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隔靴掻痒も意味がある~壮年の集い(1)~

 「壮年の集い」は、日程はそのまま宿泊や食事を取りやめて2日間の法座へ。人数も限定し、充分な対策で臨んだ。。

  マスク越し、道場を目一杯使った車座、通常とは異なる。でも,いちばん不思議なのは、初日の終了後、「ありがとうございました」と三々五々、解散されていくことだ。壮年の世代は懇親会を楽しみにされている方ばかり。もしかするとそのためにお出でなったのだはないかという方まである。華光の懇親会は法座の一部ではあるが、やはり酒席であるには変わらない。密の状態で、マスクを外し飲み食いや語り合うのは、いましばらくは避けておかねばならない。「残念だ」という声が多数でたが、同時に「いまは仕方なし」と、ここはご理解くださる。心を開き、より密になり、法を語り合う座談会こそがその場なのだが、公式ばかりではなく、非公式(つまり懇親会)のもつ役割は大きいということである。結局、懇親会はなく夫婦で二人懇親会を開いて終わった。
 
それでも、実際に集う法座はいい。単に法話を拝聴するだけなら、ZOOMやDVDなどで補うこともできる。またリモートでも感想を分かち合うことはできる。しかし、じっくりと2日間、共に時間を過ごすことはまったく別ものだ。

 密を避けるために、小人数(7~8名)のグループに分かれる。何も充実した時間ばかりではない。うわべの話、人の話、オブーラートに包まれたまどろこしい話。それにかかわる側も気兼ねした遠回りの話だったりもある。でも、それも含めてグループ法座(分級座談会)なのだ。

 「聞かせてください」と頭をさげて打ち出されも、なぜか、その言葉と態度が裏腹に感じることもある。表面の言葉に引きずられていくのだが、態度や顔をみればだいたいのことは分かる。法座以外の休み時間や同人との談笑の態度も、さりげなく気にかけて観察している。そこからでも、ほんとうの心境が察することができる。たとえ、座談会で殊勝な言葉を語っても、法座を離れたら呑気な態度で過ごされていることもよくあるのだ。

 求めるのならしっかり求める。その方に係わる、遠慮せずにしっかり正面向いて係わる。なんとなく触れるようで触れず、止めるわけでなく、ただ時間が過ぎていくのでは、勿体ない。まさに、隔靴掻痒(カクカソウヨウ=靴を隔ててその上から痒いところを掻くような、もどかしさ。もの足りなさのたとえ)のごとしだ。

 そんな時間が過ぎると、思わず大声がでてしまった。コロナ下、マスク越しでも大声は不適性な態度で申し訳なかったが、「これでいいのか」と思わず熱が入ってしまった。これもズーッと座談会に我が身をおいていたからである。おかげで、居眠り半分の人も目が覚める。そこから急に座談会も動きだしたが、ぼく自身も目が覚めてきた。ここは、リアルに集う法座ならばこその展開だ。

 しかしどんなに頑張って馬を水場にまで連れて行っても、最後にその水を呑むか、呑まないのかは、馬自身の問題だ。もちろん、そのために工夫はいる。叱咤したり、共感したり、おいしそうに飲んで見せたりと、いろいろな関わり方の引出しもいろいろと必要だ。
  
「誰の後生なのか」。このままダラダラ聴聞で一生を終えるなんて冗談じゃない! 

 その一点を踏み出してもらうこと。仏法の難しさでもあるが、また自分の問題になってきた展開の面白さでもあるのだ。

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