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2020年10月の23件の記事

10月の学び~「カウンセリング・心理療法篇」

 10月に受講した教大学四条センター講座での「カウンセリング・心理療法篇」である。

 まず、今の話題であるコロナ関係では、大林雅之先生の「小さな死」から考える、コロナ時代の生き方~老いと孤独をめぐって~という講演聞く。フランスの思想家のジョルジュ・バタイユと、シスターでもある渡辺和子を結べ付ける論考。刻々と起こっている「小さな死」こそ、「大きな死」のリハーサルであり、別のものではないと。いろいろと仏教や真宗的に結べ付けて味わいながら聞かせていただいた。

 そしてメーンは、「心」と題するカンファレントがあり、毎週水曜日の夜に連続した講義。2コマある時は、18時から21時になるので、もし教室に参加するのなら難しかったかもしれないが、Zoomのおかけで参加することができた。

 仏教大学の臨床心理の教室には、ユング派の先生が中心のようて、同じカウンセリングといっても新鮮に聞かせてもらっている。これは11月から来年1月まで続く。

 牧先生から、「心理臨床家の人生」と題する連続講義で、「ユング」、そして「ロジャーズ」の生涯のまとめてお聞きする。

 小児科医でもある石岡千寛先生からは、「心と身体の健康」と題して、「心と体を結ぶもの」、「ストレスルの心身への影響」と題した講演。これは、医学モデルで、かなり新鮮に聞かせていただいた。特に、細胞レベルで、単細胞の場合も、老化と死(アボブトーシス)として、遺伝子に細胞死が組みこれまていること、それが多細胞生物にしても、必然の死、テロメアとして、寿命の上限が定めれ、死の必然が遺伝子レベルで定まっていることをお聞かせていただいたのは新鮮。

 また鈴木康廣先生からは、「箱庭療法入門」と題して、その基礎のお話。驚いたことは、ユング派といえば、分析や解釈が中心かと思っていたが、ロジャーズの来談者中心カウンセリングの態度とは通じるものがあって、ロジャーズの態度項目である三条件は必須で、クライエントが、安心して、自己を自由に表現できる場をいかに構築するのかの重要性を指摘されていた。そしてクライエントが如何に自己を物語り、その世界観をセラピストが受容的に、また共感的に聞きえるのかが大切であるという。

 その中でも、一番、よく知っていてるはずのロジャーズの生涯を講義が新鮮だった。講義での元ネタは、諸富先生の「カールロジャーズ入門」。途中、ロジャーズとミス・マンとの面接ビデオ、また河合隼雄先生のロジャーズの評などを、体系的にまとめて講義くださる。諸富さんの著書も、河合先生の言葉も、またロジャーズの面談ビデオも、何度も読んだり、観たりしている基本で、その文章の隅々まで覚えていることも大半だった。それでも、いやそれゆえか、短時間にまとめた講義は、改めてぼく自身の聞く態度を問われるのは充分であった。

 直線的に決めつけて解決に向うのではなく、葛藤や紆余曲折を経ながら、全人格でしっかりと悩んでいくことを援助していく。問題解決ではなく、その人自身がいかに悩む力をつけていくのか。そしてクライエントの世界を共にあたかも生きているのかがカウンセラーであると。ユング派の立場から、距離を取ってきかせてもらったことが、とても有り難かった。

 11月もしっかり学びたい。

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10月の学び~仏教講座篇~

 3月以降中止が続いていた仏教大学四条センターの講座が再開されたので、10月は意欲的に学んだ。まだ教室での講義ではなく、来年3月まではすべてZoom配信での講座となっている。その分、移動する制約がないので可能な限り受講することにした。

 まずは仏教篇。これまでと同じ5講義を受講した。

 継続して(1)永観律師『往生拾因』は、第五因の「聖衆護持」などを読む。
(2)『法然上人行状絵図』(いわゆる四十八巻伝)も継続した受講で、「後白河法王への授戒と追善」。三帝の戒師とも称される法然上人の一面。真宗ではまず問題にされない側面ではある。
 共に継続講義なので、Zoomでもスムーズに受講できた。Zoomのおかげで、気軽に、便利に学ぶことができる。しかし自身の学びの質という意味では、やはり少し低下するのではないかと。講義内容は同じでも、会場に足を運び身を置くことに比べると、こちら側の学びの態度が緩んでしまうのも事実であった。

 同じく毎月受講していた仏教入門講座と探求講座も引き続き学ぶ。こちはら、今年のテーマや講師が変わって、かなり新鮮だった。しかも230名近い方が参加されていたのにも驚いた。(3)入門講座の細田典明先生は、初受講。予定の半分6回に短縮となったが、ブッダ以前(もしくは当日)のインドの思想・宗教に言及されるもので、初回は『ウパニシッド』の思想。バラモン経の根本聖典となる『ヴェーダ』最終部分に属するものだが、新興勢力(仏教やジャイナ教など)が何を批判し、乗り越えていこうとしたのかを知るためにも、その基礎のほんの一部でも学ばせてもらった。特に、以前に記録されたバラモン教の祭祀のビデオ映像が、とても面白かった。これまで概念的にとられても、実体が理解し難かった司祭者としてのバラモンや、生贄の問題、また儀礼として梵我一如をどのように成すのかがなど、興味津々。これまでガンジス河のガートで、バラモンを見ていたが、その見分け方も教わって、またインドにいくことがあればば楽しみである。最後に「この講義のどこが仏教入門なのか」と批判的な方があったが、最初にしっかりその点にふれられておられたのだが、原則生徒は聞いていない、といより聞けないだなーということを実感。

(4)探求講座の西本明央先生は、毎年、一番、楽しみにしている講師。今年は、半年の6回で、「仏教と言葉」のテーマで。初回は、「言語に対する仏教の基本的態度」と題してであるが、ブッダが最初の説法に躊躇があったことのは、悟りの体験を言葉にする際の葛藤であり、思想を媒介する道具としての言葉そのものへの不信感から起こっている。また我々の苦が生起するのも、我への執着も、言葉が関わっているのに起因するという。それでも言葉を使った伝道を決意されるのだが、その前に、仏教の基本的態度とは、言葉に対して否定的であるという点を押さえた講義であった。ただ参加者にリモートに不慣れな方があり講義がしばしば中断したり、うまく共有画面が使えず、また、盛り沢山すぎで時間的配分に無理もあるなど、少しモタモタ感も強かく、また内容をすべて理解できたわけではないが、ぼんやりと問題意識を抱いている問題なので、これからが楽しみである。 

