今年初めての寺院布教
今年、初めての寺院布教。4月~8月の間の寺院布教は、数件だったが中止か来年に延期となっていた。1年ぶりに奈良の教行寺へ。連れ合い、子どもも一緒。子どもは6年ぶりになると言っていた。会館から演台の前に立てるアクリル板も持参すに。コロナ禍ならではで、数年後には笑い話になってほしい。通常より間隔を空けての着座(それでも少しは密)だったこともあり満堂である。華光の方も遠近各地からお参りされたが、門徒さんも多かった。朝座は永代経の施主のご一家も座ってくださった。
朝座の法話は、基本的なところを丁寧に頂いた。
「弥陀の本願には、老少・善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすべし」と。
ご縁を大切にすることやご聴聞を勧めるお寺さんはたくさんおられる。しかし、もう一歩踏み込んで、何のためにご縁を大切にするのか。また聴聞を勧めるのか。そのことを明かにしてお寺参りにお出でになっているか。ご縁があったこと、聴聞が習慣になっことただけで満足してはいないか。もしそうなら、もう一歩踏み出してもらいたい。
後生に一大事があること。
そして、信心獲得の身となること。
ここを外した聴聞は、単なる仏縁にあったことを喜ぶレベルで終わっている。それなら義理参りや暇つぶしと大差はない。
では、後生の一大事とは何か。そもそも後生とは何か。何故一大事なのか。
また信心を頂く(たまわる)とは、世間の信仰とどう違うのか。何故、「信心を要とすべし」などかなど。
昼座は、四恩と、子ども聖典の「内省の世界」について。恩知らずと知らせてもうことほど、深いご恩徳はないのだが、みんなここを勘違いする。恩を知る立派な人にでもあると思っているのだろうか。改めて基本を押さえてお伝えした。門徒さんの反響は分からない。しかしここは蓮如上人のご旧跡だ。仏法繁盛の念仏の地であったほしいとの思いで、お話させてもらった。南無阿弥陀仏
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