仏の子供大会~蘇る原点~
というわけで、宿泊は無理でも、せめて1日だけでも仏の子供大会を企画した。先生役はIさんに、長女も手伝うので、ブラジルの生活のことを話すことになった。昼食は何にするか、連れ合いと娘がいろいろと検討してくれて、家族で試食もしてみた。ところが、近頃のコロナ感染の拡大である。京都でも、近くの小・中学校でコロナ感染が広がっている。大阪、奈良の方からキャンセルの連絡で、子供の数が激減。結局は、会食は止めて、普段どおり昼からの日曜礼拝(土曜日なので、土曜礼拝だが)となった。
それでも、セミの声を聞き、往生要集の掛け軸を背に、子供を前に法話をする。少しだけは夏の子供大会のモードになってきた。参加できない方のために、ZOOM法話を開放したら、30名以上の参加がある。幼児の方やあったが、大半は大人の方。会館にも20名近く参加があって、50名以上の方が拝聴くださる。
これまで何十回、この話をしてきたことだろうか。しかし、またせずにはおれない。それがこの夏の子供大会に向けたぼくの業である。
ぼくが小学校の時、子供大会での海水浴の時に、二人の溺死者を目の当たりにしたことで、後生の一大事か自分の事になったこと。そのあとの地獄のスライド、「寝てもさめてもの」末代無知章に、地獄に落ちる夢、お盆の時に、ひとり泣いていたぼくに、声をかけてくれた父のご示談。グズグズ聞けないぼくに、お盆の約束を破ってまで留まって、「いま、ここで、命をかけて聞くか!」と、向き合ってくれた善知識。それに対して、間髪いれずに、「ハイ」と返事をさせてもらったこと。その時の言葉は、たった一言だった。「南無阿弥陀仏に飛び込め!」。もうその一言を聞くことで、ここでのすべては終わった。何も挟む心も、あれこれ言葉をはからうこともなかった。ただその言葉に従うだけだった。
もちろん、これはまだまだ縁他力だったのが、結局のところ、ぼくの聞法の原点はここにある。それほどぼくにとっては衝撃だったと共に、法を伝える真摯な態度、面と向ってくださった善知識の覚悟を通じて、後生の一大事のなんたるかを、そして阿弥陀様の命懸けの呼びかけに触れさせてもらったのである。
すべてこちらか仕掛けたわけでも、求めたわけでもない。気がつくと、すべて向こうからやってき、与えられたものであったのだ。そのこともまた尊く味わわせていただくのである。南無阿弥陀仏
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