(5)仏教大学ビハーラ研究会は、講義だけでなく、交流やワークもあるので、だいたい10名前後だが、リモートになると30名近い方が参加されていた。「新型コロナ禍とグリーフワーク」~葬送の意義を再考する~は、講義が中心。これがとてもよかった。葬送儀礼の持つ意味を多角的にお聞かせに預かった。またコロナ禍で葬儀に対する誤った認識、「新型コロナで亡くなったらお葬式もできない」(すべてすんで遺骨で帰る)という間違った認識なのだと。どうすれば、そんな時でも葬儀ができるのかを事例に基づきお話くださった。同時に、なぜ自粛警察が起こったり、他に不寛容になるのかという心理的な構造などの話も興味深かった。
葬式仏教と揶揄されるけれども、もう一度、その意味や原点に帰って考えさせれる講義だった。

 

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コロナ禍での寺院布教

 名古屋での東海支部法座から1週間。再び名古屋の寺院での布教である。引き続いてお参りくださる方も多かった。
 
 新潟での寺院布教に引き続いて名古屋に前乗りする予定だったが、コロナで新潟布教は延期となり、前泊も取りやめになる。

 しかし悪いことばかりではない。最初は昼座のみ1座の予定が、密をさせてる為に分散し、朝座と昼座の2回に分けての法座となった。檀家さんは朝か昼のどちかだけのお参りだが、それ以外にもご縁の方や、華光の同人の方も多く、その人達は、両方お参りくださって、かなりの人数になっていた。法座終了後、車座での座談会もおこなった。それにも20名以上が残ってくださった。結局、コロナ対策のために、分散を狙って法座数を増したのに、逆に参詣者は増え、予定外の信仰座談会ま加わり、その分、充実した法座となった。 凡夫の計らいは役に立たないということだが、ほんとうの結果は、1週間程度後に分かるのかもしれない。

 

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『異端の鳥』

チェコ・スロバキア映画、『異端の鳥』

この映画もとてもよかった。10月後半は、いい映画が観られています。

モノクローム(白黒)映像の3時間。ホロコーストから逃れるために、暴力渦巻く過酷な状況を生き抜く少年が主人公。気合を入れて鑑賞したが、最近では珍しく居眠りすることもなく、かなり入れ込んで見入ってしまった。

東欧(スラブ圏・特定の国や地域には触れられない)のある田舎が舞台。ロードムービーであり、各章からなるさまざまな出会いが待っているが、それらはあまりも過酷で、残酷である。

映像は圧倒的に美しい。モノクロームなのに豊かで良質の叙情詩を見ているかのようだ。それでいて、人間のもつ暴力性や残酷さが容赦なく描かれている。少年にだけ向けられるものでもない。他の異質なもの、裏切り者を暴力で排除しようとする、人間の持つ本性が浮かびあがってくるのだ。もちろん戦時下というヒストリックな状況もあろう。しかし単に戦争の仕業だけで片づけられない、私たちが持っている本質的な暴力性、残酷性が、自分の脅威となりかねない異質の他者を、徹底的に排除しようと向っていくのである。少年も、さまざまな状況下、さまざまな人たちに出会い、暴力や性暴力を目撃し、また自らも受けていく。目の前で、目玉をくり抜かれる男、レイブ、ユダヤ人の大量銃殺を、有無もなく目撃させられていく。またほんの一瞬、一滴の善意や愛情にも出会うこともある。しかし大半は想像を絶するような過酷な出会いの連続だ。そして少年は、自らの身を守る為にその人間性を喪失し、感情や言葉を失くしていくプロセスがすごい。最初、共感的に少年を見ていた自分の偽善が暴かれていくかのうようだ。
そんな中で、何があっても絶対にあきらめずに生き抜こうとする、生に対するエネルギーの凄まじいさ。その目に、身震いさせられるシーンもよかった。そしてラスト。詳しくは書かないが、あるひとつアイテムを目撃してすべてを察した少年が、自らを取り戻すシーンも淡く、静かでよかった。

それにしても、今の私たちはどんな生き方をしいるのか。恵まれた環境に生きながら弱音や泣き言を繰り返し、すぐ傷つきくじけ、うわべのやさしさや偽善に覆われている虚像の生き方を痛感させられる。

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菜食料理 F(エッフエ)

 龍谷ミュージアムを後に、近くでランチをする。最初、考えたお店が8月末で閉店と知る。けっこう流行っているので、コロナの影響だろうか。ということ、今度は8月から新規開店された菜食料理 F(エッフェ) に行く。以前、高辻新町にお店を出されていた、自力整体のお仲間。五条二筋下ル室町通東入るの路地に面した町家を改造したカフェとして開店されている。以前の方針をさらに徹底され、肉、魚、卵はなしの完全でビーガン(菜食)料理で、小麦や乳製品、白砂糖も一切使用されていない。

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 以前のお店では、小麦や乳製品、白砂糖も一切使用されていないかったが、メーンには肉や魚が出てきた。それが野菜だけとなると物足りなさを感じるのではないかと思っていたので、まずはランチから挑戦することにした。

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 古い京町家の店内は、明るいカフェ作りで落ち着いたいい感じ。ランチは、ワンプレート、カレー、スバルト小麦のパスタと3種類あるので、それそれを頼むことにした。ワンプレートの前に、スープ、生野菜、そして前菜が付いてくる。ご飯は酵素玄米である。このお店の影響で、我が家も無農薬の酵素玄米を食べている。野菜だけでは物足りなそうに思うが、かなり味付もボリュームも工夫されていて、物足りなさを感じないどころか、たいへん満腹感があった。食後にデザート盛り合わせは、4名で2人前で十分という充実の内容。油や味付けの問題だと思うが腹持ちもたいへんよかったのが、不思議。昼間から、母とワインを飲んでご機嫌でした。
 京都駅からも地下鉄で一駅。体にもよく美味しいのでお勧めです。

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西七条の「えんま堂」展

   博物館や美術館の行くのはコロナ以降初めてとなる。これまでと違い密を避ける為にネット事前予約が必要だが、混雑することはないが、母も一緒だったのでゆったり鑑賞できるのは安心である。
  龍谷大学ミュージアムの『西七条の閻魔堂展』に行く。

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 常設展ではあるが、仏教の思想と文化と題するシリーズ展の第八弾。第一部は、仏教誕生のインドから始まるアジアの仏教、第二部は、日本の仏教、最後は浄土真宗へとつながる流れである。それで、第一部では、仏教とは、釈尊とは、大乗仏教、東南アジアの仏教、西域の仏教、そして中国へというあまりに広範囲のテーマを総花的に展示しているので、各テーマが1~2躯の展示と説明で終わってしまうのは致し方ない。8割以上は、すでに観たことがあるものだが、それでも体系的に展示され、釈尊の生涯に合せて四大仏跡の写真や解説などでは、2月のインド仏跡旅行が甦ったしてよかった。小さなところでは、今、講義を聞いている永観律師の『往生拾因』が、鎌倉時代の墨擦が出ていた。書写ではなく、鎌倉時代には需要があり普及していたのかと思うと新鮮な驚きだった。

