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同行学と「一切を放下せよ」

 先日、あるお同行からご心境と質問を頂いた。それで返信に「同行学」と伊藤先生の常の仰せ「一切を放下せよ」という、二つの言葉をお送りした。 

 今、私はどこに立っているのか。この心境はいかがなものか? 華光の法座では、真実の認識手段として三量を要にしているのは、皆さんよくお聴きだと思う。それは次の3つである。

 1)聖教量-聖教・教典を量りにする。(法話・説教)
 2)現量 -自らの体験を量りにする。(領解出言・体験告白)
 3)比量 -同行との讃嘆談合を量りにする。(信仰座談会)

 つまり、1)だけで、いくらお聖教を覚えても、自らの体験とならなければ机上の空論にすぎず、聖教を絶対化すると教条主義に陥ってしまう。またもし2)現量だけならば、どれだけすごい体験や心境に変化があっても、聖教と離れていた単なる神秘主義に陥ったり、そこを絶対化すると独善主義の自己満足に終わってしまう。

 『仏敵』の中で、伊藤康善先生は、水流光明、阿弥陀様のみ光に包まれる尊い体験をされる。それはまさに『観経』や『安心決定鈔』にも一致する体験だった。しかし、その光明に包まれる歓喜の体験を握ることは見事に打ち砕かれて、そしてすべてをはぎ取られていかれる。それが3)比量、つまりお同行の力のおかげであった。
 
 同行学

 ここを大事にするのが華光で聴聞する肝要だ。決して、知識や同行に保証をもらうのではない。すぐに先生や先輩同行の、自分の都合のよい言葉を握る人がいるが、それは逆だ。聖教の覚えた答えも、有り難い体験も、溢れ出る念仏すら、すべて同行同士がぶつかり、揉まれる中で剥がされていくのである。これを「いもこぎ信心」というのである。

 この点を、今、華光でご聴聞している同人、お一人お一人が肝に銘じてほしい。みな一国一城の主の集団なのである以上、各自が立ち、そして裸になって揉まれていくのである。

 それがもう一つの仰せ、「一切を放下せよ」という伊藤先生の言葉だ。これは、禅語だか、私達にもぴったりのお言葉だ。せっかくの同行学も、自己の正当性の証明や、自己防衛のためや、相手を攻撃するためにあるのではない。一切を捨てて、捨てて、捨てさせられ、捨て切って裸になって、「さて、出でいく先は」と問うていかねな分からない、妙味があるのである。

 さて、真宗念仏者が喜ぶ妙味を頂くまえで留まっている方が増えていはいないか? 南無阿弥陀仏

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