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2020年6月の24件の記事

聖典講座『観無量寿経』韋提希はいつ救われたのか

    では、 韋提希夫人は、いつ無生法忍を得られたのか。いわれる「韋提獲忍」についてである。

 主に三つの立場がある。またそこから派生して、韋提希夫人は菩薩かなのか、凡夫なのか。それは『観経』は誰に向けてのお経なのか。結局、自己自身をどう位置づけていくのかに関わる『観経』と向き合う時にいちばん大切な問題が横たわっている。これは、来月の最終回にも詳しくみたい問題ではある。ここまで読んできてやっと見えてきた『観経』の胆である。
 
一、「経末得忍説」(現211頁)浄影寺慧遠師なとの聖道祖師
 『観経』の分科にも影響。正宗分を(1)韋提希が請い光台現国(善導師は序分)・(2)釈尊説示の三種浄業・十六観、(3)釈尊説示後の利益(善導師は得益分)と、釈尊による諸実践行の説示を通じて、韋提希夫人は得忍したと理解する。  
また、釈尊の教説の聴聞によって無生法忍を獲得したのだから、韋提希は、その実は大菩薩で、化身として女性の姿を有する存在と理解。(韋提希権実論)

二、「七観得忍説」(現175頁)善導師(『観経疏』玄義分)
 無生法忍獲得の条件が見仏であるとするならば、韋提希は第七観の冒頭箇所で、既に阿弥陀仏と観音・勢至両菩薩を目の当たりに拝し、この時点で無生法忍を獲得。光台現国は、釈尊が韋提希に対して諸仏国土を感見せしめたので得忍ではない。

 また、韋提希権実論に対して韋提希凡夫論で反論。「汝はこれ凡夫にして、心想羸劣にしていまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたわず」(93頁)を注釈して、韋提希を大菩薩ではなく一凡夫であるとする。その凡夫が、現生で成仏することは出来ない。釈尊が説示する無生法忍は、すべて弥陀の願力、釈尊の仏力によるもので、阿弥陀仏を感見し相見えるという法縁により、生死の闇が晴れて信心決定し、無生法忍を得られたとされた。

 ちなみに親鸞様は、権化の仁(『総序』131・『浄土和讃』570)と頂かれる。
 末法の凡夫を哀れみ、権に聖者が、逆悪の凡夫・心想羸劣、愚痴の女人と現われて、大芝居を打って、弥陀の本願のお目当てが誰にあるのを示された。すなわら、従果向因の還相の菩薩方と仰がれた。(聖道祖師は、従因向果の自力修行中の菩薩)。

三、「光台得忍説」(現161頁)善導様を受けつつ展開(西山派、真宗学僧)
 釈尊なきあとの未来世の凡夫の教説を強調するために「光台密得・七観顕得」の光台得忍説を立てる。すなわち、光台現国でも、単に国土だけを拝見したのではない。韋提希は、諸仏土をさしおて「私はいま極楽世界の阿弥陀仏の身許に生れたいと願います」と願っている。ただ定善は、始めに浄土の荘厳相(依報)、後に仏・菩薩(主報)と順序立てた観法なので、序分では国土だけ、第七観で初めて仏をみたかのように説かれているのである。韋提希は光台現国ですでに無生法忍を密に得ている(光台密得)が、未来の衆生のために、第七観で阿弥陀仏を目の当たりにして摂取不捨のことわりを信知して無生法忍 を得ることを顕かにする(七観顕得)。

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聖典講座『観無量寿経』無生法忍について

      さて「無生忍」とは、「無生法忍」のことで、三法忍の一だ。
(1)音響忍=諸仏・菩薩の説法を聞き、驚き畏れることなく信認して受け入れる。
(2)柔順忍=素直に真理に隋順して、背かないこと。
(3)無生法忍=無生法とは、不生不滅の真理のこと。無生法忍とは、その真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。

 しかし、不生不滅の真理をさとることは凡夫の身には甚だ困難、不可能。無生法忍を得るのは聖者のためになってしまう。しかし、浄土真宗では違うのだ。阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)こそ不生不滅の真理そのものなのがら、そのおいわれを知させていただくこと。それは他力信心を得ることなのだから、その頂くお徳として無生法忍を得ると言われている。

 それで善導様は、無生法忍を、三忍(喜忍、信忍、悟忍)として頂かれている。忍とは、認可決定の意味で、ものをはっきりと確かめて受け入れることである。それで、浄土真宗では、これをこの世で頂くご利益として他力信心のもつ三つのお徳(徳義)として示されているのである。
 喜忍=歓喜の思い。法を聞き、安心して喜ぶ心。(「心歓喜」)
 悟忍=仏智を領得すること。真実のいわれをはっきりと知る心。                       (「廓然大悟」)
 信忍=仏力を信じること。本願を疑いなく信受こと。

親鸞様は、ご和讃で「念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば」(『浄土和讃』)と、国宝本の「無生忍」の左訓には、「不退の位とまうすなり。かならず仏になるべき身となるとなり」と解説されている。
 
なかでも、この廓然大悟の言葉が有り難い。廓然は、心が広く、明るく開けてくることである。『大経』では、釈尊のご説法を聞いて、弥勒菩薩が「心、開明を得たり」と領解されているが、開き明かになるのである。信心、信心というので、何か(阿弥陀様だったり、仰せだったり)を信じようとしている。それで「信じられる」とか「信じられない」とか、無理にでも信じられるように心をもっていこうとする人がいるが、これはまったく見当違いである。他力の信の世界は、おいわれが届くとハッキリと心が広がり、明るく開けてくるのである。ここは、ぼく自身の領解といちばんビッタリするところ。

 しかし皆さんは、無生法忍とか三忍といわれても、自分に関係ないし、初めて聞くなーという顔をされていたが、そんなこはない。日々お勤めしているお正信偈の中にうたわれているのである。

「開入本願大智海  本願の大智海に開入すれば、
 行者正受金剛心  行者まさしく金剛心を受けしめ
 慶喜一念相応後  慶喜の一念相応の後
 與韋提等獲三忍  韋提と等しく三忍を獲
 即証法性之常楽  すなはち法性の常楽を証せしむといへえり」
 