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 そして、今回は、西七条の「えんま堂」閻魔大王初めとする十王像の特集があった。いつも家庭法座を開かれる西七条のM家は、このお堂を目印に道を曲がってすぐにある。ぼくにも馴染み深い、地域に溶け込んだ小さなお堂の仏像が取り上げられたことに驚いきた。そして、そこにあった十王像が、鎌倉や室町時代の文化財であったことが、最近の龍谷ミュージアムの調査で分かったというのだ。これには地域の方やお堂をお護りしてい方々もたいへんな驚かれたという。冥土の冥官と同時に、閻魔王の本地である地蔵菩薩や京都の地蔵盆、またユーモラスな地獄絵なども紹介されていた。どれも庶民の身近にある仏教信仰の形態で、今にも形は息づいている。

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 コンパクトで楽に観られることもあって、母も喜んでくれて、なかなかよかったですね。

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『御伝鈔』(2)第一段③~比叡山での勉学~

第三節 比叡山での勉学
 『御伝鈔』上巻の第一段「出家学道」を三分科した第三節は、わすか九歳で得度された聖人は、その後、比叡山で天台宗の奥義を究め、そして横川で源信僧都の流れを汲む浄土教を学ばれたことが記載される。

「しばしば、(1)南岳・天台の玄風を訪ひて、ひろく(2)三観仏乗の理を達し、とこしなへに(3)楞厳横川の余流を湛へ、ふかく(4)四教円融和の義にあきらかなり」

という一文だが、聞きなられない難しい言葉が並んでいる。
(1)「南岳・天台の玄風」とは、中国天台宗の祖師、南岳大師慧思(515~577)と、その弟子天台大師智顗(538~597)によって説き明かされた奥深い教え。
(2)「三観仏乗の理」は、天台宗の根本的な教え。空・仮・中の三種の観法によって、生きとし生けるものが悟りを開くという教え。仏乗は、一仏乗、一乗。
(3)「楞厳横川の余流」とは、楞厳とは、首楞厳院の良源上人、横川とは源信僧都で、共に比叡山の碩学であり、浄土教の大家。特に源信僧都の流れを汲む浄土教ということ。
(4)「四教円融の義」は、天台宗の根本的な教え。蔵・通・別・円の四教を立て釈尊の一代の教説内容を判別(教相判釈)し、その究極である円教の内容を三諦円融の理で解説。

 つまりは、天台宗の教学を実践的に探求され、その教判論、化法の四教の中、円融無碍の道理を説く天台円教に精通されていた。そして、横川の源信僧都の浄土の教えも学んでおられた。比叡山三塔(東塔・西塔・横川)のうち、横川で勉学修行に励んでおられたということである。

この文からはこれ以上のことはわからないが、他の文献から補足して考えると、

 比叡山での修行は、伝教大師最澄の定められた『山家学生式』によると、十二年間、山に籠もり、勉学と修行に励む籠山の決まりがあった。
 最初の六年は、聞慧(学問)を主として、後の六年は、思慧(深い思索)と修慧(修行)を行うというのだ。修慧(修行)は、天台の代表的な修行の中でも、「止観業」は、天台大師が『摩訶止観』の中で成仏道として示された四種三昧(常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧)が中心となっている。 

四種三昧のうち、常行三昧とは『般舟三昧経』に説かれる般舟三昧と呼ばれる行法である。諸仏現前三昧、仏立三昧とも呼ばれている。一定の期間(九十日間)、口に称名、心には常に阿弥陀仏を念じながら、昼夜を問わず、ひたすら堂内の阿弥陀仏の回りを歩き続けるので、常行といわれる。十方世界の無数の諸仏方が、行者の目の前に立ち現れてくださるという禅定の境地をめざしているのである。

 親鸞聖人も、比叡山を降りられる二十九歳の時には、常行三昧堂の堂僧をされていたことが、恵信尼公(奥様)のお手紙から窺える。

 「この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠もらせたまひて、後世のこといのりまうさせたまひける、九十五日のあか月の御示現の文なり」(『恵信尼消息』814) 

 これは、次ぎの第二段につながるのだが、この自力の行を捨てて、法然聖人の専修念仏の一行を選ばれる。二十年間の自力の行をすべて捨てて、他力に帰することは、一大転換の決断であったのだ。修慧(修行)の意味では、比叡山でのすべての自力の行を捨て、他力念仏の一行を選ばれたのである。

 その意味では比叡山二十年間は捨てものであった。

 しかしである。その学びはまったく意味がなかったのか。聖人の著述(特に『教行証文類』)には、天台教学の影響を感じさせられる箇所がある。聖人は二十年間、比叡山という環境の中で勉学に励まれて、以降の学びの基礎を形成されたのではないか。しかもそこに留まることなく、他力易行の教えに出会ったことで、天台の教学を超えようとされておられるのである。たとえば、『行巻』の一乗海釈(誓願一仏乗)などは、天台の教判を超えようとされているのはよく分かる。この文にあるように、比叡山での二十年間で天台の本覚法門を学び尽くされたのではないか。同時に、横川で源信僧都の浄土教えに出会い、法然聖人へ続く道が開かれていくのである。

 二十年間の自力修行は捨てもの、その無効性ばかりが強調されるが、一方で、比叡山の二十年での勉学によって、『教行証文類』などを著述される基礎が、この時代に形成されていくことを見過ごしていたことに、この一文で気づかされたのである。

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『御伝鈔』(2)第一段②~出家得度~

第二節 出家得度
 親鸞聖人伝記に、史実もしくは定説と、伝承とが混在して広まっている。

 誕生においても、承安三(1173)年に生まれられ、父親は日野有範ということだけが、没後33年目に曾孫の覚如上人の記述である。生誕日、生誕の正確な場所、母親の名、幼名などは、江戸時代にかけて伝承されてきたものである。それによると、

 お誕生は「4月1日」(新暦5月21日)であり、その場所は、京都南部の「日野の里」。日野氏の氏寺、法界寺の国宝阿弥陀仏像が、幼き頃の聖人が拝まれた念持仏であると言われて、隣接地に日野誕生院が立っている。また母親は、源氏の流れを汲む「吉光女」と呼ばれて、幼名は、「松若麿」というのが、今日でも広まっている。
 また得度の契機として、四歳で父親、八歳で母親を亡くし、無常を理を感じて出家を決意したというのが伝承である。

 しかし実際、父親の早くに逝去されたのではなく、その後も生きていたことが本願寺の資料で確認されている。何らかの事情で政変に巻き込まれ隠遁して、姿を隠さざるおえなかったという可能性が指摘されている。聖人の得度の前年、源頼政が、後白河法王の第三王子である以仁王(もちひとおう)を担ぎ、平家討伐の挙兵(1180)するも、宇治平等院での戦いで戦死している。その以仁王の首実験をその学問の師であった聖人の叔父宗業が行ったという。叔父達(父親の兄弟)は後白河院に近く、後白河院も謀叛に関わったのではないかという嫌疑がかけている。日野や里や三室戸は、その宇治平等院の近くでもある。長男の親鸞聖人だけでなく、兄弟たちも全員が出家していること。父親ではなく、父の兄、日野範綱が聖人や兄弟たとの養父として、得度の後見人として付き添っているのことからも、何らかの事情が考えられる。

