二段につながるのだが、この自力の行を捨てて、法然聖人の専修念仏の一行を選ばれる。二十年間の自力の行をすべて捨てて、他力に帰することは、一大転換の決断であったのだ。修慧(修行)の意味では、比叡山でのすべての自力の行を捨て、他力念仏の一行を選ばれたのである。

 その意味では比叡山二十年間は捨てものであった。

 しかしである。その学びはまったく意味がなかったのか。聖人の著述(特に『教行証文類』)には、天台教学の影響を感じさせられる箇所がある。聖人は二十年間、比叡山という環境の中で勉学に励まれて、以降の学びの基礎を形成されたのではないか。しかもそこに留まることなく、他力易行の教えに出会ったことで、天台の教学を超えようとされておられるのである。たとえば、『行巻』の一乗海釈(誓願一仏乗)などは、天台の教判を超えようとされているのはよく分かる。この文にあるように、比叡山での二十年間で天台の本覚法門を学び尽くされたのではないか。同時に、横川で源信僧都の浄土教えに出会い、法然聖人へ続く道が開かれていくのである。

 二十年間の自力修行は捨てもの、その無効性ばかりが強調されるが、一方で、比叡山の二十年での勉学によって、『教行証文類』などを著述される基礎が、この時代に形成されていくことを見過ごしていたことに、この一文で気づかされたのである。

|

« 『御伝鈔』(2)第一段②~出家得度~ | トップページ | 西七条の「えんま堂」展 »

聖典講座」カテゴリの記事