 善導讃の獲信とそのご利益をあらわされるところだ。獲信が金剛心であることを顕し(一・二句目)、その他力信のご利益とし、現益(この世でのご利益・三・四句目)と当益(浄土のご利益・五句目)が示されている。もっとも、お勤めの時は、「よーい、だいとう、ぎゃくさんにん」と言っている。ヨーイどんのようで、韋提希さんのイダイを二つに分けてしまう。末代の凡夫の私が、他力のご信心を頂いた端的に、韋提希夫人と等しい三忍を獲る、というのである。

このあと、『廻心の体験』にある松岡先生の廻心体験について、末代の凡夫に示された「聞名得忍」をいただいた。『大経』の第三十四願「聞名得忍の願」で誓われているが、このご教示の尊さにこころ引かれいる。でも今は略します。

 

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聖典講座「観無量寿経」「得益分」(1)

前回で、 定善十三観と、散善三観(三福九品)が説かれた正宗分(本論)が終わり、その利益を得ることを示す「得益分」にはいる。当面は、韋提希夫人が阿弥陀仏や極楽を観見して無生法忍を得て、また五百名の侍女も菩提心を発すると説かれている。

 ただ、ここを「得益分」と別開(独立)された善導様のお心は深い。
 普通、経典(仏説)は、序論にあたる「序分」、本論にあたる「正宗分」、そして結論にあたる「流通分」に三分科される。従来は、『観経』も三分科されて理解されているが、善導様は、特に『観経』の特色を明かにするために、五分科して解説くださったのである。
 一、序分
 二、正宗分
、三、得益分
 四、流通分
 五、耆闍分
 善導様以前の聖道の祖師方は、この得益分を正宗分としてとらえ、韋提希夫人たちは、定善、散善の教説をすべて聞き終えた(聞経)ご利益によって、極楽の相や阿弥陀仏を見奉り、無生法忍を得たと理解されてきた。普通に読めばむしろ当然の理解である。

 しかし善導様は違った。韋提希夫人はすでに、序分の光台現国(現161頁)で極楽世界を、また第七華座観の直前に(現175頁)阿弥陀仏と二菩薩を拝見しておられる。それは共に定善が完成したからではない。すべて釈迦・弥陀二尊のお力によるものだと言われねばならない。それで、定善、散善の自力の行が説かれた正宗分と別して(別開)、得益分とされている。つまり韋提希夫人は、仏力と願力によって極楽や如来を拝見し、永い生死の闇が晴れて信心決定し、無生法忍のご利益を得られたというである。
 ここにも、「善導独明仏正意」である。『観経』の祖師方の古今の誤解を質し、仏様の正意、正しい領解を規定されたのである。まさに古今楷定の明師である。(続く)

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葬儀

 急な葬儀がはいる。だいたい葬儀は急なものだが、事前のご依頼もなく予定外である。一旦はお断りをしたが、いろいろな経緯があったが、奥様やご長男様からの強い願いもあって、引き受けることとなった。引き受けた以上、精一杯勤めさせてもらった。

 長距離で移動も3ケ月ぶりでの府県をまたいだ。宿泊での法縁も3月9日以来。その時と同じ豊岡市の日高での葬儀。同じビジネスホテル、部屋まで同じだった。

 もっとも、昨日今日のおつきあいではない。通夜の席で、参列者を振り返ってご法話を始めたとき、「ああ、ここに立つだけの深いご因縁のある方だったな」と思った。そのことには間違いはなく、お子さまだけでく、ご親戚も、大方がお顔見知りの、それぞれご因縁のあるお方。華光の同人方も、皆さんお参りくださっていた。

 お互いの親世代が華光会館創建前からのつながりがある。今日、華光会での永代経法要や聞法旅行(始まりは御旧跡巡拝)があるのも、すべて責任役員であった故人のお父様の強い提案があったからだ。故人のお兄さんは、華光でもよく知られた強信の方であった。また奥様側もお姉様方も、またよく知られた喜び手である。もっというなら、故人のお兄様、奥様のお姉様には、ぼくがもっともお世話になって育ててもらったお同行様なのた。そして、故人もまた若いときは、華光会館にも下宿され、うち父から仏法だけでなく、「商売」の基礎を教えてもらったというのである。それで常々、「私の基礎は会館で身につけてもらった」と言われていた。そして、仏法よりも、商売の上で成功を納められただ。お子さまともお孫さまとも、子供大会や日曜学校で、子供の時からのつながりがある。

 がしかし残念ながら、故人とお念仏のことで腹を割って語りあったことは一度もなかった。だから、真宗のご安心のお領解で、弥陀の本願一つに焦点が定まっていたかどうかは、分からない。ただ仏法を大切にされたご生涯だったといのは間違いない。地域のお寺(国分寺)を再興にたいへんな力を注がれていた。華光に対しても同じである。そういうお世話をせずにおれない、何かがあったのだろう。その意味で、この方も外護の善知識のお一人である。

 どうか、遺族の皆様へのご法縁が続くことを願っている。

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『FREE SOLO』

  先日、NHK衛星放送『FREE SOLO』(フリーソロ)というドキュメンタリー映画が放送されるので、同人MLで紹介したら、京都の同人を中心に思わぬ反響があった。そう見えない奥様から「以前から、ロッククライミングがしたかったんです」といわれて驚いたりもした。

 手に汗握るドキュメンタリーだ。単なるロッククライミングではない。道具はもちろん、命綱のロープすらも使わず、素手のみで、ロッククライミングする、世界初の歴史的な挑戦を撮られたもだ。別ルートでロープありで登山するカメラマンやドローンの映像は迫力があり、またとても美しい。人間のちっぽけさ、自然の雄大さ、同時に人の持つ可能性に驚かされた。

 単純に映画としても興奮したが、驚いたのが、その場所と日付だった。

 場所は、ヨセミテ国立公園のエル・キャビタン。

 2017年6月4日が決行日だが、5~6月を中心にそれまでの準備期間も含めて撮影されている。

 まさにその最中の5月末に、Kご家族とヨセミテ国立公園に一泊旅行をしていたなだ。ああ、そういえば、この車の列み覚えるがあるなーとか、ロッククライミングしていた人いたなーとか、そうとはしらず見ていたので、映画館でそれだけでも興奮したのだ。何も知らなかったけれど、あの時こんなドラマがあったのかと、一層感激。

