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根本の眼目は?~壮年の集い~(4)

『仏敵』を読んでいると、言葉を理解できても、納得いかない、もしくは味わでの隔たりを感じる言葉が随所にある。分からないことがあると、すぐに先生などに質問をする。手っとり早く答えがほしいからだ。たとえば、言葉の定義や意味ならば、「この意味はこうです」と答えられる。しかしそんな類ならば、別に質問しなてくも自分で調べればいいのである。聞法上の質疑は、正解を覚えるためにあるのではない。問いかけには、本来求める必死さがともなうものだが、そんなことを感じるような問いに出会うことはずいぶんなくなった。

『仏敵』を読んでいると、特に信前は、さっぱり分からない、理解できないことが多かった。仏法を喜ぶようになってからでも、しっくりこない言葉を、じっくと考えさせられているような気がする。単に、解釈や理由をつけたり、そこに無理に合せていくのではなく、疑問は疑問としてしっかりもって、その言葉をその言葉のまま頷け、味わえるところまで問いかけ続けていきたいのである。

 ということで、最初の法話は、答えを与えるのではなく、問いを投げかけて、話し合い聞きあってほしいと思った。それが信心の上での「根本の眼目」であるからだ。

「私は思った。仏法は法の威力によって広まるものである。中間の善知識というものは、月を指す指として必要ではあるが、親鸞教が普及した結果、善知識がかえって如来の邪魔をしているのが、教界の現状だ。
 教える人が詭弁の信仰で固まっていると、教えられる者は詭弁を弄することが信仰だと思う。
 教える人が学者であると、学問的な屈を並べることが信仰だと思う。
 教える人が法体募りで法の有り難さばかりを説いていれば、そういうことが信仰だと思う。
 また反対に教える者が罪悪の自覚ばかり言うていると、悪と知ったのが信心だと思う。
 その他、念仏にとらわれ、感情にとらわれ、
 泣いたのが信心だったり、喜んだのが信心だったり、
 行儀の正しいのが信心であったりするが、
 いずれも根本の眼目を忘れている。
 そうして人て言葉や態度ばかりを批評する。(以下略)」(『仏敵』より)

 学問でも、感情でも、念仏でも、法体募りでも、罪悪の自覚でもないというのなら、一番、肝心要の「根本の眼目」とは何か? じっくり考えてほしいと思ったのだが、どうであったか?

 

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