『御伝鈔』(2)第一段①聖人の家系に驚く
『御伝鈔』は、上巻の第一段「出家学道」に入った。絵図は、九歳での出家得度の場面だけを2図で描いているが、内容としては、次の三分科されている。
一、親鸞聖人の出家前の俗姓は藤原氏、藤原鎌足の流れを汲む日野家であり、父親は日野有範と申される。
二、しかし、仏法宣布のご因縁によって、九歳の春、叔父日野範綱卿に伴われて、慈円(慈鎮)和尚の住坊(現在の青連院)で得度を受け、範宴と名のられた。
三、その後、比叡山で天台宗の奥義を究め、横川で源信僧都の流れを汲む浄土教を学ばれた。
第一節は、親鸞聖人の家系が仰々しく述べられている。親鸞聖人の俗姓は藤原氏で、藤原鎌足の流れを汲む日野家、父親は日野有範公。もし聖人が朝廷に出仕したなら高位高官が約束されておられたというものである。
正直、煩わし表記だ。本来、割注と言って本文とは別した註釈で、その人物の役職や説明を記載されていた箇所が、書写中に本文に紛れ込み、ややこしい文章になっているのだ。整理すると以下の流れとなる。
、
「天児屋根尊」(記紀(古事記と日本書紀)神話に出る神。中臣・藤原氏の祖神)から始まり、(二十一世後)に、藤原氏の祖である「藤原鎌足」公が出て、その玄孫(やしゃご)である「内麿」公…(六代略)…「有国」公…(五代略)…「有範」(皇太后宮大進)の子としてお生れになったというのである。そこに官職が入ると次ぎのようになる。
天児屋根尊……(二十世略)……(1)藤原鎌足(大織冠・内大臣)-(2)不比等-(3)房前(贈正一位、太政大臣)-(4)真楯(大納言、式部卿)-(5)内麿(近衛大将、右大臣、従一位、後長岡大臣、閑院大臣)…(六代略)…有国(ヒツギの宰相)…(五代略)…有範(皇太后宮大進)-範宴=親鸞聖人
これは日野家、特に親鸞聖人の直系の流れとなるものだ。確かに家柄を仰々しく語ることは、どうも親鸞聖人の精神とは異なる気がして、冒頭から躓きそうになる。しかし、今回、初めて一つ一つの語句を、辞書や古典を開いて調べ直した。「大織冠」とか、「皇太后宮大進」とか官職にしても、「霜雪をも戴き」「射山にわしりて」との表現にしても、一つ一つ調べると面白かった。たとえば、「射山にわしりて」の「射山」とは、院の御所、仙洞御所のこきで゛「わしりて」とは、「走り回る」という意味があるのだ。
また仰々しく見せていても、偽りの記述ではない。たとえば、父親の官職は、皇太后(先の天皇の皇后、今なら美智子さま)付きの第三等官に留まったと記されている。清少納言は『枕草子』のなかで、「見ると特に何ともないが、文字に書いたら大げさなもの」として、「皇太后宮権の大夫」(ごんのだいふ)の役職を挙げている。その「権の大夫」は、「大進」の上官にあたるのだが、それでも大したことはないものだと清少納言は記している。つまり、日野家は中流貴族だったが、父の有範は低い官職に留まっているということだ。通説では、聖人の幼少期に死別したと伝わるが、実際は、何らかの政変により、若くして宇治の三室戸に隠遁したと観られている。聖人の兄弟すべてが出家しているのそのためだと推測されている。
同時に、親鸞様の末娘の覚信尼公が祖母となる覚如上人は、親鸞聖人の直系の孫である如信上人からの面授口伝を強調されて、本願寺の第2代目に据えておられる。だからこそ直系の家系にも関心があったのだろう。今日の日本では家柄や血統の影響は少ないが、当時としては、今の私たちからは想像がつかないほど重要なファクターだったのだろう。
そして今回は、参加者の中に、歴史の専門家の方がおられて、詳しく藤原氏の流れを説明くださった。特に、(3)房前公-(4)真楯公、そして(5)内麿公の功績や関係性の大切さである。彼は、この御伝鈔の記述のおかげで、もう一度、仏法を聞こうという機縁になったことを感銘深く話してくれた。その話を聞いて、初めて、煩わしかった系図がどことなく馴染み深く思えてきた。もう房前や真楯の名前も忘れないだろう。南無阿弥陀仏
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