 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/1-02f4.html

 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-d1c5.html

 映画館の大画面でこその映だが、昨年を長編ドキュメンタリー部門のアカデミー賞を受賞した内容も佳作。

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不思議な形態の法座

 東京支部法座は、土曜日の夜にZoom懇親会、日曜日は朝座・昼座の2座、Zoom支部法座を開催することになった。

 土曜日の懇親会は、野郎飲み会である。年代も40~50代と同世代の方々が中心。東京支部法座自体もこの世代の男性が多いこと、また女性陣の中にはZoomにうまくつながらなかった人もあったと聞いた。明日は、男女ともに参加される。

 日曜日は不思議な形態の法座となった。

 密を避けるために法座を止めてZoom法座としたのに、華光会館でもお相伴にあずかって法話会としたら、朝、昼ともに20名以上(計25名)もお参りあって、プチ密状態。Zoom法座の方は20名だったので京都の方が多かった。車座になる座談会は人数減らすために、2グループで行った。

 つまり、新聞記事と、次号の巻頭言を材料し掘り下げた。聞法もその最初のボタンをかけ違うと、いくら微調整してもダメということ。どこに焦点をあてて聞法するのか。聴聞の要についてである。

 法話は華光会館で聴衆を前に、朝と昼の2席を話す。しかし、その参加者とは座談会をもたずに、PCの画面の人達と分級座談会である。Zoomには、朝座はブラジルから子供たちも参加してくれた。こちらも2グループで分級座談会を行ったり、4~5名のグループで分かち合ったりもした。ブレイクタイムで簡単にグループ分けできるというメリットがあるが、目の前の人達とは関わらず、画面人達と分かち合うという不思議な感じがあった。でも、内容的には充実していたのではないだろうか。また東京支部では、Zoom法座に参加できない支部の皆さんに法話音源をCD化するという丁寧な対応ぶり。

 その後、何名かの皆さんから感想を頂いたが、初めての試みにしてはとてもよかったようだ。南無阿弥陀仏

 

 

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土曜日のzoom座談会

 休業要請中、法座も休んでいたので、その間、Zoomでの信仰座談会を、少人数(6~8名以内)、同じメンバーで、3グループで開いてきた。しかし、5月20日以降は、新しいスタイルだが、華光会館での法座か戻ってきた。以前のように週末の法座が続いている。ただしまだ支部法座はない。今週末も東京支部の予定だった。4月は中止となったが、6月は、土曜日の夜には、Zoom懇親会をおこない、日曜日は朝座・昼座の2座、Zoom支部法座を開催をすることになった。

 ということで、夜には懇親会はあるが、土曜日に法座が入らなかったので、Zoom信仰座談会をもつことにした。最近は、Zoom参加者が増えてきたので、同じ顔ぶれではなく、一度きりの顔ぶれでおこなうことにした。なかなか法座にお参りできない方も参加される。初参加の妊婦の方やアメリカ同行の方とご法縁を結べるのも、Zoom法座ならでは利点である。Zoom信仰座談会は初めてという方もあったが、これまでのメンバーが中心になった。Zoom法話会と違って、初めての方には少人数の座談会は敷居が高いのかもしれない。

 今回は、チェックインのあと、次号の華光誌の巻頭言を輪読した。サラッとひとりで読んでいては味わえないこと、読み間違いなどに気づけて、なかなかよかったのではないか。フリートークの良さもあるし、何かテーマをもつのもいいが、短い文章を読み味わう輪読のスタイルはZoom法座のスタイルとしてあっていると思えた。

 結局、みんな助かること、有り難いことを聞いているが、誰も落ちていく姿、落ち機を聞く人はない。そこでしか安心はなんだけどね。

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3度目の新月断食

 コロナ自粛から始まった新習慣、月一度の新月の日、断食である。

 いつものように断食を始める前は、憂うつになる。「なんかもういいかなー」とポソッと連れ合いに言ったりもした。でも、始まったら、それほどのことなはい。断食はいいいことだらけだ。食費はかからず、料理の手間は入らず、洗い物もない。時間も浮けば、食後の疲れで眠くなったりもしない。そして、翌日の体重は、1㎏以上のマイナスになっている(ただしこれは数日以内にもとに戻る)。しかし、それでも始まる前はなんなく躊躇する。決して空腹に堪えられないということはない。正直、ぼくには1日くらいでは大して空腹感はおこらず、お腹がすいてイライラするとか、眠れないとかもない(むしろよく眠れる)。だがら、断食明けの翌朝、「この調子なら、もう一日くらい平気だよね」と会話している。

 が、それでももう1日続けて断食はしない。なんとなく寂しいからである。

 たとえば、毎朝、コーヒーを淹れ、一口だけ甘いものを食べる。それは、クーキーやビスケットの1、2枚か、チョコレートの1、2カケラという程度で、空腹を満たすということより、ほんの少し甘いものを口にして、幸福感を味わうのである。そして、それが習慣として根付いているのだが、この習慣というのか厄介だ。それがないとなんとなく落ち着かないのだ。それは、夕食時の晩酌も同じ。酒飲みは、甘党てはなく左党というけれども、ビールや日本酒の正体は果糖なのだから、やはりこれも同じことだ。加えてアルコールの効果も大きいのだろう。

 そのアルコール依存(昔は、中毒)が厄介なことは誰でも分かる問題だが、あまり問題にならず厄介なのが、果糖依存(中毒)である。単に生活習慣病だけの問題ではない。人間が生きる意欲やエネルギーを削ぎ、考える力や精神性にまで影響を与えている、現代の大問題である。

 ところで、食べるということは何かとつながることではないか。だいたい口というのは面白い器官で、耳や鼻(穴)、目は、二つあっても役割は一つなのに、口は一つしかないのに、三つの役割を担っている。食べること、話すこと、そして触れること(性交)の3つもある。よく考えたら、その3つとも、自分以外の外部とつながる手段でもある。食べることは、異物を自分の中に丸ごと取り込み、それをエネルギーにする、私が生きるために必要不可欠なたいへんな行為なのであるが、いまは単に生きるための最低限の意味よりも、豊かさを求め、または寂しさを紛らわすために行っている。だから、単にお腹を膨らますのではなく、味わうのである。この味わうことがいかに大きいか。同時に、誰と食事をするのかも大きい。これもたいせつなコミニケーションの手段となり、孤食や拒食の問題ともつながっている。意識してければ当たり前だが、食は非常に深い意味があるなー。なんかここをもう少し深く考えたら、ブチ法話ができるような気がした。そんな効果もある新月断食。初めた以上、一年間は試してみたい。

