聖典講座『観無量寿経』韋提希はいつ救われたのか
では、 韋提希夫人は、いつ無生法忍を得られたのか。いわれる「韋提獲忍」についてである。
主に三つの立場がある。またそこから派生して、韋提希夫人は菩薩かなのか、凡夫なのか。それは『観経』は誰に向けてのお経なのか。結局、自己自身をどう位置づけていくのかに関わる『観経』と向き合う時にいちばん大切な問題が横たわっている。これは、来月の最終回にも詳しくみたい問題ではある。ここまで読んできてやっと見えてきた『観経』の胆である。
一、「経末得忍説」(現211頁)浄影寺慧遠師なとの聖道祖師
『観経』の分科にも影響。正宗分を(1)韋提希が請い光台現国(善導師は序分)・(2)釈尊説示の三種浄業・十六観、(3)釈尊説示後の利益(善導師は得益分)と、釈尊による諸実践行の説示を通じて、韋提希夫人は得忍したと理解する。
また、釈尊の教説の聴聞によって無生法忍を獲得したのだから、韋提希は、その実は大菩薩で、化身として女性の姿を有する存在と理解。(韋提希権実論)
二、「七観得忍説」(現175頁)善導師(『観経疏』玄義分)
無生法忍獲得の条件が見仏であるとするならば、韋提希は第七観の冒頭箇所で、既に阿弥陀仏と観音・勢至両菩薩を目の当たりに拝し、この時点で無生法忍を獲得。光台現国は、釈尊が韋提希に対して諸仏国土を感見せしめたので得忍ではない。
また、韋提希権実論に対して韋提希凡夫論で反論。「汝はこれ凡夫にして、心想羸劣にしていまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたわず」(93頁)を注釈して、韋提希を大菩薩ではなく一凡夫であるとする。その凡夫が、現生で成仏することは出来ない。釈尊が説示する無生法忍は、すべて弥陀の願力、釈尊の仏力によるもので、阿弥陀仏を感見し相見えるという法縁により、生死の闇が晴れて信心決定し、無生法忍を得られたとされた。
ちなみに親鸞様は、権化の仁(『総序』131・『浄土和讃』570)と頂かれる。
末法の凡夫を哀れみ、権に聖者が、逆悪の凡夫・心想羸劣、愚痴の女人と現われて、大芝居を打って、弥陀の本願のお目当てが誰にあるのを示された。すなわら、従果向因の還相の菩薩方と仰がれた。(聖道祖師は、従因向果の自力修行中の菩薩)。
三、「光台得忍説」(現161頁)善導様を受けつつ展開(西山派、真宗学僧)
釈尊なきあとの未来世の凡夫の教説を強調するために「光台密得・七観顕得」の光台得忍説を立てる。すなわち、光台現国でも、単に国土だけを拝見したのではない。韋提希は、諸仏土をさしおて「私はいま極楽世界の阿弥陀仏の身許に生れたいと願います」と願っている。ただ定善は、始めに浄土の荘厳相(依報)、後に仏・菩薩(主報)と順序立てた観法なので、序分では国土だけ、第七観で初めて仏をみたかのように説かれているのである。韋提希は光台現国ですでに無生法忍を密に得ている(光台密得)が、未来の衆生のために、第七観で阿弥陀仏を目の当たりにして摂取不捨のことわりを信知して無生法忍 を得ることを顕かにする(七観顕得)。
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