 日野範綱は、後白河上皇の側近で、その当時、従四位、式部大輔、兵庫頭、若狭守などを歴任していた。

 得度の師匠は、慈円慈鎮和尚である。慈円僧都(1155~1225)のことで、没後、慈鎮和尚と称されいる。父は、摂政関白、藤原忠通(法性寺殿・1097~1164)で、兄の関白、九条兼実(月輪殿・1149~1207)は、法然上人のバトロンとなるのは有名(『選択集』が書かれる機縁となる)である。慈円僧都は、この後、天台座主に四度もついている。また『愚管抄』は、この時代を代表する有名な著述である。

 親鸞聖人の得度は、養和元(1181)年春、九歳で、彼の住坊で行われている。現在の粟田口の青蓮院にあたる。叔父範綱に介添えされて、範宴少納言公と名のったと述べている。「範宴」が法名、「少納言公」が公名(きみな)=貴族の子弟が出家したときの通称名である。

 その際、正式の出家は十五歳以上だと断られると、夜半にも変わらず、その場で剃髪・得度式がおこなわれるのは、聖人の伝承の中でも有名である。その故事にならって、今でもお東では九歳で、お西では十五歳以上から得度となるが、西の得度式も、夕方から行われている。その時に詠まれたとのが、 

 「明日ありと 思うこころの 仇桜(あだざくら)
    夜半に嵐の 吹かぬものかは」

これに対して、慈円は歌を返しているとも伝えられているが、こちらは聖人の歌ほど有名にはなっていない。

 「この山の 法の灯(ともしび) かかぐべし
    末頼もしき 稚児の心根」(慈円の返歌)

 いずれにせよ、両親の死去ではなく政変に巻き込まれたとしても、世の無常、虚仮不実を感じさせることが、幼い聖人の上に起こったのは事実で、九歳にして、ご両親と別れて厳しい出家の道を歩まれることになるのである。

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『御伝鈔』(2)第一段①聖人の家系に驚く

 『御伝鈔』は、上巻の第一段「出家学道」に入った。絵図は、九歳での出家得度の場面だけを2図で描いているが、内容としては、次の三分科されている。

 一、親鸞聖人の出家前の俗姓は藤原氏、藤原鎌足の流れを汲む日野家であり、父親は日野有範と申される。
 二、しかし、仏法宣布のご因縁によって、九歳の春、叔父日野範綱卿に伴われて、慈円(慈鎮)和尚の住坊(現在の青連院)で得度を受け、範宴と名のられた。
 三、その後、比叡山で天台宗の奥義を究め、横川で源信僧都の流れを汲む浄土教を学ばれた。

 第一節は、親鸞聖人の家系が仰々しく述べられている。親鸞聖人の俗姓は藤原氏で、藤原鎌足の流れを汲む日野家、父親は日野有範公。もし聖人が朝廷に出仕したなら高位高官が約束されておられたというものである。
 正直、煩わし表記だ。本来、割注と言って本文とは別した註釈で、その人物の役職や説明を記載されていた箇所が、書写中に本文に紛れ込み、ややこしい文章になっているのだ。整理すると以下の流れとなる。

 「天児屋根尊」(記紀(古事記と日本書紀)神話に出る神。中臣・藤原氏の祖神)から始まり、(二十一世後)に、藤原氏の祖である「藤原鎌足」公が出て、その玄孫(やしゃご)である「内麿」公…(六代略)…「有国」公…(五代略)…「有範」(皇太后宮大進)の子としてお生れになったというのである。そこに官職が入ると次ぎのようになる。

 天児屋根尊……(二十世略)……(1)藤原鎌足(大織冠・内大臣)-(2)不比等-(3)房前(贈正一位、太政大臣)-(4)真楯(大納言、式部卿)-(5)内麿(近衛大将、右大臣、従一位、後長岡大臣、閑院大臣)…(六代略)…有国(ヒツギの宰相)…(五代略)…有範(皇太后宮大進)-範宴=親鸞聖人

 これは日野家、特に親鸞聖人の直系の流れとなるものだ。確かに家柄を仰々しく語ることは、どうも親鸞聖人の精神とは異なる気がして、冒頭から躓きそうになる。しかし、今回、初めて一つ一つの語句を、辞書や古典を開いて調べ直した。「大織冠」とか、「皇太后宮大進」とか官職にしても、「霜雪をも戴き」「射山にわしりて」との表現にしても、一つ一つ調べると面白かった。たとえば、「射山にわしりて」の「射山」とは、院の御所、仙洞御所のこきで゛「わしりて」とは、「走り回る」という意味があるのだ。

 また仰々しく見せていても、偽りの記述ではない。たとえば、父親の官職は、皇太后(先の天皇の皇后、今なら美智子さま)付きの第三等官に留まったと記されている。清少納言は『枕草子』のなかで、「見ると特に何ともないが、文字に書いたら大げさなもの」として、「皇太后宮権の大夫」(ごんのだいふ)の役職を挙げている。その「権の大夫」は、「大進」の上官にあたるのだが、それでも大したことはないものだと清少納言は記している。つまり、日野家は中流貴族だったが、父の有範は低い官職に留まっているということだ。通説では、聖人の幼少期に死別したと伝わるが、実際は、何らかの政変により、若くして宇治の三室戸に隠遁したと観られている。聖人の兄弟すべてが出家しているのそのためだと推測されている。

 同時に、親鸞様の末娘の覚信尼公が祖母となる覚如上人は、親鸞聖人の直系の孫である如信上人からの面授口伝を強調されて、本願寺の第2代目に据えておられる。だからこそ直系の家系にも関心があったのだろう。今日の日本では家柄や血統の影響は少ないが、当時としては、今の私たちからは想像がつかないほど重要なファクターだったのだろう。

 そして今回は、参加者の中に、歴史の専門家の方がおられて、詳しく藤原氏の流れを説明くださった。特に、(3)房前公-(4)真楯公、そして(5)内麿公の功績や関係性の大切さである。彼は、この御伝鈔の記述のおかげで、もう一度、仏法を聞こうという機縁になったことを感銘深く話してくれた。その話を聞いて、初めて、煩わしかった系図がどことなく馴染み深く思えてきた。もう房前や真楯の名前も忘れないだろう。南無阿弥陀仏
 

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東海支部法座~徐々に試運転の巻~

  コロナ以降では、7月に続き、2度目の東海支部法座は家庭法座である。ホールなどの会場は、音響も、ホワイトボードやイス席などの備品も、またトイレなどの設備の面でも、便利ではある。しかし、家庭法座には家庭法座の良さがある。その家のお仏壇での勤行から始まる。また施主の方の違った面もかいま見ることができる。なによりも気兼ねなく法話ができることが有り難い。