 

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真カ研6月の月例会

 先月に引き続いて、ZOOMと、リアルの両方で。前回のことを聞いて、初見学者が3名もあって賑やか。ただ、人数もZOOMが多いこともあって、内容もそらちに押されて、会場の皆さんが聞き役に廻ってしまう。今の設備だけでは無理なので、なんとかいい方法があればと考慮中。

 さて、「真宗カウンセリングの人間観」の章にはいって、「親鸞とロジャーズの共通点」の節。先月に続いて発表者は、前回の指摘を受けて、しっかりとした発表をしてくださった。

 東洋と西洋、宗教(仏教)と心理療法、鎌倉時代の日本と現代のアメリカ。本来なら絶対出会うことはない。第一、浄土真宗は浄土真宗なのであり、カウンセリングはカウンセリングであって、まったく別物であるこきを押さえた上でなお、両者が出会い、交流し、統合しようという試みだ。それは、現代において「真宗とカウンセリング」が実践的役割を果たす上で出会ったことに機縁する。もっというならば、現代に生きるひとりの真宗念仏者が、まず真宗念仏に出会い、喜び、伝えていた過程において、ロジャーズの来談者中心カウンセリングに出会ったが゛単なる個人内部での出来事に留まらず、真宗が真宗の本来性を取り戻す機縁となるものである。

 その意味では、ただ両者の違いは当然でありそれをあげ諂っても意味なく、また木に竹を接ぐような安易な一致も浅薄で深まりは生れない。両者、特に親鸞さんとロジャーズさんの底に流れる共通的な人間に対する態度や、その人間観を明かにしようとする段であった。

 結局、両者の間には、「人間が真に人間らしく生きていく道」を探求しつづけられたという点において、また共に偉大なる精神的革命をなし遂げたという点においても、共通点があるということを、詳しく見ていった。月例会で久しぶりに刺激をもらって面白い集いとなった。

 

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6月の華光誌輪読法座

 平日の午後にも関わらず、お参りが多くて密を避けるために、3階から道場に会場変更とする。

 誌上法話の続き。一念の覚・不覚の問題。先生なりに、如来様の立場、教団として立場、そして体験として立場を三段階で。さらに、三業惑乱に触れて、かなり厄介なところである。さらにもう一つ「不断煩悩得涅槃の味わい」。こちらも、横超断四流のご文を交えてといて、皆さんにはかなり難しかったかのでなはいか。

 でもこのところは、心をくだいてお聞きしたいところだ。分かった、ハッキリしたといっても、ハッキリするというは、何がハッキリしたのかの? また、「ハッキリした」と断言できれば、それでほんとうにいいのか。本文にないが、ほんとうはこの点を詰めてあきらかにする必要があると思ったのだ。

「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」(御一代記聞書213条)

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イタリア映画『幸福のラザロ』

 さて、Tジョンで観た昨年の名作、3本目は、イタリア映画『幸福なラザロ』 。再開後では初の他の観客なし。3度目の「一人がためなりけり」映画だった。

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 寓話的な要素がある不思議なストーリー。理解し難い部分もあるが、それはそれで味わうしかない。

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 欧米の映画ではしばしばあることだが、キリスト教の素養が求めれる。映画の主人公の名「ラザロ」とは、キリストの奇跡によって死後4日目に蘇生した聖人で、「甦りのラザロ」「復活のラザロ」として、ゴッホやレンブラントなどの有名画家の素材になっているという。この復活したこと、そして聖人であることが、この映画でもキーワードになている。

 舞台は、20世紀後半のイタリアの山深い渓谷の寒村。でも普通の村とはまったく違った。洪水によって村への道路が寸断されて以来、完全に孤立し、中世のままに時間がとまっているのである。小作制度の廃止を隠蔽された地主(伯爵夫人)に支配されたまま、物々交換に近い日暮らし。辛うじて電気はあるが電球程度。自給自足の生活で、村人は学校も、選挙も、電話やネットとも無縁。けっしてこの村から1歩も出ることなく、一生を終える。村を隔てる河を渡った先には、死があると代々固く信じられているだ。唯一、伯爵夫人の代理で収穫物を扱う男を通じて、収穫物と交換して最低限の生活必需品を支給され生きているのだが、村全体で多くの負債を抱えちると騙されて、支配されているのだ。
 そんな村人の中でも、人を疑わず、怒らず、欲しがらない、純粋無垢な男が主人公のラザロ。村人からは、愚か者とてし、バカにされ、都合よくこき使われていくのだ。

 そんな日、伯爵夫人の一人息子が母親とぶつかり、自らの狂言誘拐を決行した。そのことから、ついにこの村の存在が警察の知るところとなり、村人は解放されていくのだが…。

 前半がこんな感じのストーリーだが、なんでも80年代にイタリアで行った実話の事件が元になっているというである。

 さて後半。では、不法な小作制から解放された村人たちが、幸せで豊かな生活が待っているのか?

 ここからもストーリーは、ますます不思議度を増していく。結局は、新しい構造での弱者への搾取が続き、しかも今度の支配者は、穏やかな紳士の仮面を着けているので厄介である。自由や自己責任の名のもとに、巧みに弱肉強食の世界が広がっていくのだ。弱いものはどこまでも弱く、強いものはますます強くなっていく。そんな社会構造の皮肉も描かれ……。

 

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「不要・不急」とは何か

 夕刊に、アベノのマスクの配布が全国で完了とあった。
 その新聞と一緒に、マスクが届いていた。ということは、これが最後の最後ということだ。

 もう世間で、マスク不足は解消されている。

 こういうことを、「不要・不急」っと言うんだと、教えてくださいます。

 京都市から国の一律10万円の給付金の申請用紙も5日前にやっとこさ届いて、返送したばかり。

 今日は、京都府休業要請対象事業者支援給付金(長~い)の手続きの最終日。ネットではなく郵送をする。
 これでやれるべきことはすべてやった。あとは待つだけ。

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リアル・Zoom併用の支部長研修会

 いつもは1泊2日間で開かれる支部長研修会。各支部長、役員が一同に会して、支部の実情、法座活動や問題点。よりよき聞法の場を創っていくにはどうすればいいのかを、心を開いて語り合う場である。加えて、法話や講話を行って、法座活動や伝道上の問題点などの研修もおこなっていく。

