7月の華光誌輪読法座
79-3号の巻頭言「こころ幼く、拙き凡夫へ」を読む。輪読法座の前にも、何度かこの巻頭言を材料に法話をしているので、ここに集まる皆さんは1、2度は聞いておられる。そのせいもあってか、感想を分かち合った程度で、深く読み込んでいこうという機運はならず、各自の心境披露が中心になっていたのは、ちょっと残念だった。まだまだ味わえること、聞いていただきたいところがあったような気がする。
もう一つは聖教のこころ「グーの音もでない」。阿弥陀経は無問自説の経だが、それを釈尊の立場からではなく、聞き手の智慧第一の舎利弗尊者の立場から窺った。たとえ声聞さまであっても、阿弥陀様やお浄土の世界は、同じ仏様である釈尊でないと語ることができないのだ。そのことに舎利弗さまはお気づきになっておられた。そこが智慧第一の所以なはないろうか。翻って、無明のこの私はどうだろうか?
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