分別知・無分別知~大阪支部法座~
7月の大阪支部法座は会館で開催される。お参りの方が増えて、加えて遠近各地(アメリカやブラジルからも)ZOOMで参加の方もあって、合わせて40名のお参りで、盛況だった。密にならないように法話の後の座談会は2グループと、Zoom組の3グループでに分かれた。
法話は、「壮年の集い」を受けて、南無阿弥陀仏と名乗り、その名で私を救う仏さまになってくださったそのお心を頂いた。
だが、その冒頭は、少し毛色の違う話をした。「分別知、無分別知」ということがテーマである。というのも、このコロナ禍の影響で、リモート法座が増えると、メールなどでの質問も増えてきた。一見、正当な質問も、また味わいも、仏法的にみると、限界のある人間の知恵で考えた分別知の質問が中心なおのだ。当然、その手の質問には、簡単に答えられるものも多いのたが、でもそんな答えを重ねてみても、ご聴聞の上では何も役立たない。単なる自己満足に過ぎないのだ。本来、仏法の問いとは、問うその自身が根底から問われてくるものである。しかし、大半はその逆で、相対、有限の分別する知恵で、絶対、無限の無分別の智慧を分かろうとする。方向が違うのである。
もともと物事が「分かる」ということは、ものが分けられるようになることである。分かるとは、分かったことに対して名付け、区別することが出来るようになることだ。生まれたばかりの言葉の分からない赤子にも、一度も死んだことのない「我」はあるのだが、まだ大人のような主客の区別は曖昧だ。それが成長と共に、言葉を知り、新たな言葉を得るたびに、自己の心を広げていくのである。そして、親に反抗(2歳頃のイヤイヤ期と、思春期の大人への成長)する過程で、自分自身の言葉を獲得する。そして、親と私が別に人格であることが分けられ、自我を育て自己が確立されていくのだ。ただ一般的には、欧米に比べて、日本ではこの自我の確立、自立が出来ないという傾向(甘えの構造)があるようだ。一方で、分かることが行き過ぎると、事細かく違いを細分化していくことになる。医療に代表されるが、人間の体がそうだ。体と心とをわけ、また体をパーツ、パーツと細々と分けていき、とうとう細胞レベル、遺伝子レベルまで進んできた。そして、何科、何科と細かく専門化が進み、それだけ深堀した専門性をもった研究や治療が受けられるのだが、細分化し、縦割りになった弊害も大きい。それで、もう一度、細分化から全体として有機的につながっているホリスティックな存在としての、東洋的な理解の重要性が語られるようになってきている。しかし、全体として捉えたとしても、所詮、相対、有限の分別する知恵なのである。
分けることがすでに、私と阿弥陀様を分類し、理解しようする、迷いなのである。阿弥陀様は、ご自身のお命と、この迷いの私の命を、差別したり区別したりされずに、自分のこととして御覧くださっている。そして、ご自分の正覚をかけものにして、私を救う手だてをお考えになられ、南無阿弥陀仏に身投げ去られて、そのすべてを私に回向くださるのである。阿弥陀様の方が、私の業の中に飛び込んでお出でになれるのは、無分別の智慧と、大慈悲の塊の仏様だからだ。
だから、そんな南無阿弥陀仏をどれだけ分解して、その救済の手だてを理解しようとしてても、所詮、限りあるこの腐った頭での分別知の中であるのなら、その奥にこめれらた大悲のお心に、絶対に触れることはできないのである。にもかかわらず、みな「どうすればよいか」という意味のない問いを発していくのである。
蓮如様は、南無阿弥陀仏こそが、私の往生の証拠だといわれた。間違っても、私の知恵や気づきや、安心や喜びが証拠ではないのである。それはすべて迷いの産物にしかすきない。でも、私は、未だに、頼りにならないものを頼りにして聞法している(いやそんな聴き方しかできない)、まったくもって哀れな存在なのである。分別知で、無分別をはからうことが、疑い、自力心というのである。南無阿弥陀仏
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