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月を指す指

 お釈迦様は真理(理法)を悟られ目覚めをされてブッダになられたときに、伝道をためらわれる話は有名だ。体得された深い真理を、欲得に狂う人々に伝えることが、いかに至難の業であるかを分かっておられたからだ。しかし、梵天勧請によって説法による伝道を決意されるのである。そのとき、釈尊が悟られた真理も、またその真理を釈尊が伝えられた言葉も、共に「法・ダルマ」である。前者を「理法」、後者を「教法」というのである。「教法」は真理であるが、言葉は真理そのものではなく、あくまでも真理の月を指し示す「指」なのである。

 リモートでの信仰座談会。表情は見えても生身ではないので、雰囲気や間合いよりも、ますます言葉を頼りに聞く確率が高くなってくる。

 DVD『南無阿弥陀仏のこころ』の中に、
「『はい』でもない、『分かりました』でもない、『称えます』でもない。火に触れたら「熱い!!」と間髪いれずに絶叫するように、一度も死んだことのない業魂に飛び込んできてくださった阿弥陀様の呼び声、「南無阿弥陀仏」しかないのだ」という勧めがあった。

 すると、「はっきりしない、体験のない信心はダメということですよね」という質問が出る。そんなことは仰っていないが、自分で置き換えて理解しようとしている。しかし、お勧めの言葉は、真理の月を導き示す指でも、けっして真理そのものではない。しかし、凡夫の私は、何か手がかりがないと前に勧めないと思いこんでいる。だから、その言葉に固執して、それが自分の胸に腑におちることが信心だとさえ曲解していくのである。

 結局は、聖教の文句やお勧め言葉を頼りにしたり、それを喜べる感情をたよりしたりしている。知的であろうが、情的であろうが、我が身の理解や感情を第一にして、阿弥陀様のおこころを二番手に押しやっているのであるから、ころころ変わる自分のところを一喜一憂しているのにすぎない。

 泣いたのも、分かったのも、有り難いのも、私のこちら側は、すべて虚仮で、まったく用事がないのが、不思議の世界 南無阿弥陀仏。

 

 

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