始まった当初は、役員や支部長の信心を問う、張りつめた空気のある厳しい法座であったが、そんなことは遠い過去の話。未信の方が自己の信を問うという場というより、支部の問題や事務的話題も多い。それはそれで大切な問題だが、やはりひとりひとりの信を問うてこそ、法座活動の活性化かおこるのだ。

 ただ今年はコロナの影響で1日だけに短縮。しかも、半数の12名がZOOM、半数の14名が華光会館に集うという、進行が難しい集いとなった。ZOOMならZOOMだけの方が、ずーっとやりやすい。会館に集う人が、スクリーンを見上げて話しかける(そんなことをしても何の意味もなく、カメラを観ないといけないが)場面が多く、道場に集う人々に語りかけるという雰囲気はならない。ZOOM側からの報告や意見を一方的に聞くだけなら、スクリーンに大写しとなり、スピーカーで音量も大きく、わかりやすい。しかし、問題は画面と会館の方が自由に触れ合うことができないところにある。どちらかというと、リアルの人達が置いて行かれる感じがするのだ。これは今後の課題だろう。ぼくも、マイクをミュートにしたり、ハウリングを抑えるためにスピーカーの音量のオンオフを繰り返す操作をなどで集中して話が聞けずに、ずいぶん煩わしかった。これもまた今後の課題。

 さて支部報告の内容は、今年は各支部に新しいの動きが起こり、新人が入って活性化したところがある一方、停滞したままの支部もあったりと、各支部の動きに濃淡があるように思えた。たった一人の力でもずいぶん変わる。一方で、「喜んだ」というところに胡座をかいてる人が多い支部は停滞していく。そんな違いがマザマザと現われてきた。その意味ではいい研修会になったのではないか?

 

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次号の華光誌は誌上感話

 華光誌はここまでは調に進んできた。

 誌上法話についてはふれたが、もう一つは、昨年の華光大会でのSさんの誌上感話である。本番では、マイクの調子が悪く、声が小さくて聞き取れなかった点もあったようだが、こうして文字に起してみると、とても有り難い。求道の道程も、克明に書いてくださっている。少しさわりだけを紹介。

 初めて、華光にお参りされた時から、後生の一大事に焦点があたり、自分のことが問題になっておられた。最初の方は、だいたい外側(本人は、いたって真剣に自分の問題だと思っておられるが)、三願転入がどうしたとか、宿善がどうしたとか、〇〇会についてどう思うかとか、どうしたらいいのですかとか、まあ、まったく無意味な質問を並べられる。しかし、これもプロセスで、一応無意味でも、お答えしていかないと、次には進んでいかないので、もっともらしいことを答えていく。邪魔臭くて、ドンドン進めていくこともあるが、ほぼそんな質問されてる方はついてこれず、中には傷付かれる方もあるようなので、最近は関わりに注意している。

 その点、彼はよくよくのご因縁のある方だった。そんな彼なればこそ、ぼくも、父も、最初からずいぶん厳しく接していたようだ。

 まずは、最初に、ぼくの座談会に。
 初めに来たきっかけを聞かれて、「信心決定しに来ました」と言ったとたんに、シーン。「あなた、信心欲しいんやー」「ふうーん」っ感じ。間違ったこと言っていないに、でも何か違うんですよ、何か雰囲気が…。
 その後、今の自分の現状、仕事や家庭のことをいろいろと話したら、先生から

 「あんたな、家庭が大事、仕事が大事、仏法も大事、全部同じにしてるやろ。仏法はそんなもんやないでー、もっと大きいもんや。それでは、ここでなくても良いんじゃないですか。他に行かれたらどうですか?」 と、バッサリと言われたというのだ。

 次は悟朗先生の信仰座談会へ。どんな発言だったのかは記憶はないが、先生からたった一言。

 「あんた何しにきたん。出ていきなはれー」

 私は、結構、切羽詰まってた。たぶんそれを見られて、私にビッタリな言葉をかけてくださったんだと思うが、その時はショック。

 「あんた、仏教聞く資格はないんだよ」…。

 まあ、ここに至るまでのプロセスもなかなか面白いので、華光誌をお楽しみに。

 ちなみに、もう一度、聴聞したい。仏法しかないと、聴聞の場を求めたとき、彼はインターネットで検索したという。その時の検索ワード。

「火の車、造る大工はなけれども、己が造りて、己が乗りゆく」

 これで華光会の誌上法話にヒットしたというのだがら、やはりなかなかのご因縁のお方。南無阿弥陀仏

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ポーランド映画『Cold War~我が歌、二つの心』

 Tジョイ京都で上映中の、昨年の名作の2本目は、ポーランド映画『Cold War~我が歌、二つの心』 3本のなかでぼくに一番フイットした。

  イギリス、フランスとの合作によるポーランド映画。モノクロで描かれているのに、豊かな色彩を想像させる映像美が見事。この年のアカデミー賞の外国語映画賞は逸品揃いで、『存在のない子供たち』『万引き家族』、そしてメキシコ映画『ROMA/ローマ』などとオスカーを争った。結局、受賞したのは『ROMA/ローマ』だったが、これもモノクロの見事な映像だった。

 さて、タイトルが示すように東西の緊張が高まる冷戦=cold war時代。第二次世界大戦から4年、共産圏、ソ連支配下の1949年のポーランドから物語が始まる。

 まだ復興途上のポーランドで、田舎の町を廻っては素朴な民謡やフォークソングなどの音楽を蒐集し、優秀な人達を集めて、国家歌舞団がスタート。主人公は、そのディレクターにして、音楽家、ピアニストの男だ。オーデションで出会ったヒロインは、魅力的な歌唱力に、破天荒、かつ複雑な歌手で、どうも虐待を受けていた父親殺しの過去がある。歌舞団は成功するが、国家や共産主義、ソ連を賛美するす音楽や舞踏が強要されるようになる。このあたりは、当時の共産圏の歌舞団ではよくある風景だ。
 
