スカイプ座談会始まる
京都は30度を超えて早くも真夏日になる。本来なら永代経法要の初日だ。母が、「暑い永代経になってたなー」といったが、いろいろな意味で篤い法座になる予定だった。しかし、これも予め仏説に説かれている無常の理で、驚くことではない。何が起こるのかほんとうは分からない世に生きているのに、一分も予定通りになると信じて疑っていなかったのだ。まさに轉倒した迷いの姿がここある。
緊急事態宣言が全国に適用されてからは、ぼくも法座も、布教も、完全に休業状態。それでも、何かご法に関わることで、いまこそ、同人の皆さんと繋がることはできないかと考えていた。
華光の法座の特色は、一方的な法話や講話ではなく、それを分かち合い、伝え合う信仰座談会にある。ただ単に一方的に発信すれば済むのではなく、ひとりひとりと関わりを大切にしている。特に、その方の受け止めや味わいを忌憚なく伝えあう雰囲気を造る努力をしてきた。それが、大きな集いではなくても、全国からの参詣者が集まる宿泊行事はしばらく開催は難しいだろう。せめて、スカイプを使った信仰座談会を始めたと呼びかけをした。
最初の反応に比べて広がりは乏しかったが、6名のグループが二つできた。それを土曜日、日曜日に分けて開催。同支部が偏らないように、これまで出会うことのなかった方にも混ざってもらった。新しいご縁の方の方が積極的でそれもよかった。
単なる雑談ではなく信仰座談会なので、最初と最後に「礼讃文」をいただき、予め拝聴したDVDの分かち合いなどをおこなう、ご法座である。
確かに難しい。限界も感じる。
目の前に生身の人が車座にに坐り集うのなら、例えば沈黙も味わえ待つこともできる。言葉だけでなく、息づかいや雰囲気を感じて動くこともできる。かっこよくいうと、その場の雰囲気や間を、からだで見計らうことが出来るのなが、やはりリーモトとなるとそこは限界がある。さらにそれぞれのネット環境も違うので、うまくつながる人ばかりではない。途切れる人、うまく聞き取れない人も、操作に不慣れで途中で消える人(慣れてくれば解消されていく問題もあるだろうが)もある。一言でいうと、手を伸ばしても届かないもどかしいさがある。
しかし、いまは完璧を求める時ではない。どんな形でもいいので、遠近各地の人達が画面上でもつながり、法悦を語り合えたことが不思議を味わった。一部では、突っ込んだ話題にもなった。細やかな息づかいまでは聞き取れなくても、涙声が聞こえてきたり、お念仏のつぶやきも聞こえてきた。
これは求める人の姿勢が大きい。さまざまなツールを使ってご縁を結べるのだがら、とても有り難い世の中にと生れさせてもらっているのである。
お念仏はひとりでも、またいつでも、どこでも称えることのできる。それをネットを使い、たとえガタガタの画面でも、顔をみながら共に称えること出来った。南無阿弥陀仏。
来週も、引き続きご縁を深めていくことになった。
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