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京都支部法座+zoom配信

 東海支部の翌日は、京都支部法座。今度は逆に、華光会館に人が集うのをメーンに、Zoom配信はおまけだ。
 
 緊急事態解除後、法座の人数は20名以内の集いだったが、久しぶりの支部法座に参詣者は27名と多かった。一方で、Zoomの方も、アメリカ同人も含めて11名と、こちらもいろいなご縁の方があった。ただ人数が増えると、道場でも法話を聞くだけなら散らばれって30名くらいはOKだが、車座になった時に1mの間隔をとるのが難しくなった。人数が多いときは、分級座談会で対応したらいいのだろう。今回は、道場と、Zoom組は別に司会者を設けて教室で対応してもらった。

 法話は、新型コロナの自粛中に考えたことである。この危機的状況に真宗念仏者として、どう振舞えばいいのか。何か気の利いた言葉いのかと考えたが、どんなに力んでみても、明確になるのは、虚仮不実の世間に生きる凡夫のわが身ばかりだった。「凡夫とは、愛妻愛子これを凡と言い、惜身惜命これを夫という」。真面目くさって、自分こそ正しいと思って生きていても、所詮、逆立ちしているのが凡夫だと、伊藤康善先生は仰った。結局、真宗念仏者を自称する者も、哀れで、こころ幼く、拙い凡夫なのだということだけが、痛いほど明確になった。

 要は、死にたくない。痛いのもいや。厄介も勘弁願いたい。内外からの批判を畏れて右にならえで自粛し、そこからはみ出したものに白い目を向けていく。しかも、もらえる金はもらいたい。まずは命と、健康、そして評判に、お金が大事という、情けない凡夫丸出しの自性であることが、仏智によって明かになるばかりであった。

 しかしそこがまた有り難いではないか。そんな惨めな凡夫こそが、念仏一つで凡夫のまま救われていく道があるのだ。ならば、私は、この凡夫は凡夫の生地のまま聴聞し続けるしかない。ビビながらであろうが、強がってみせようが、または他者に批判的を心をおころうが、そんなことはまったく関係ない。ただ一つ、「だれの人も、はやく後生の一大事に心にかけて」阿弥陀仏を深くたのめ! この一点。、この私が、たのむ一念の身にならせていただくことを外しては、どんなきれいな言葉も、かっこいい生き方も、何の意味もないのである。

  アフターコロナの社会は、劇的に価値観が変化するといわれている。しかしどんな社会になっても、相変わらず「世間虚仮・唯仏是真」の真理だけは輝きを増し続けるのである。南無阿弥陀仏

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