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唯除(2)

 その善導様の『法事讃』の

 「仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提、回心すればみな往くによる。」

は、特にたいせつな御文だ。本願でも救いに漏れた「謗法」と「闡提」も、回心するならば、本願力によってみな往生するというのである。『大経』「十八願文」、『観経』「下々品」に加えて、『涅槃経』の「難治の機・病(五逆、謗法、一闡提)」の者へのお救いに触れて、「誹謗罪」の者への救いが語られていくのである。このことは親鸞様も深く影響をうけておられる。

「『唯除五逆誹謗正法』といふは、『唯除』といふは、ただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」

といただかれた。

 お正信偈にも「凡聖逆謗斎廻入」とある。

 『信巻』でも、

「ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。」

 そのお救いを端的に著されたのが、次の仏智疑惑讃ではないだろうか。

 仏智うたがふつみふかし
 この心(しん)おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

 結局、謗法の罪人とは、仏法を謗っている他の人ではなく、聞法しながらグズグズと言い続ける、仏智・本願を疑っている私のことである。その姿を思い知るとは、他力によって教えてもらう以外にはない。それこそが聞法なのである。その恐ろしさを仏智に照らされ、教えられたならば、これまで一度も、絶対に下げることのなっかた私の頭が下るのである。「ああ、恥ずかしいな」、「ああ、こんなものが救われるはずがない、親不孝ものだ」と、大悲の親に涙せずにはおれない。しかし、その心こそがまさに悔ゆるこころではないか。その心こそ頂き物の他力のおこころなのだ。そんなものに涙してくださっていた仏さまの先手をかけたお救いだけがあるのだ。

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