聞く力をつけよう~壮年の集い(3)~
どんないいご法話や感話も、聞き手が惚けていては、肝心の要点を外してしまう。
たとえば、今回の感話後の分級座談会でも、「Tさんがどうのこう」「私にとってTさんは…」とTさんの関係性を語ったり、自分の印象が残ったところだけを取り込んで聞いているが、誰一人として、この話の要点は何か。何をお伝えくださっているのか。自分の思いは横に置いて、注視して聞こうとする人はいなかった。
もちろん、形式にとらわれるのは面白くない。が、しかし、自分の感じたところだけ、自分の見えているところだけを並べるだけなら、信仰座談会の意味はない。居眠り半分でも、いくらでも正当化してやり過ごしていけるのである。また「そのときは有り難く聞いていましたが、頭が悪くて覚えていません」とか「口下手でいえません」と、逃げる人も多い。それは覚えが悪いのではない。何も聞いていないのである。別に、一字一句覚えるために、目を皿にしてて聞けといっているのではない。それなら録音械にまかせておけばいいのである。その方が、ズーッと正確だ。
でも、私には録音デッキには出来ない仕事がある。それは、法話の要点、要を聞くことである。それには自分の思いや感じは少し置いておいて、話し手の立場にたって聞けばいいのである。その後で、自分の感じたところ、味わえたところを語ればいいのだが、皆さん、ただ自分の思いのところ、味わえたところが多ければ聞いた気になっているのである。それで感じたとか、有り難かったことか、逆に「何もありません」という勿体ない話で終わってしまう。
要は、聞くことにも「コツ」があるということだ。これは決して、ノウハウとか、方法論でやることではなく、聞法を豊かにし、信仰座談会を充実させていくものである。その意味では、力ある壮年世代の方に、ぜひ、心をかけていただきたいと思ったのである。
華光壮年よ、大志を抱け!
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