 内容は、本願文と条呪文との関係についてである。10月に入って、東京、高山、広島、東海と続けて法話しているので、話すボイントや皆さんが関心くださるところもつかまえるようになってきた。しかし、聞く方は初めてだと難しい法話だったと思うが、言葉ではなくその心をしっかりとご聴聞いただきたい。「聞其名号 信心歓喜、乃至一念」の一文こそが、体験的も教義的にも、腹を造らせてもらう重要な要であるからだ。

 コロナ対策で、4~5名程度のグループに分かれた座談も、なかなかよかったし、最後の全体会の質問も、意味あることだった(詳しくは述べられないが)。法座も終わり、大半の方はおお帰りなったが、「もしよければ、ここで一杯飲みませんか」とのお誘いがいただく。「まだ聖典講座の準備がありますから」とお断りした。懇親会はないと思っていたのだ。靴を履いた玄関のところで、再び引き止められた。
「30分間だけ、ビール一杯だけでも飲んで帰られませんか? 初参加の方も残られますよ」。

  永代経法座で初参加の方が残られている。結局、誘惑に負けて残ることにした。といっても、これまでに比べると、人数も、内容も半分以下のミニ版である。それでも、残った以上は、30分で帰れるとは思っていなかった。案の定、美味しそうな吟醸純米酒が何種類か用意されていった。それでも、発言時にはマスクを付けながらでも、楽しく飲ませてもらった。こちもら、ジワリジワリと試験走行で進んでいる。コロナ自粛のこと、皆さんが以前所属されていた会のことで、ずいぶんと盛り上がり、さすがに30分は無理でも、早めに引き上げることにした。その後、居残った皆さんはすいぶんと楽しまれたようだ。

 お世話になりました。

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恐るべし『鬼滅の刃』、でも『スパイの妻』を観る

  久しぶりに大手のシネコンで映画。大型ショッピングモールのエレベーターがあいて、映画館のフロアーに入った瞬間、目を疑った。正月やGM中のような大勢の人(若い人が多い)の熱気で溢れていたのだ。特別な日ではない、平日の金曜日の午後である。でも、その原因がすぐわかった。「鬼滅の刃」の新作の公開初日だったのだ。この映画館でも、15分おきに上映されて1日で35回以上のフル回転である。それが全国の大手シネコンのすべて行われているのだ。まだ座席は半分のみとはいえ、興行収入の新記録になるのかもしれない。
 3月や6月には、このシネコンで観客がたった一人で観た映画があった。今は、京都シネマなどでは100%の座席での上映が始まり、かなり人出は戻ってはきている。でもこの賑わいは、コロナ禍の中では初めてではないか。恐るべしである。

 でも、ぼくが観たのは『鬼滅の刃』ではない。今日が初日のスパイの妻』 。黒沢清監督がヴェネチア映画祭で監督賞を受賞した話題作ということで、満席に近かった。といっても50%なので両隣は開いているのでゆったり観ることができる。

 太平洋戦争突入前の神戸で、裕福な貿易商を営む夫婦主人公。当時としては、てはかなり進歩的な国際人で、暗い時代に逆行しながらも優雅に生きているが、偶然(ほんとうに偶然なのか不明だが)、仕事先の満州で捕虜の人体実験という恐ろしい国家機密を知り、その証拠も手に入れてしまう。祖国を裏切ることになっても、人道的な正義を貫くために、国家に反逆する行動を起こそうとするのである。

 「お見事!」という評も多かったが、ぼくとして悪い映画とは思わなかったが、物足りなさを感じた。決して、面白くなかったとか、嫌いとかではないの。ただ映画のティストの好き嫌いの問題で、この手の演出や手法がいいと思う方にはいいのだろう。憲兵隊に厳重マークされながら二人だけでやすやすと事が進んでいたり、かなり緊迫感のある状況なのに、ハラハラ感やドキドキ感を感じさせずに淡々と進んでいく。夫婦共々、大義(正義)をなす為に、愛する人や大切な人を簡単に差し出していくことに、葛藤や戸惑いをまったく感じさせず(それを超えたところで訴えるものを観るのだろうが)、どうも感情移入しずらく、淡々と見ている感じがしたからだ。
 全編、映像(フィルム)がキーワードになっていて、重要な場面では光と闇が交錯している。731部隊を彷彿させる映像や拷問場面もあるところが、胸を締めつけられた。

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『善き知識を求めて』~友の言葉に~

 仏書に親しむ会は、『善き知識を求めて』に入っている。『仏敵』と合せて読むべき書であるが、『仏敵』で終わる人も多い。続編でもあり、前篇でもある姉妹編だ。『仏敵』が、獲信に至る数日間、広く観ても2ケ月程度の出来事を求道小説として綴られているのに対して、『善き知識を求めて』は、伊藤先生の少年期、青年期の心境の遍歴、そして野口道場での求道と獲信を『仏敵』より簡潔に、自伝風に述べられている。その「前半は、体験として南無の機となって風光」であるならば、「後半は、その理解を深めるための信後の悩みである」と、伊藤先生も後記で語られている。

 今回は、まだ野口道場に至る直前の大学生(仏教大学)時代の伊藤先生の,未熟な信仰遍歴の部分である。一部、同室者の北海道の資産家の息子、宮村青年(仏敵では、北村として登場する)とのやりとりは、仏敵にもあるところ。

 信仰書を乱読するも,日本には求道の指南車となる書物がないこと(これは『仏敵』を書かれた動機のひとつ)、次は西洋哲学に傾倒したあと、紙の教会から、耳で聞く説教を聞き漁られる。そして頭が下がたり、念仏が溢れ慈悲に触れてみたりで、これが信心かと思ってみたり、救いの声は聞こえないかと、夜の大谷を散策したりと、求道者のお決まりのコースを辿られる。しかし、これはすべて「観念の遊戯」あると捨てられて、今度は身をかけた実践として、身ひとつでの行脚(早い話が無銭旅行)を何度か試みられるが、焦っても、信心の智慧がなけれは意味がないと、これもまた捨てていかれる。つまり、信仰書を読もうが、説教を聞こうが,身をかけて聞法しようが、まったく何を聞くのかの焦点が定まっていない。それは、迷いの一点を破してくださる善き知識との出会いがないからで、信仰の上でもフラフラと定まらないのである。しかし、それは予期せぬできごとから転機が訪れる。大学での同室になった宮村君とのエビソードへと続くのだ。特に、彼との決別となった時の、放蕩者のだと軽蔑までしていた彼の言葉が大きな意味を持つのである。

