念仏付属~『観経』流通分(3)~
短い一文だが最重要なので、書き下し文を示す。
「仏、阿難に告げたまはく、『なんぢよくこの語を持て、この語を持つてといふうは、すなはちこれ無量壽仏の名を持てとなり」。
阿難尊者の「この法の要をばまさに如何が受持すべき」という第2の問いに対して、釈尊は、「無量寿仏の名を持て」と答えられた。無量寿仏の名とは、「南無阿弥陀仏」の本願名号を心に信じてたもち(信心相続)、口に「南無阿弥陀仏」と称える(称名相続)とことである。長々と説かれた『観経』も、その最後の最後において、他力の念仏が肝要だと添えれている。『観経』の帰結、そして未来世に委嘱することは、観想の行(観仏三昧)ではなくて、阿弥陀仏の御名を信じ、称える称名念仏(念仏三昧)であるのだ。これまでちゃぶ台にきとれいに並べられいてた定善十三観や散善の三福の善行を、一気にこの一言で覆らされていく。まさしく究極の「ちゃぶ台返し」で、観経は締めくくられるのだ。
善導様は、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。」と述べられている。
もし『観経』「順見」、冒頭から順番に、経題→定善十三観→散善三観(行福→戒福→世福)→万行超過の念仏となる。
それは、極重悪人への最終手段の称名念仏より世間的な善(世福)が、その世福より小乗の善(戒福)が、そして戒福より大乗の善(行福)が、さらには散善より、定善十三観が勝れている。定善も、浄土(国土)を観想するより仏・菩薩を、その中でも 阿弥陀仏を観ずることが勝れているのは、経の当面である。その意味では、観仏三昧こそが最高の行とすることを顕しているのだ。
しかし、今度は、『観経』を「逆見」、最後の流通分より逆に眺めていくと、念仏三昧を説くことが目的で、定散は廃せられていく。
そして、それは同時に、『大経』を通して窺うことで、称名念仏こそが阿弥陀様のご本願であることが明かになるのである。
そして、親鸞様は、「顕説」-順見の面で、自力の観仏三昧を勧めるが、自力から他力への方便と位置づけられる。
しかし、「穏彰」-逆見の面からみれば、他力の念仏を勧めることが、釈尊の本意ということにある。
(参照)
善導様『散善義』「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。」
なお、法然聖様は『選擇集』で、「『遐代』とは『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐(とお)きを挙げて邇(ちか)きを摂するなり。」と、遐代について註釈くださっている。
その法然様は、「まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。」と。
つまり、釈尊は、韋提希夫人の要請(随他意) により、定善・散善の法門を説かれたが、釈尊の意(随自意) によれば、定散の門を閉じ、阿弥陀仏の本願念仏の一門のみを阿難尊者に付属されたのである。
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