『仏敵』縁他力を超えて~
『仏敵』の七章後半から八章に入る。大きな転機をむかえる大切な章だ。
七章の「不可思議光の諦聴」で、水流光明ともいうべきの不思議な光明が届く体験に、喜び一杯に酔いしれていた伊藤先生の姿である。しかしその後、その誤りに驚かれるのだか、その直前に示唆するとこを読んだ。
第七章ではそれまで苦悩が一転、すがすがしく、喜びを満ちた表現は有り難い。ところが第8章冒頭(一)では、求道物語の流れから、唯一、説教のような解説に変わる場面である。小説としては、流れを断つ不可な部分であるが、求道指南書としては大切な一節である。よくよくお一人お一人の胸に問うていただきたい。同時に、「行巻」の光明と名号、そして信心と往生の両重因縁の引文からの解説で、お聖教に馴染みのない方には、骨が折れるだろう。皆さんも、事前にお読みになってきた方でも、心にかからなかった、もしくは意味が分からないという方が大半たった。
「友よ! 弥陀の大悲に感激する人は、無量無数にいるだろうが、弥陀の仏智不思議に触れた者は、国に一人か、郡(こおり)に一人といわれたくらいのものであります。私はこの光明の世界が真実信の天地だと思っておりましたが、まだまだ誤っていたというのですから、真宗の法(みのり)は、聞いた上にもよくよく思案して聞かねばならぬ教えであります」
慈母の光明によるお育て(照育)がなければ、私は仏法聴聞などしない。如来様が、私の機根に合せ、幾重にも命をすてたお育てのたまものがある。その温かな慈愛に満ちた光明の働きが縁となって、お名号の一人働きにより真心徹到の身とならせていただくのである。だが大半は、その光明の縁に包まれた喜び、有り難さで留まってしまうというのだ。その恐ろしさ、そこが仏敵の仏敵たる所以である。縁他力で留まらず、そこを破ってお聞かせいただけ、これが華光に流れる精神なのだ。すると、光明の縁は名号の働きの因と和合して、信心の業識となり、往生浄土の因となるというのだ。名号の慈父のお叱りによって因他力まで聞きぬく。いわば、光明の慈母の尊い縁を捨ててこそ、初めて名号の慈父のお働きが発揮されるのではないか。そして本願の実機が知れるのである。
「久遠の実機は、願力の不思議によって、ご回向の南無の機に転じます」
この短い一文が光っている。ここのところは、大事をかけてお聞かせいただきたい。
日時=6月10日(水)夜18時50分~21時
『仏敵』第8章「光号の因縁」(2)(3) (光明と名号の因縁ということ)
| 固定リンク