「ぼくはこうしていても、丸三年というものは、聞其名号の「聞」の一字を求めて、人知れず泣いてきたのだぞ」

の一言である。

 この章は、「友の言葉に刺激されて」とあるが、この言葉に会って、伊藤先生は飛び上がって驚かれている。

 「ああ! 私は声も立てず机の上に頭を伏したまま、あまりに恐怖に近い懺悔心で、ブルブルと身体中を震わせていた」と。 

 この一言の2週間後に、伊藤先生の精神生活に大きな転機が起こる。野口道場でのおよし同行との出会いである。


 次回は、「善き知識を求めて」「御同朋に導かれて」の章にはいる。

 11月3日(火・祝)18時50分~21時

 昼間(13時30分)から、華光輪読法座を開きます。祝日なので、3日はダブルヘッダーを組みました。奮ってご参加ください。

 

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10月の広島支部法座

台風接近中で雨が続く。新幹線の計画運休が予告される。広島は台風の影響はないが、交通には影響が出る可能もある。その場合、京都から、朝、昼共にZOOM法話ではどうかという相談もできた。これもコロナ禍の副産物で、今年の春までは想像もしていなかった。ただ台風は、日本列島を前にUターンする珍しいコースを通り、前日の昼に計画運休の中止が決まり、予定通り広島法座を開催することができた。

 コロナとZOOM対応で、広い会場。その割に参加者は少なく寂しかった。支部のZOOM配信も、機材トラベルや途中で切れたり、うまくつながらないなどトラブル続出で、担当者はたいへんそうだった。しかも終始、手持ち中継で、ぼくもどとこなく落ち着かなかったが、法話が乗ってくるとお構いなしに話続けた。でも、世話方の心は、ZOOM配信の奪われていたようで、お疲れさまとしかいいようがない。次回には、ぜひ善処をお願いします。

 広島では朝座、「肚を造る」の巻頭願を輪読されたという。それを受けたわけではないが、ご法話は「本願のおこころ」。第十八願と成就文との関係を、伊藤、増井両先生のご指南によっていただいた。この一点が、ぼくが領解する師業口伝の要であり、ご法喜んだあとに、「伊藤先生のものをしっかり読み肚を作れ」との知識のお言葉に順わせていただいたところである。その意味では、ここで聖教量と現量が一致するところでもある。ところが、参加者の中には、そこが理解できないといわれた方があった。たとえすばらしい体験があったしとても、聖教量とバラバラでは、いくら仏法を喜んでいると言っていても、自己満足の喜び、独善的な信仰で留まってしまう。逆に、理屈を覚えて理論で固めても、現量の妙味がないと空しいだけである。

 「聞」ひとつ、他力回向信の一念で、すべてが済んでしまった不思議を、肚の底から喜びあいたいものである。 

 

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飛騨の旅(3)安国寺~千光寺

 三ケ寺の本堂が閉まっていたので早めに切り上げて、国府町の安国寺へ向う。経蔵は、飛騨地方にある唯一の国宝建造物でも、回転式の経蔵もみたかった。一切経がおめさられていのるである。ところが、せっかく訪れたのにコロナのために拝観停止中との張り紙。HPにはそんな情報はなかったが、ここも境内内だけの拝観となって、残念。国宝の経蔵の外観は拝観できたが、楽しみは次回へ。

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<境内にあった写真でご勘弁を>

 再び、法座会場のF家前を通って、千光寺へ。真言宗の名刹だが円空仏で有名だ。丹生川町なので少し山間に入っていく。用心して厚着をしてきたが、それでもかなり寒く、雨も降って不自由だ。でも、ここまで来たのだからと登っていく。ところが円空仏寺宝館は「土曜・日曜・祝日のみ開館」の張り紙。ああ、残念。せめて本堂だけでもお参りすると、ここは拝観を行っていた。先客が一名が帰られるところで、誰も参拝者はいない。それでも、「これから宝物館も開館します」とお返事。ご住職は著書も多く有名の方で、瞑想や入門のワークを手がけておられる。昨晩も、その半生をFさんから教えてもらっていたばかりだ。

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 本堂をお参りした後に、寺物館へ。円空仏は、下呂の宝物館でかなりの数を拝ませていただいたが、ここは数は多くないが、粗削りな三十三観音、両面宿儺(りょうめん・すくな)像は、円空の代表作。宿儺は、飛騨の豪族で、伝説ではこの千光寺の開基といわれる人物だが、日本書紀では、顔が二つに、手足が各四本ずつ怪物、逆賊として大和朝廷に成敗されたとある。もちろん、あくまでも中央の勝者の史観であって、実際は、飛騨や美濃では「スクナ様」と崇拝されている。この宿儺像も、柔らかい愛嬌のある表情で、怪物には見えない。合せて、円空の画像や書なども展示されていた。

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 寺宝館をわざわざ開けていただいたと恐縮していると、なんのことはない。入館とほぼ同時に団体の来客。バス3台での小学生が、ガヤガヤと入ってきて、とても賑やかになる。久しぶりに密な空間を味わわせてもらえたが、同時に宝物の説明を聞かせてもらえた。岐阜市内の小学校の修学旅行で、コロナの影響で県内をめぐる旅行に縮小されたという。次ぎに訪れた高山の古い町並みでの買い物中にも遭遇。グループでの自由行動で、一層、楽しそうな歓声を上げていた。どこにいっても友達と一緒なら楽しいのだろう。これも今年ならでは風景。

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飛騨古川探訪(2)~三寺参り~

  飛騨古川は,、会所の高山国府町の隣町にあたる。でも、これまで訪れたことがなかった。高山の浄土真宗はお東が多いが、古川はお西の三ケ寺が、報恩講のお逮夜(1月15日)の三寺参りは、飛騨地方の風物詩にもなっている。古い街並みに大きなロウソクが灯れ、晴れ着で着飾った独身の女性が、良縁を求めて三寺を順番にお参りするというのだ。真宗の教義とは関係ないが、この地域独特の背景があるようだ。お逮夜の日、訪れたいところである。

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<旅館から本光寺を望む>
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<ああ、野麦峠の碑>

 平日、しかも雨が強く降っていることもあって、街はひっそりとしていた。しかもは肌寒い。三寺は、どこも立派な伽藍である。境内も広い。ただし、防犯上の理由か、三寺とも本堂は施錠されていて、本堂の外からしかお参り出来ずに、残念。それでも浄土真宗の境内では見たことのない珍しいものを発見。この三寺を回って、スタンプを集めるとご利益のあるお守りが作れるという掲示が、各寺のお賽銭の箱の側に掲示されていた。庄松さんなら、「間男見つけた!」と叫んでおられたであろう。

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<円光寺>
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<真宗寺>
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<本堂前に掲示中!>
 一応、お寺は関わらない観光協会の企画の体をとっており、あくまでも風習として目くじらを立てまいというところか。中には御朱印を授けるお寺もあった。真宗の教えの上からは、お守りも御朱印も逸脱度が高いように思えるのだが、本山に楯突くことがないのなら、非難されることもないということか。それでいて、まともな安心の主張は異端視される教界の風潮は、俗世間そのものではないか。結局、このあたりが一般の浄土真宗のご信心の内実であって、俗信を出ることができないのであろう。
 これは旅とは関係ない、愚痴でした。
 とても寒い三寺参りでした。南無阿弥陀仏
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<広瀬精一師寄進の聖人像は立派だが、>

