3度目の新月断食
コロナ自粛から始まった新習慣、月一度の新月の日、断食である。
いつものように断食を始める前は、憂うつになる。「なんかもういいかなー」とポソッと連れ合いに言ったりもした。でも、始まったら、それほどのことなはい。断食はいいいことだらけだ。食費はかからず、料理の手間は入らず、洗い物もない。時間も浮けば、食後の疲れで眠くなったりもしない。そして、翌日の体重は、1㎏以上のマイナスになっている(ただしこれは数日以内にもとに戻る)。しかし、それでも始まる前はなんなく躊躇する。決して空腹に堪えられないということはない。正直、ぼくには1日くらいでは大して空腹感はおこらず、お腹がすいてイライラするとか、眠れないとかもない(むしろよく眠れる)。だがら、断食明けの翌朝、「この調子なら、もう一日くらい平気だよね」と会話している。
が、それでももう1日続けて断食はしない。なんとなく寂しいからである。
たとえば、毎朝、コーヒーを淹れ、一口だけ甘いものを食べる。それは、クーキーやビスケットの1、2枚か、チョコレートの1、2カケラという程度で、空腹を満たすということより、ほんの少し甘いものを口にして、幸福感を味わうのである。そして、それが習慣として根付いているのだが、この習慣というのか厄介だ。それがないとなんとなく落ち着かないのだ。それは、夕食時の晩酌も同じ。酒飲みは、甘党てはなく左党というけれども、ビールや日本酒の正体は果糖なのだから、やはりこれも同じことだ。加えてアルコールの効果も大きいのだろう。
そのアルコール依存(昔は、中毒)が厄介なことは誰でも分かる問題だが、あまり問題にならず厄介なのが、果糖依存(中毒)である。単に生活習慣病だけの問題ではない。人間が生きる意欲やエネルギーを削ぎ、考える力や精神性にまで影響を与えている、現代の大問題である。
ところで、食べるということは何かとつながることではないか。だいたい口というのは面白い器官で、耳や鼻(穴)、目は、二つあっても役割は一つなのに、口は一つしかないのに、三つの役割を担っている。食べること、話すこと、そして触れること(性交)の3つもある。よく考えたら、その3つとも、自分以外の外部とつながる手段でもある。食べることは、異物を自分の中に丸ごと取り込み、それをエネルギーにする、私が生きるために必要不可欠なたいへんな行為なのであるが、いまは単に生きるための最低限の意味よりも、豊かさを求め、または寂しさを紛らわすために行っている。だから、単にお腹を膨らますのではなく、味わうのである。この味わうことがいかに大きいか。同時に、誰と食事をするのかも大きい。これもたいせつなコミニケーションの手段となり、孤食や拒食の問題ともつながっている。意識してければ当たり前だが、食は非常に深い意味があるなー。なんかここをもう少し深く考えたら、ブチ法話ができるような気がした。そんな効果もある新月断食。初めた以上、一年間は試してみたい。
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