日曜日のZoom座談会で味わってこと
土曜日から一週遅れて始まったので、今回が2回目。メンバーがひとり抜けて、ひとり加わって、7名が参加。
こちらは若手の僧侶やベテランの方もおられて、雰囲気が違う。一方で、いま、熱心な新会員もおられて、新鮮。
常に涙になって聞いておられる方がある。その姿は尊い。しかし、S先生の明言に、「涙は真実を曇らす」とある。聞き手も感情に酔うが、説き手も知らぬ間に焦ってしまい、プロセスを踏まずに勧めようとしてしまう。こんな時は、説き手に覚めた目が必要だ。
聴聞は聞くことにきわまるというが、ただ黙っていることが聴聞ではない。単に鵜呑みにするのでも、知識を聞くのでもない。ましてや自分の心を仏法に合せるのでもない。そのためには、正解を答えるのではなく、まず自分を聞いてもらうことがなければ、心は動いていかない。心が固まったままならば、聞けるわけがないのである。しかし、どうしても、人は正解の方に心をあわそうとしていく。しかし現実の心は違うので、現実と理想のギャップに葛藤を抱えて、常に「これから頑張って聞いてていきます」というようスローガン的聞法で、心を慰めていくのである。心情としてはよく分かるが、それは逆なのだ。正解に合せるのではなく、分からないことは分からない、有り難くないとこは有り難くないと、遠回りのように思えても、まずは自分のところを開いて伝えていくのが肝要なのである。それをよく受け入れ聞いてもらえたならば、私の心も自由さが広がって、どんな感情や思いにも恐れることなく話せるようになってくる。そうなれば、しめたものだ。先手をかけて聞き届けてくださった阿弥陀様は、私のどこを聞いてくださっているのか。決して、聞くことのできない私にも、南無阿弥陀仏の響きが轟き、聞き受けることができる世界があるのだ。
しかし今日、仏教や浄土真宗が細ってきたのは、このよう機微を語り合う信仰座談会が衰退したことが一因にある。一方的な法話はある。多少の質疑もあるし、勉強会も盛んだ。話し合い法座の大切は建前としては語られているが、ほんとうに聞き会い、育ち会うような関係の法座は、ほぼないに等しい。信仰座談会のほんとうの豊かさ、面白さ、そして重要さを分かっている僧侶や指導者も少ないのが現状である。実地のお育ての経験がない、もしくはそんな知識に出会ったことがない以上、無理もない話であるが、危機感も抱いている。
コロナ禍で、実際に人と人とが対面して座談会をもつことはできないが、リモート信仰座談会でも、ここまでできるのだというと実証をしてみたいと思っているのである。南無阿弥陀仏
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