 そして、ベリルン公演を機会に西へ亡命する主人公だが、一緒に亡命する予定の彼女は現われなかった。

 その後、彼はパリでのジャズピアニストとなって活躍するも、パリでの公演をきっかけに再開する二人。でも、冷戦下、社会が複雑であったように、それを反映して、二人の関係も複雑で、一筋縄ではいかない。パリで活躍した彼女だが、再び夫のいるボーランドに戻ってしまう。ついに彼も自由を捨てて、彼女のために投獄覚悟でボーランドに戻り、強制収容所で労役につくのだ。この二人の関係はなかなか複雑で、妙味であることろが、この映画のキモだ。

 モノクロ映像にくわえて、説明を最小限に抑えて、描写に徹したアート系の作りになっているけれど、けっして小難しいわけではない。全編、すばらしい音楽で彩られているからだ。素朴な民謡やフォークソングに、共産圏の音楽、そして60年代パリを象徴するようなジャズに、ロックに乗って踊るシーンなど、リアリティーある音楽はすばらい。何より、タイトル(2つの心)にもなっているヒロインが歌い上げるバラッドが印象的。そして、ニヒリビム溢れるラストに、切ないピアノ・ソロと、もの悲しいアカペラもマッチしていた。

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『仏敵』第8章

「仏書に親しむ会」、『仏敵』第8章を読んだ。

 自粛解除後、5月後半から6月にかけて、法座参加者が多い。この仏書も、『仏敵』が終盤に入ってきてこともあって、これまでの倍(もともとが少ないが)の人出。3階研修場では車座になると一人一人の間隔が密になるので、道場での開催する必要があるようだ。

 『仏敵』もいよいよ佳境である。光明の世界が真実信の天地だと有頂天であった伊藤先生の縁他力の喜びが、野口道場の念仏者によって徐々に剥がされていくところである。それしても、自力の執心は根強い。ウソの皮が剥がれて、握ったものを諦めるまでには、ずいぶんの葛藤がある。大方は、この壁を破れぬまま、有り難いところ、尊いところで留まるのだろう。その方が楽だ。第一、これ以上深く考えず、目を逸らしていくことも、けっこう我々はきるようだ。まあ、この先を破っていくのかどうかも、深いご因縁である。それには、善き知識、同行との出会いがあるのか、ないのかである。チクチク言われたり、居心地が悪いところから、理由をあれこれつけて、人は逃げて、近づかなくなる。この40年間、そんなケースをイヤというほど見てきたのである。南無阿弥陀仏

 まあそれはともかく、ここでの伊藤先生も同じで、

「おれはよく小さなことで気に病む性だがら、今晩のことも案外くだらぬことが原因で疑惑が大きくなったのかもしれぬ。現におれの腹底には、このとおり清浄光明が輝いているのが感ぜられるではないか。これは本物だ。…」

 そして、胸の黒雲を一時感情に過ぎないと否定していくのである。

ほんとうに仏敵の恐ろしさである。

 法座では、ここは名所ぞろいなので、いろいろりろ尋ねた。
 生死の苦海に流れる流木をつかむのかどうか、お念仏を喜んでいて、臨終最後に「しまった!」と叫んだお坊さんのことなどをどう味わうかを皆さんに問うた。いやはや、皆さん、ちょっと心もとない。これでは「国に一人、郡に一人」なちぬ、「華光に一人、支部に一人」だなーと、ちょっとチクリ。ここは誤魔化せずに聞き抜いていただきたいところ。

 次回は、7月1日(水)夜18時50分~21時

 第九章 深信の徹底

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レバノン映画『存在のない子供たち』

  閉まっていた京都の映画館も5月22日に京都シネマと出町座が再開。順次、大手のシネコン映画館も再開する。6月1日からはイオンモール京都にあるTジョイ京都が再開。昨年、見逃した名作3本(うち2本はキネマ旬報でもベストテン入り)が、ライナップに並び、しかも各1100円とお得なお値段。これは観ないわけにはいかない。久しぶりに京都シネマ以外の劇場に通った。小学校の並びに建っているので歩いても15分もかからない。ただこれまでと違うのは、検温とマスクの確認があること。

 まずは レバノン映画『存在のない子供たち』。レバノン映画を観るのは2本目。少年が主役の傑作映画。でもね、子供が虐待されたり、危ないシーンに巻き込まれると、「もうやめて」と堪えられなくなってしまう。その意味では、この手の映画は苦手でもある。でもこれが、世界の現実。目をつむって避けて通るわけにはいかない不都合な真実がある。

 衝撃的なシーンで始まる。未成年(日本なら中学生くらい。生年月日が分からず正式な年は不明)の子供が刑務所に収監され、その裁判の過程で両親を訴えるというのである。親の罪はなんと「ぼくを産んだこと…」。

 いくら日本の格差社会で貧困が広がるといってみても、この苦悩はなかなか理解しがたい。
 周辺国で子供を含む民間人が平気で虐殺される内戦が激化し、難民が溢れ、人間としての安心安全、最低限の基本的な人権すらない中で、ますます弱者は虐げられていく。弱いものは、さらに弱いものを虐げていく。しわ寄せは、子供たち、特に女の子の立場はもっとも弱い。貧困と無知のゆえに、親は自分の子供を利用してでも生き延びようとする。

 親には戸籍もなく、学もなく、貧困にあえぐ。子供も当然、戸籍がなく教育は受けられない。幼児期から強制労働や犯罪の強要、そして家庭内暴力、ネグレクト、(特に少女に対する)性犯罪等、直視に堪えない現実が浮かび上がる。

 ふとしたことから、未婚で赤ちゃんを育てるアフリカからの不法移民との出会いう。ぎりぎりの生活だが、その優しさに触れてひと時の安らぎをえるが、不運が重なって黒人の赤ん坊を抱えた2人暮らしが始まる。少年が懸命に生きよとする生命力、究極サバイバルの力強さなども描かれるが、不安な心情を著すような不安定な近接撮影、少ないのセリフ描写など、ストーリー以外のタッチで少年の不安さ、揺れる思いを表現sれる。

 是枝監督の代表作の一つ『誰も知らない』(2004年)のテイストもあるけれども、現実の世界はもっと悲惨であるということ。でも、どこか人間のたくましさも垣間見る1本。

 ちなみに、残りは、ポーランド映画『Cold War あの歌、2つの心』と、イタリア映画『幸福のラゼロ』の3本。これもよかったです。

 

