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「御伝鈔」概要~9月の聖典講座~

  新規の聖典講座として『御伝鈔』を選んだ。30年も前に、悟朗先生が取り上げられているが、講義用のプリント作製されていない。

  皆さんに、『御伝鈔』のことを問う。一定数の方が御存じなかった。また覚如上人についても同じである。お名前は知っていても、業績や生涯についてはほとんど知らないという方ばかりである。今回は『御伝鈔』の最初の概説ではあったが、むしろ述者である覚如上人のことを取り上げた。覚如上人の略歴を細かく窺い、すべての著作の概論などに時間を割いた。とはいっても、簡単に基本的な『御伝鈔』の概説には触れておこう。

1)著者は、本願寺第三世宗主の覚如上人(親鸞聖人の曾孫)。作画は、康楽寺浄賀という方。

2)著された時は、永仁三(一二九五)年十月(鎌倉時代末期)で、親鸞聖人の三三周忌(ご往生から33年目)にあたる。覚如上人がまだ26歳の時である。ちなみに、その前年の親鸞聖人の三十三回忌法要に合せて、『報恩講私記』を撰述されるが、この時が本山での報恩講の始まりである。

3)題号は、もともとは(1)『善信聖人絵』(後に消失)で、永仁三(一二九五)年十月十二日に完成した。当初は、上巻六段・下巻七段の構成と考えられている。
 同年十二月十三日書写されるが、その時には『善信聖人親鸞伝絵』とされ、上巻六段・下巻七段で構成されていた。
 そして、それから四十八年後、補充改定こされ『本願寺聖人親鸞伝絵』となって、上巻八段・下巻七段で構成される。今日のよく知られた形になっている。

4)題号の「善信」とは、親鸞様が、法然門下の時に夢の告げにより「綽空」より改名された名で、善信房親鸞が正式名である。
「本願寺聖人」とは、大谷の影堂(廟堂)が整備されるに従って生まれた寺号で、覚師52歳の時に初めて使われるようになった。
「伝絵」とは、絵巻ものこと。初めてに詞書があり、次いで絵図の順序で繰り返される巻子本のことである。
 そして、その後、詞書が独立して『御伝鈔』となり、
 絵図が独立して「御絵伝」(絵伝)という縦長の掛軸となる。
つまり、絵と詞の巻物ものが「伝絵」、掛軸が「絵伝」、詞のみが『御伝鈔』と呼ばれている。
本山の報恩講(七ケ日)の間、「御絵伝」を掲げ、中日の初夜に『御伝鈔』を拝読。蓮如上人時代にはすでに記録されている。
 ▽「同じき十一月報恩講の二十五日に御開山の御伝(御伝鈔)を、聖人(親鸞)の 御前にて上様(蓮如)あそばされて、いろいろ御法談候ふ。なかなかありがたさ申 すばかりなく候ふ。」(『蓮如上人御一代記聞覚書』二八条)

5)その概要は、親鸞聖人のご一生の行状であり、最後に、大谷廟堂建立の縁起を現わした絵巻物である。
 創作意図としては、聖人のご遺徳に対する知恩報徳のためではあるが、同時に、その正統な後継者である本廟、すなわち本願寺独立の基礎を作ろうという意図がある。
        
6)その構成は以下の十五段であるが、 それぞれの段に、江戸時代に漢字四文字で命名されている。
 上巻(1)出家学道、(2)吉水入室 (3)六角夢想 (4)蓮位夢想、(5)選択付属、(6)信行両座、(7)信心諍論、(8)入西観察(定禅夢想)
 下巻(1)師資遷謫、(2)稲田興法、(3)山伏済度、(4)箱根霊告、(5)熊野霊告、(6)洛陽遷化、(7)廟堂創立

7)現存する重要な主な「伝絵」(七本のうち六本が重要文化財)を挙げて解説したが、ここでは省略する。

 今回は、『御伝鈔』を取り上げることにした。4)にも記したが正確には詞書だけでなく「絵伝」の部分も解説したい。会館でも「絵伝」のお軸を掲げた。また「絵伝」を解説したテキストを使うので、絵にも注目しながら頂きたいと思っている。

 

 

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