 

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飛騨古川探訪(1)~恩恵~

 法座の会所になるF家での懇親会。F兄弟とぼくたち夫婦の4名。ブレミアムビールに、飛騨古川にある有名な二つの酒蔵の銘酒、ワインも振舞われ、最後はハイバールを飲んでいた。初物の地元産の松茸まで頂いた。でも、一番の肴は、法義話。手放すところの味わいを喜べる法友である。珍しく連れ合いが一番にダウン。気がつく2時近くになっている。こんな感じでの法座での懇親会は、3月の日高支部法座以来である。幸い、いい酒は翌日に残らず、法座に臨むことができた。

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 さらにGo To トラベルを使ってもう1泊、飛騨古川に宿泊。安政年間に創業された老舗旅館で、今の建物は明治に再建された商家が元。しかし、ただ古いだけの不便さはなく、内部にはエレベーターもウオシュレトが完備され、雰囲気は残しながらも不自由を感じせることはなかった。そして、自然な感じの接客がよかったし、料亭だっただけに料理も美味しかった。

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  もちろん、ここでも飛騨古川の銘酒の飲み比べをした。
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 翌朝、雨の中、古川の古い街並みを散策し、酒蔵も訪ねた。蒲酒造の白真弓と渡辺酒造の蓬莱なら、蓬莱が好きだ。高山ではコンビニでもスーバーでも飛騨の銘酒が並んでいる。中でも蓬莱をが一番よくみかける。しかし、質が落ちないように生産量を絞り、地域限定になっていて、あまり京都では流通していない。飛騨の地にこなければ手に入らないのである。その中でも、直接、酒蔵に来ないと入手できない原酒を購入。

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 連れ合いは、日本酒ガチャに挑戦するもの、値段以上のものは得られず。
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 他にも地域クボーンで買い物に苦労したりと、何かとGo To トラベルの恩恵を受けた旅でした。

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今年初めての高山法座

 昨年の12月以来、久しぶりの高山支部法座だ。

 3月、法座の中で最初に中止となってから、8月も前日に中止になって、今年、まだ支部法座が開かれていない。それで、イレギュラーだったが1日の平日法座を開いてくださることになった。ただし高山の方限定である。最近は、高山以外の参詣者が多いのだか、今回は感染リスク避けることを優先された。

 1日だけの法座だが、前夜からお邪魔する。夜は、F家での四十九日法要を兼ねた法座。8月の支部法座の予定日に葬儀があったFさんのご縁。
 有り難いことにご家族の皆さんがお念仏のご縁をいただいておられる。お孫さんも,手次寺を通じて法名も頂かれ、基本的な教学の勉強をされておられたのには、驚いた。まだお若い(30代)のに、今日の真宗の中では尊いお方である。しかし、20年以上、年4回もの華光のご法座が真向えの家で開かれているが、この10mの距離は随分遠いようだ。もう一歩のお勧めがなかったのたが不思議なほど、熱心ではある。しかし,信仰の上では世俗的なレベルに留まっておられるのでほんとうに勿体なく思えた。

 亡くなったおじいちゃん、おばあちゃん、そしてお母さんが、熱心に京都や各地に泊まり掛けで参詣されておられる姿に触れておられる。特にFさんは、「法話ビデオの撮影は、悟朗先生、いや如来様から頂いたお仕事だ」と、最後の最後まで、まさしく老体に鞭打ってその使命を全うしてくださった。私たちにとっても、大きなご恩のある方だが、家族の方にとっては、ご法にかける姿勢、その後ろ姿から何かを感じてくだされば、有り難い。

 現に今日の仏縁は、Fさんのお働きに他ならない。子どもの聖典にある「私・ご恩・仏様」の内省の世界について法話をする。お正信偈、そして40分の法話の間、ご主人も、お孫さんも、一番前列で、正坐しままごご法話を、頷きながら拝聴くださった。次ぎの一歩へとつながることを切に願って、法話を結んだ。南無阿弥陀仏

 

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決算

 高山法座の前に、福岡から会計担当のYさんが来館される。

 9月が決算月にあたる。今年度の前半(10月~3月までは)は、なかなか好調な滑り出しだった。ところが、例のコロナで、3月下旬から法座や出講が次々と中止となる。4月、5月は、会館も開店休業状態で、このまま自粛が続くとどうなるのかと、かなり心配させられた。幸い、5月下旬から人数を絞りながらも、法座を予定どおり開くことができた。さらに、苦肉の策で始めたZOOM配信法座が思わぬ好調で予想外の成果やつながりを生み出している。また財政を心配くださる方が、定額給付金をご喜捨したり、永代経法名軸に記載くださる方も例年になく多かった。さらに珍しく同人の方の葬儀も続いて、心配から一転、7月以降は好転するという、またしても予想外の結果となった。
浮いたり、沈んだり、また浮いたりと変動の激しい1年になったのは、何処も同じだろ。その中でも。皆様のおかげで困難な時を乗り切る頃が出来たのは、有り難いことであった。

 もちろん、来年度(10月以降)はどうなるかは、まだ誰にも分からない。当然、予算書の作製も難しかったが、とにかく例年並の計画を実施でき、赤字にならないように乗り切っていければと願っている。

 なお、総会は初めての書面開催となります。ご注意ください。


 

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東京支部法座兼法話会

 6月、8月に続いて、zoom開催となった東京支部法座。今回も華光会館での法話会と並会し、その模様をzoom配信する。だから京都、大阪の方は恩恵を受けておられる。
 前回から東京支部でも、各自宅でのzoom参加だけでなく、林野会館に集って法話会として開かされている。今回は、自宅派よりも、林野会館に集合組が多かった。しかも、初めての方、2回目の方なども複数参加されている。この調子なら実際に法座を開かれる時も近い。

 ZOOM法座にはZOOM法座のメリットはある。海外や遠方の方、コロナの中で参加したくても参加できない方のご縁を、環境さえ整えば気楽に結ぶことができる。しかし、所詮、自宅での聴聞では、自分の枠から出るのは難しい。永代経法要でも実際の法座の尊さを感じた。実際、自宅を出て会館までくる間も聴聞であり、Zoom法座では味わえないものがあって、法座はまったく別物だったという声が多かった。気楽さや便利さ、もしくは必要な方にはお勧めだが、このあたりの本末を間違わないようにしないと、ますます懈怠に留まってしまう。これは費用面でも同じことだ。高い交通費や宿泊費もかかる。その時でも、今生の値段の高い安い(費用対効果で、コストパーフォマンスが優先、得か損か)の物差しと、仏法の財施の物差しとは別ものなのに、いつのまにか仏法も今生事の物差しで計っていくようになると、本末転倒。このあたりは、仏法を喜んだ人に会わないと、自分の損得の物差しからは出でこないのである。

 特に、今回は本願の心の核心である。ZOOMで気楽に聞く話ではなかったと思うし、単なる実感レベルの味わる話ではないので、かなり気合いをいれてもらわなければ分からないところである。第十八願と本願成就文については、伊藤先生から続く華光の伝統での解釈である。まさに師業口伝の核心である。さらに至心釋を中心に、仏願の生起本末を聞くことでるある「機無・円成・廻施」についてである。
 
 参加者から、「こんな話を聞かされたら、リモートではなく実際の法座に出たこなけれどと思わない人はないのではないか」という声までいただいた。もちろん、法話でだけでなく、そのあとの分かち合いもしっかりさせてもらってこそ、法座なのである。

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悔いのない人生を歩んでいるか?

