念仏者こそ白蓮華~『観経』流通分(2)~
経題どおり、正宗分の主要は観想の行を丁寧に説いておらるに最後の最後に、これまで説かれた観仏、そして(突然)聞名(阿弥陀仏・二菩薩の名を聞く)にも功徳があることを示し、さらに憶念(心に念じ続け、常に思い続ける)はなおさらだと、念仏の功徳を説かれる。そして、念仏するものを白蓮華に譬え、観音・勢至の勝友であり、悟りの場に座り、仏方の家である極楽浄土に生まれるのだと讃えられていくのだ。
この「憶念」とは、憶は憶持、念は明記不忘。心にたもって忘れず、常に思い続けることで、信心相続・念仏相続のことだが、善導様は、称名念仏といたがれたのである。
善導様は、『散善義』で、「まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもって比類となることを得るにあらざることを顕す」、つまりお念仏の功徳は、あらぬる行よりも超えすぐれて、比べ物にならないとしめされるが、その尊い尊い功徳ある念仏を称える念仏者こそが白蓮華(妙好人)だと譬えられているのてある。
分陀利華は、梵語・プンダリーカの音写で、白蓮華のこと。インドでは蓮華を花の色毎に違う名で呼ぶが、中でも白蓮華がもっとも尊く『妙法蓮華経』(略して法華経)も、白蓮華のことだ。
そして、分陀利華は、(1)「好華」(2)「希有華」(3)「上上華」(4)「妙好華」(5)「蔡華」と名付けるとして、もし念仏するものも、これ人中の(1)「好人」(2)「妙好人」(3)「上上人」(4)「希有人」(5)「最勝人」と名付ける。『散善義』・七祖篇499)▽参照=「人中の妙好人」(『聖教のこころ・経教は鏡』41頁)
この五つの称号を法然様は、「五種の嘉誉」と称賛される。すなわち釈尊が、念仏者を白蓮華のごとく尊き、立派な者よと、褒め称えられる言葉である。
曇鸞様は『論註』で、「経(維摩経)に、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥(湿ったどろ)にすなわら蓮華生ず」とのたまへり。これは凡夫、煩悩の泥に中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。」と述べられているが。結局、きれいな白蓮が花開く根は、きたいな泥の中であるように、凡夫の煩悩の泥の中に、法蔵菩薩のおかげにって、正覚の華が開くというのである。決して、きれいな心中に咲くのではないのだ。
しかもこの妙好人とは、一部の篤信家のことではないのだ。どんな泥凡夫であっても、本願を信じ、念仏を申して、仏と成る身に定まった者は、泥凡夫の身をもったまま「妙好人」と、釈尊は褒め称えれらるのである。つまりは他力念仏者のお徳であって、信心を喜ぶものは、みな妙好人と褒め讃えられているのである。
そのことを、親鸞様も正信偈、「一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解のひととのたまへり、この人を分陀利華と名づく」と称賛されている。
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