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四十八願のこころ(23)第43願~第44願

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。」(第43願・聞名生家の願) 

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前(南無阿弥陀仏)を聞いて、その命を終える時には、みんなが尊ぶ(南無阿弥陀仏に溢れた)家に生まれさせてみせよう。もしそうでなければ、私は決して仏にはなりません。」

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。もししからずは、正覚を取らじ。」(第44願・聞名具足の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前(南無阿弥陀仏)を聞き、躍り上がるほど喜び勇んで、菩薩の修行に励み、功徳のすべてを身に備えさせてみせよう。もしそうでなければ、私は決して仏にはなりません。」

 四十八願を分類すると、最後の一段に入っている。四十一~四十八願は、広く他の仏国土で自力修行中の菩薩方に誓われた願である。これまでの凡夫のための願いから、今は聖者のための願いを兼ねて、他国の菩薩方であっても、阿弥陀様のお名前を聞く(聞名)ことで、大きなご利益を与えようという願いが続いていく。

 

 第43願の「尊貴の家」は、一見、仏教の精神に反するような表現だ。阿弥陀様のご本願の前では、私達が区別する善悪も、智愚も、貴賤も一斉関係はないのである。また、お釈迦様は、生まれによって人に貴賤があるのではなく、その人の行いにこそあるのだと、社会差別を一蹴されている。だとするならば、ここでの「尊貴の家」とは、世間一般の、身分や地位、生まれによる差別的な尊貴の家をさすのではなく、南無阿弥陀仏が溢れる「念仏の家」と頂くことはできないか。そこだけが、万人に尊敬され,貴重な場所なのであるから…。

 次の第44願は、表面は自力修行者へのお誓いである。でも、そんな自力の修行者であっても、「南無阿弥陀仏」のみ声を聞くならば、飛び上がるほど喜び勇んで、修行に励み、大きな功徳を得るというのである。結局、これもまた南無阿弥陀仏の尊いお徳を示していると頂けるのである。南無阿弥陀仏 

 

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