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京都支部法座+zoom配信

 東海支部の翌日は、京都支部法座。今度は逆に、華光会館に人が集うのをメーンに、Zoom配信はおまけだ。
 
 緊急事態解除後、法座の人数は20名以内の集いだったが、久しぶりの支部法座に参詣者は27名と多かった。一方で、Zoomの方も、アメリカ同人も含めて11名と、こちらもいろいなご縁の方があった。ただ人数が増えると、道場でも法話を聞くだけなら散らばれって30名くらいはOKだが、車座になった時に1mの間隔をとるのが難しくなった。人数が多いときは、分級座談会で対応したらいいのだろう。今回は、道場と、Zoom組は別に司会者を設けて教室で対応してもらった。

 法話は、新型コロナの自粛中に考えたことである。この危機的状況に真宗念仏者として、どう振舞えばいいのか。何か気の利いた言葉いのかと考えたが、どんなに力んでみても、明確になるのは、虚仮不実の世間に生きる凡夫のわが身ばかりだった。「凡夫とは、愛妻愛子これを凡と言い、惜身惜命これを夫という」。真面目くさって、自分こそ正しいと思って生きていても、所詮、逆立ちしているのが凡夫だと、伊藤康善先生は仰った。結局、真宗念仏者を自称する者も、哀れで、こころ幼く、拙い凡夫なのだということだけが、痛いほど明確になった。

 要は、死にたくない。痛いのもいや。厄介も勘弁願いたい。内外からの批判を畏れて右にならえで自粛し、そこからはみ出したものに白い目を向けていく。しかも、もらえる金はもらいたい。まずは命と、健康、そして評判に、お金が大事という、情けない凡夫丸出しの自性であることが、仏智によって明かになるばかりであった。

 しかしそこがまた有り難いではないか。そんな惨めな凡夫こそが、念仏一つで凡夫のまま救われていく道があるのだ。ならば、私は、この凡夫は凡夫の生地のまま聴聞し続けるしかない。ビビながらであろうが、強がってみせようが、または他者に批判的を心をおころうが、そんなことはまったく関係ない。ただ一つ、「だれの人も、はやく後生の一大事に心にかけて」阿弥陀仏を深くたのめ! この一点。、この私が、たのむ一念の身にならせていただくことを外しては、どんなきれいな言葉も、かっこいい生き方も、何の意味もないのである。

  アフターコロナの社会は、劇的に価値観が変化するといわれている。しかしどんな社会になっても、相変わらず「世間虚仮・唯仏是真」の真理だけは輝きを増し続けるのである。南無阿弥陀仏

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東海支部zoom分級座談会と懇親会

 法話のあとは、会館組は3階の研修場で、東海zoom組は、全体会のあとで分級座談会をもった。何グループでも簡単に分級座談に分けられるのがZoomの特色だ。アットランダムにグループ分けもできるが、今日は希望にそって手動で2グループに。始めてお会いする方が2名おられ、1名は大派の僧侶、もう1名はある会て長年聞いておられた方だった。

 慣れてきたとはいえ、やはり膝詰めでの座談会とは勝手は違う。初リモートの方や操作に戸惑う方もあったが、初の座談会としてはうまくいったのはないか。

 東海支部は飲兵衛が多いので、一旦休憩して、zoom懇親会も開催。リモートでも、勤行・法話、分級座談、そして懇親会と、いつも法座と同じ流れで進行できるのが、ちょっと面白い。2度目の懇親会だが、今回は気心がしれている仲間ということもあって、それなりに面白かった。でも、やはり懇親会だけは同じ場所で、ワイワイとやりながら、気になる人にチョコチョコと話しかけていくのがやっぱりいい。時間を少しオーバーして終了。何でも二次会もあって、そちらはskypeで盛り上がったそうだ。

 初の試みのわりにうまくは行ったと思うが、次回は、ぜひリアルな東海支部法座を行いたいですね。

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東海支部zoom法座+会館法話

 名古屋のお寺での予定されていた東海支部法座は、Zoomでのライブ配信法座となった。

 支部法座では初のZoomライブ゙配信。名古屋に行かず京都から法話を送る。画面の中には、東海支部の岐阜、愛知、三重の面々が並んでおられる。せっかくなので会館にも、京都や大阪の同人に集まってもらい、法話を聞いて頂いた。ぼくもその方が話しやすい。ただ明日は京都支部法座があるので、会館への参詣者は少なめだった。メーンはあくまで東海支部の方々で、会館組はおまけだ。 
 
 法話の中心は、先程京都新聞に掲載された売れ子の若手の本願寺派僧侶の「コロナ不安に効く、仏教の教え」を批判的に頂いた。個人的攻撃が目的ではない。たとえそれが不安に負けない心の持ち方によって、苦しみが癒されたり、生きていくことに役に立ったり、不安に効果があったとしても、そんなことは仏教でも真宗のお法りではない。自分に都合よく役に立つとか、効果かあるとかという点から仏教や真宗の教えを聞くのは本末転倒。そのうえで「後生の一大事」(死という行き先は決まっていて避けられない。だからこそ生きている今を大切に生きよ)「諸行無常」(明けない夜明けはない)「諸法無我」(決して一人ではない)などと仏教の旗印になるお言葉まで、今の自分に都合よく曲解されているのだから、まったく論外といわねばならない。

 教えとは、自分の都合で聞いたり、都合よく取捨選択するでのなはない。自分のほんとうの姿を聞くのであるから、それが自分にとっては不都合であったとしても、その不都合の真実を、頭を垂れて聞く以外にはないのだ。仏教の教えを「聞く」とは、効果や効率の「効く」という今生の物差しとは、まったく別なのである。

 では、改めて「後生の一大事」とは何か。巻頭言集の西光先生「一大事ということ」を基にいただいた。 ここが肝だが、いま一番なし崩しになってきているところだ。

 

 

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唯除(3)~今生バージョン

 新型コロナの影響で、永代経を始め大きな行事は延期、支部法座も寺院布教もすべて中止になって、4月、5月は、前年の同時期の収入の半分以下に落ち込んだ。売り上げが50%以下となった中小事業所は、持続化給付金の申請ができる。しかし宗教法人に関しては賛否両論があって、結局、見送りとなった。いまのところ雇用も守られているので雇用助成金も不要で、いただけるものがあればいただこうという、さもしい凡夫の根性は見事に砕かれたのである。

