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この世のことは、なんとでもなる

 今月も、会計士のY先生と、スカイプでの会計(月次)の説明。

  法座が開けないのだから分かっていたことだか、4月の収入が振るわない。前年同月比で60%の落ち込みだ。それでもまだ4月は前半に法座があった。5月以降はさらに厳しくなることか予想される。もちろん厳しい状況は世間も同じ。幸い、会館は、家賃(以前は借地だったのであった)や借金の負担がない分、助かっている。それでも、この先が見通せない以上、運営や経済的な不安はつきまとう。

でもこのような状況であればあるほど、真実のお法りが光が輝いてくる。そして、先師の悟朗先生のお言葉が思い出される。

「この世のことは、なんとでもなる」

というのが常の仰せだった。
別に、単なる楽観論でも、心の持ちようをいったものでもない。「なんともならない」というのは、ただ私の都合が悪い方に進行するだけのことであって、たとえ、自分にとって最悪の方向に動いたとしても、今生事ならばなんとでもなるというのである。

ほんとうの大事、問題は別にある。「後生の一大事」である。後生の解決こそが、一大事なのであって、この世の経済も、生活も、今生事であり、因縁ならば何が起こるかわからないのだと。
そのことをお聞かせに預かり、その後生の解決に焦点をあてて、聴聞させてもらってきた。そして、有り難いことに、後生の夜明けをさせててもらったのである。

確かに、今の状況は厳しく、先行きは不安だ。法座が開けず同人とも語り合えない寂しさもある。しかしである。どこかで、それもまたこの世の中の出来事。業ならば受けていくしかないと、落ち着いて腹を括らせてもらえるのが、なんとも不思議である。

しかしながら、いまの華光会も「コロナの一大事」が看板になってしまった。改めて「だれのひとも、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたの」めとの勅命をお聞かせいただきたい。

親鸞様は、行巻に『楽邦文類』を引用されている。

「一たび人身を失ひつれば、万劫にも復せず」。

これは、いのちは貴重だら大切に守れというような寝惚けた意味ではない。前後を現代語訳(本願寺出版)で示しておく。

「人生は、夢幻ようであり、真実のものは何一つない。寿命ははかなくて、長くたもつことができない。わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。ひとたび人としての命を失えば、もはや一万劫を経てももとにはかえらない。今この時 目覚めなかったなら、仏にも、私たち衆生をどうすることもできない。どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。」

 今、聞かずにいつ聞くのか! 南無阿弥陀仏

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