 ここ数日間、直接面談、電話やZoom、またはメールと使用するツールはさまざまだが、いろいろな方から信仰や悩み事相談が続いている。

 事情があって会を離れる方もあれば、人生の大きな決断を考えておられる方もある。もしくは、自己の信心に対する不審を、率直にお話くださる方もある。ただテーマは違っても、表面的な質問や疑問ではなく、その人自身の一端に触れるような重いテーマを率直に話してくださることがうれしい。その方が歩んでいる道の、ほんの瞬間、一瞬だけの道中ではあるが、共に同じ道を歩ませてもらう同行だと感じさせらてもらえるからだ。

 人生は、選択の連続だ。毎日、毎時、一瞬、一瞬を選択し生きているのである。その中でも、転機というべき大きな選択、決断をする必要もある。しかも、今日の社会は、間違わないで正解の道を常に選択し続けることが求められる、目に見えない圧力を誰もが感じている。もちろん、その正解も所詮、社会が作り上げた幻想にすぎない。儲かったり、楽だったり、多数だったり、効率的だったり、社会に迷惑をかけないことだったり、要は、賢い選択をせよという圧力だ。そして私たちは、その選択のプロセスでその他者の視線の影響をうけて、「この場合、何が正解なのか」と悩むことも多いのだ。

 しかし、私は、他者の視点を生きているのではない。まぎれなく、私自身が得難い人間の生をうけ、そして限られた命の中で歩んでいる以上、自分の力で決断をしてもらいたい。そしてその結果がどう転ぼうとも、自らが選んだ以上、悔いのないものであってほしいと願うのだ。そのためにも、自暴自棄で決めるのでも、マイナスの気持ちのときにも大きな決断してはいけないという鉄則を、こころに留めてほしい。そしてかけられる時間があるのなら、うーんと悩んで悔いのない道を選んでもらいたいのである。

 そう伝えながら、結局、ぼく自身はどうなのか自問をする。

 ほんとうに悔いのない人生を、いま、歩んでいるのかと。
 

 

 

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運営委員会

 華光大会や総会に向けて、運営委員会をZOOMで開催する。

 先の永代経法要が慣れない分散開催で、お世話も戸惑うことが多かった。その反省から早めに打ち合わせを行う。華光大会も、同じように人数を限定的した分散の大会となるからだ。法要はないが、総会がある。それも一同で会せないとなると、どうように開催するのか。Zoom法座にしても、感染拡大の対策にしても、従来と異なる進行も多くて、なかなか難しい。来年の事業や計画を立てるにしても、先のこと(冬期の感染状況)は分からない。今年は、5月以降の事業計画を大幅に変更さざる終えなかったのである。

 合せて、運営委員会の人選についても相談した。運営委員会の任期は2年だが、法座の行事係を除いて、副と正の運営委員は、重任を妨げない。ある程度の継続性が求められからで、副から正になってもらうと、6年ないし8年という任期になってしまう。長年お願いしていくと、事務方は楽ではある。一からの説明が不要だからだ。しかし、それでは特定の方に負担がかかり続けるというデメリットがある。また馴れ合いになって、人材の発掘や成長という意味では、新陳代謝が活発な方が組織は活性化されるのではないか。その意味では、副が3年、正で3年程度の6年が適当ではないかとも思えている。このあたりは、明確にルールを作っておいたほうがいいのかもしれない。

 会の運営、中でも大きな行事の運営には、この運営委員の皆さんの活躍が不可欠である。長年、こうして法座が支えられてきている。

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ご注意 華光大会も二部制で!

 さて、華光誌には、新年号の「年賀広告」と「華光大会の案内」が同封されている。

 特にピンク色の「華光大会の案内」は、よくご熟読いただきたい。前期・後期制度での四日間での「永代経法要」の結果を受けて、急遽、三日間での「華光大会」に変更したのである。それで、華光誌の裏表紙の案内文(華光誌の裏広告は、前期日程のみ)とは、違った形で行うこととなった。
 前期=11月21日(土)昼1時30分~22日(日)夕4時30分
 後期-11月22日(日)昼1時30分~23日(祝)夕4時30分

で、いずれも4座ずつの法座である。ただし、22日(日)の法座は、前期・後期で重なる。それで、密を避けるために、60名が一カ所に集まらないで、予め決められた4カ所の会場に分かれての分科会法座を企画している。各部屋に座長を定め、その方がコーディネーとなって、事前に各部屋のテーマや講師を定めておいて、(当日ではなく予め予約していた)分科会に出席していただくという形式をとっていくつもりだ。詳しい企画内容が決まれば、参加者にお知らせするので、各自が申込みいただきたい。楽しみにしている企画で、いま座長を人選中である。

 また定員(通常の1/2以下)を設ける関係で、会員の参加費(1座500円)を、今回に限り改定することにしたので、ご了解いただきい。2日間で5000円となりますが、ご理解ください。これも裏表紙ではないご案内になります。

 また今回も、ZOOMでの発信を行います。詳しくは、同封のピンクのチラシか、以下のHPをご参照ください。定員があります。お早めに!

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2020/detail/11/kekotaikai2020-11.htm

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華光誌79-4号の発送

 華光誌79-4号を発送作業をする。事務所の二人と、家族三名での家内制手工業である。

 華光誌の内容はなかなかの出来だと自負する。

 誌上法話は、1月の報恩講での「弥陀回向の御名」。我ながら、いつもの関心やテーマが同じだなーと思いながらも、それが外してはならない大事なテーマでもあるのだと考えている。最後の『仏敵』の黒田青年の言葉ではないが、この六字だけですべて満ちて、満腹になる世界があるのだ。

 また誌上感話も前号に引き続いて読んでいただきたい。求道者の方が留まりやすい落とし穴を突破された味が尊い。信仰体験記も2名の方が始まった。
 伊藤友一氏の追悼記、そして同人会MLからの「聖典講座」と半日「子ども大会」の感想集も、ぼくは気に入っている。単なる感想ではなく、前のメールをうけた法悦がつながりっていくところが有り難い。
 どうぞ、ご精読ください。南無阿弥陀仏

 

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