 持続化給付金の対象外について、京都仏教会が声明を出したという。それが

 「給付金対象から宗教法人は除外すべきだ」というのである。

 意外な気がした。除外せずに援助すべき、かと思ったら、逆だったのだ。声明の意図は、だいたい次のようだ。宗教法人に関する公金の支出が、宗教に対する援助や助成の促進につながり、憲法第20条3項、第89条に違反するからというのである。要は、公権力による介入を防ぎ、信教の自由をまもるという意味である。
 
 ああ、唯除されているのだなーと思った。でもこの唯除もまた有り難い。宗教法人は税務上での優遇措置を受けているのも、信教の自由、こころの問題への課税に絡んでいるからである。そうである以上、ここで援助が唯除されていることも、国家が宗教に対して口をださないことへの担保なのであって、その意味ではたいへん有り難いことなのである。

 京都仏教会の声明はこうも述べている。

「寺院の大多数は檀信徒の布施寄進に依存しており、営業自粛で特に大きな影響を受けた事業者に該当しない」。

 ところで、京都仏教会の中心は、超有名な観光寺院だ。それは名だたる多くの国宝・重文級の文化財を抱えている寺院である。このような宗教と国家の関係について立派な声明をだされたのだが、文化財の名においては(文化財指定が条件だが)、国からの補助金を受けおられるのだ。確かに国宝級の文化財の修復には莫大な費用がかかり、国家をあげて人類の宝を護ることは当然ではある。がしかし、信者が集う本堂や礼拝の対象である本尊は、まさにその宗教の目に見える形での本丸ではないのか。もし今回の仏教会の立派な表明の筋を通すならば、信仰対象である本堂や本尊も檀信徒の力だけで頑張って護るべきであって(できないのなら信仰の力の限界)、そこで筋を通す姿勢こそ、われわれ弱小零細寺院の模範となると思うのだが、、。本音と建前は違うのだろうな。

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唯除(2)

 その善導様の『法事讃』の

 「仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提、回心すればみな往くによる。」

は、特にたいせつな御文だ。本願でも救いに漏れた「謗法」と「闡提」も、回心するならば、本願力によってみな往生するというのである。『大経』「十八願文」、『観経』「下々品」に加えて、『涅槃経』の「難治の機・病(五逆、謗法、一闡提)」の者へのお救いに触れて、「誹謗罪」の者への救いが語られていくのである。このことは親鸞様も深く影響をうけておられる。

「『唯除五逆誹謗正法』といふは、『唯除』といふは、ただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」

といただかれた。

 お正信偈にも「凡聖逆謗斎廻入」とある。

 『信巻』でも、

「ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。」

 そのお救いを端的に著されたのが、次の仏智疑惑讃ではないだろうか。

 仏智うたがふつみふかし
 この心(しん)おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

 結局、謗法の罪人とは、仏法を謗っている他の人ではなく、聞法しながらグズグズと言い続ける、仏智・本願を疑っている私のことである。その姿を思い知るとは、他力によって教えてもらう以外にはない。それこそが聞法なのである。その恐ろしさを仏智に照らされ、教えられたならば、これまで一度も、絶対に下げることのなっかた私の頭が下るのである。「ああ、恥ずかしいな」、「ああ、こんなものが救われるはずがない、親不孝ものだ」と、大悲の親に涙せずにはおれない。しかし、その心こそがまさに悔ゆるこころではないか。その心こそ頂き物の他力のおこころなのだ。そんなものに涙してくださっていた仏さまの先手をかけたお救いだけがあるのだ。

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唯除(1)

 先日の聖典講座の内容に少しふれておく。

『観経』の『下々品』では、「十悪・五逆の罪人」の救いが説かれている。ところが、十八願文や『成就文』では共に、「唯除五逆、誹謗正法」と「五逆と正法を誹謗する」ものは、唯除するとのお誓である。同じ仏説なのに、一方は救われるとあり、もう一方は除くとある。これはどういただくのか。七高僧方も仏様の真意をお考えになったでのある。

 まず、曇鸞様の『論註』(八番問答)では、「十八願文」には 「五逆罪」と「誹謗正法」の二種類の重罪を犯すから除かれるが、「下々品」では、「五逆罪」のみの単独(より軽い十悪)で、「謗法罪」は犯していないので、お救いに預かることができる。ならば単独が救われるのならば、もし「五逆罪」を犯さず、「謗法罪」のみの場合はどうなるのか。それは救われない。なぜなら、「謗法罪」のものは、如来の本願を謗り、それを聞くことがないからであるとのご教示された。

 次に善導様は、『讃善義』で「唯除」を「抑止文」として、未造業と已造業と示されたのである。すなわち、「唯除」を「抑止(おくし)文を、「おさえ、とどめること」と領解された。つまり「五逆罪・謗法罪」が重い罪なので、それを犯させないためにも、往生できないと抑え止める意味があるのだと。まだ造っていないもの(未造)に誡められると共に、ではすでに犯してもの(已造)のものはどうか。その者には、その罪の重罪さを知らせ、廻心させて摂取しようという慈悲の現われそのものであるといただかれた。つまり、第十八願の「唯除」は「未造業の抑止」であり、観経の「下々品」は「已造業の摂取」とのお示しが『散善義』にある。

 

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華光誌の編集作業

 6月に入って華光誌の編集作業が本格化している。

 まずは誌上法話。4月にご往生された福岡のK先生の、華光会館での最後のご法話。終始一貫、人生でほんうとに急がねばならない一大事とは何かを、自身が種々の病におかされ不自由な体をおしてお説きくださっている。仏法以外のこの世のものは、学校、会社も、家庭も、人生を生きる手段や方法を教えるば場所であるか、唯一、お寺だけは人生の目的、生れてきて一番大切なものは何かを教えてくださる場所である。その人生の目的を語り合う場所、お寺には、その境内に必ず大木が立っている。その大木は、道場樹と呼ばれて菩提樹であったが、いまは、銀杏の大木が樹っている。「さあ、みんな集まって、生れてきて一番たつせつなことを聞き合いましょう、語り合いましょう」というのである。それが四十八願の中の第二十八願「道場樹の願」であると。
 そしてお寺で語られる人生の目的とは、生死を出づべき道を聞くこと。後生の一大事の解決にあり、それを浄土真宗では、南無阿弥陀仏の一つにして届けてくださっているのだから、その南無阿弥陀仏の一声を聞くことにあるというのである。

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