« イタリア映画『幸福のラザロ』 | トップページ | 真カ研6月の月例会 »

6月の華光誌輪読法座

 平日の午後にも関わらず、お参りが多くて密を避けるために、3階から道場に会場変更とする。

 誌上法話の続き。一念の覚・不覚の問題。先生なりに、如来様の立場、教団として立場、そして体験として立場を三段階で。さらに、三業惑乱に触れて、かなり厄介なところである。さらにもう一つ「不断煩悩得涅槃の味わい」。こちらも、横超断四流のご文を交えてといて、皆さんにはかなり難しかったかのでなはいか。

 でもこのところは、心をくだいてお聞きしたいところだ。分かった、ハッキリしたといっても、ハッキリするというは、何がハッキリしたのかの? また、「ハッキリした」と断言できれば、それでほんとうにいいのか。本文にないが、ほんとうはこの点を詰めてあきらかにする必要があると思ったのだ。

「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」(御一代記聞書213条)

|

« イタリア映画『幸福のラザロ』 | トップページ | 真カ研6月の月例会 »

法座と聞法」カテゴリの記事