生死=迷いを超える~7月のカウンセリグ月例会
初めてzoom参加者が担当。ところが開始30分たっても、会場にはぼく一人。そのうち2名が加わ(一人は初参加)ったが、zoomの方が活発だった気がする。
第4章「真宗カウンセリング人間観」も、最終回。第4節の「真宗カウンセリングの人間観」にはいる。ここはさらに、「真宗とカウンセリングの実践的出会い」と「真宗カウンセリング」の現代における使命」に二分科されている。
とても厳しい章だ。
結局、現代に生きる真宗者がカウンセリングに出会うことによって、浄土真宗も、長年に渡る因習や逸脱によって、教義という言語体系や教団という社会体系として固定化され、その精神のダイナミズムを喪失して、気づかぬうちに、本来の実践的使命を失っていることに気づき、実践的な浄土真宗の本来性に回帰する営みと、同時に、真宗の現代的か、使命を甦らせる可能性をも含んでいる。その意味でも、真宗カウンセリング役割は大きい。
一方で、真宗カウンセリングは、人間中心(バーソンセンダードアブローチ)カウンセリングにも、これまで不徹底だった人間観(結局、人間存在の有限性を超えられない)、つまり生のみを正当化し、単純肯定する楽観的人間観に対してへの厳しい批判と、それを超えていく道があることを提示するものである。つまり人生を「生」の一面のみでとられ、単純肯定している。しかし仏教は、人間存在を「生死」と取られ、それを迷いととられて、その生死を超えていく道を示している。
自己成長、自己実現などのカウンセリングの目標を示す概念は、いずれも単純肯定された生の枠内での連続概念に留まっている。生は死という否定的契機を含むことによって生であるということが実相であるから、死を見ようとはしない、あるいは死を掩った生の枠内での成長や発達や幸福や健康は、厳しくいえば、人間の根源的な幻想であり、迷妄である。
とまで言い切られているのである。その迷妄に目覚める、超えていくというところまで視野に入っていないというのだ。
その点を踏まえてこそ、初めて真宗カウンセリングの構造の特色である二重関係、二重の配慮が生れてくるのである。
つまり、世間レベル、カウンセラー対クライエントという人と人との関係と共に、
出世間レベル、人間の次元を超えた人間を支える「仏」と「人」との関係という二重の関係性と、それにともなう二重の配慮(対人的心理的配慮と、霊性的配慮)]ち本伝ているという、真宗カウンセリングの独自性が顕れてくるのであろう。
ただ今日の浄土真宗そのものにおいて、たして実践的に「生死超える」一点に聞法や関わりの焦点があたっているのか。大半が、生(自己)を全面的に肯定するような教説や姿勢に留まってはいないか。その意味でも、真宗カウンセリングの可能性は、カウンセリングの不徹底に働きかけるのみならで、今日の多く流布する真宗の根本的な逸脱に対しても、本来生に回帰を促す大きな契機となる可能性を祕めているのではないか。そんなことを感じてさせられ、大いに刺激をうけたのであった。
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