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聖典講座『観無量寿経』無生法忍について

      さて「無生忍」とは、「無生法忍」のことで、三法忍の一だ。
(1)音響忍=諸仏・菩薩の説法を聞き、驚き畏れることなく信認して受け入れる。
(2)柔順忍=素直に真理に隋順して、背かないこと。
(3)無生法忍=無生法とは、不生不滅の真理のこと。無生法忍とは、その真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。

 しかし、不生不滅の真理をさとることは凡夫の身には甚だ困難、不可能。無生法忍を得るのは聖者のためになってしまう。しかし、浄土真宗では違うのだ。阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)こそ不生不滅の真理そのものなのがら、そのおいわれを知させていただくこと。それは他力信心を得ることなのだから、その頂くお徳として無生法忍を得ると言われている。

 それで善導様は、無生法忍を、三忍(喜忍、信忍、悟忍)として頂かれている。忍とは、認可決定の意味で、ものをはっきりと確かめて受け入れることである。それで、浄土真宗では、これをこの世で頂くご利益として他力信心のもつ三つのお徳(徳義)として示されているのである。
 喜忍=歓喜の思い。法を聞き、安心して喜ぶ心。(「心歓喜」)
 悟忍=仏智を領得すること。真実のいわれをはっきりと知る心。                       (「廓然大悟」)
 信忍=仏力を信じること。本願を疑いなく信受こと。

親鸞様は、ご和讃で「念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば」(『浄土和讃』)と、国宝本の「無生忍」の左訓には、「不退の位とまうすなり。かならず仏になるべき身となるとなり」と解説されている。
 
なかでも、この廓然大悟の言葉が有り難い。廓然は、心が広く、明るく開けてくることである。『大経』では、釈尊のご説法を聞いて、弥勒菩薩が「心、開明を得たり」と領解されているが、開き明かになるのである。信心、信心というので、何か(阿弥陀様だったり、仰せだったり)を信じようとしている。それで「信じられる」とか「信じられない」とか、無理にでも信じられるように心をもっていこうとする人がいるが、これはまったく見当違いである。他力の信の世界は、おいわれが届くとハッキリと心が広がり、明るく開けてくるのである。ここは、ぼく自身の領解といちばんビッタリするところ。

 しかし皆さんは、無生法忍とか三忍といわれても、自分に関係ないし、初めて聞くなーという顔をされていたが、そんなこはない。日々お勤めしているお正信偈の中にうたわれているのである。

「開入本願大智海  本願の大智海に開入すれば、
 行者正受金剛心  行者まさしく金剛心を受けしめ
 慶喜一念相応後  慶喜の一念相応の後
 與韋提等獲三忍  韋提と等しく三忍を獲
 即証法性之常楽  すなはち法性の常楽を証せしむといへえり」
 
 善導讃の獲信とそのご利益をあらわされるところだ。獲信が金剛心であることを顕し(一・二句目)、その他力信のご利益とし、現益(この世でのご利益・三・四句目)と当益(浄土のご利益・五句目)が示されている。もっとも、お勤めの時は、「よーい、だいとう、ぎゃくさんにん」と言っている。ヨーイどんのようで、韋提希さんのイダイを二つに分けてしまう。末代の凡夫の私が、他力のご信心を頂いた端的に、韋提希夫人と等しい三忍を獲る、というのである。

このあと、『廻心の体験』にある松岡先生の廻心体験について、末代の凡夫に示された「聞名得忍」をいただいた。『大経』の第三十四願「聞名得忍の願」で誓われているが、このご教示の尊さにこころ引かれいる。でも今は略します。

 

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