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2020年5月の31件の記事

決定的瞬間~凡・聖の格差~

 東寺のお掘りにて。
 サギが魚を捉える瞬間を撮ることができた。

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 お釈迦様が出家されるきっかけの「四門出遊」は有名なエピソードだ。老苦、病苦、死苦を目の当たりにされるのである。そしてもう一つ、「農耕祭」のエピソードがある。これは、自然界の弱肉強食、弱い生き物が強い生き物に食い殺される現実を前に、人生とは何か、何のために生きているのかと思い悩まれるのである。

 さすがは、ブッダとなるお方である。

 残念ながら、凡夫のぼくは違った。

 おお、決定的な瞬間が撮れたなと、ただ喜んでいるのである。

 

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「真宗法座の集い」開催!

 緊急事態宣言の解除の可能性にかけて、会館の法座を5月20日以降に集中させた。おかげで、日曜礼拝以外、無事(たぶん。結果はしばらくまたねばならないが)に開催することができた。今回の「真宗法座の集い」も、1日に短縮するか、予定通り2日間開催するのか迷った。全国の緊急事態宣言が解除がされたのをうけて、2日間の開催を決定。ただし、人数を10名に絞り、宿泊は各自で、懇親会も自粛、マスク着用に、間隔を開けた着座、最後は除菌での掃除で終了するなどの対策を施した。

 急な決定で集まる人はあるのか心配したが、物好きな(失礼熱心な)参加者はあるものだ。全日参加が9名に、1日参加が各日に2名ずつで、13名の参加があった。部分参加があるので、だいたい10名に世話人2名で、6名ずつのグループが二つできる計算である。

 ただいつものとは樣子が違う。以前なら、「なるべく近くによってください」と呼びかけていたのを、「なるべく間隔をあけて座ってください」と、道場の端から端まで大きな車座になった。しかも常にマスク着用。距離とマスクのために、人数が少ないのに、大声で、ハッキリと発音しなければ、声が籠もって聞き取りづらいかった。なんとなく、調子がでなかったが、これは慣れていくしかない。

 そして法座か終わって除菌液で消毒清掃をしたら、皆さん、早々に会館を出て行かれた。宿泊法座なのに、会館への宿泊者0(ゼロ)、懇親会もなしというのは初めての経験。たいへん寂しいが、これもいまは致し方なし。でも、風呂があがると、連れ合いがハイバールを手に始めていて、夫婦だけでの懇親会(いつもの同じだが)を開いた。

 皆さんも、久しぶりの2日間の法座で、しかも不自由な形だということもあって、どこかヨソヨソをしかったり、戸惑ったりもてしていたが、不思議もので、だんだんと心が温まって開いてくるのだはあったが、そのころには終了となったのはちょっと残念。何分、誰もが経験したことのない事態のなかで開かれたご法座としては、精一杯の形だったのではないだろうか。2日間、皆様ありがとうございました。南無阿弥陀仏

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気持ちは分かる!

 自粛生活が続くなかで、意外なものが売れているというネットニュース。巣籠もりで、ゲーム(特に任天堂のあつ森)が売れるのは分かる。粉者関連(たこ焼きやお好み焼きなどのグッズ)も分かる。除菌グッズや衛生関連も分かる。一人でも、家族でも楽しめたり、身を守ったりするものなのだ。しかし意外なものではない。

 意外なものの正体とは……。

 「男性用カツラ」 

 何故? 売り上げが伸びる理由、皆さんは分かります? 自粛中で人に会うことも少ない。飲み会もない…。いまさら奥さんに隠す必要もない。それなのに何故? その意外な理由は、

「zoomやskypeなどのリモート会議が増えたこと」。

 えーどうして? 人に会わないのに。がしかし、実際にzoomやskypeでの長時間の会議をやった人は、うすうす実感する。

 そう、zoomやskypeでは、相手だけではない、自分の姿も同じように映っているのだ。日頃の集りや会議では、目の前の人は分かるが、自分の姿は見えない。だから、人のことをあれこれ言える。目は、外を見るようについているからだ。

 人は、毎日、鏡は見る。しかし、そのときはすました顔をする。そして薄くなっていることに気付いていても、見て見ぬふりができるのである。そう、事実であっても、都合の悪いことは、ないことにできるのである。

 しかし、zoomやskypeでは、他人と同じように、自分の発言している姿も、退屈そうに人の話を聞いている姿も、平等に映しだされる。しかも瞬間ではない。2時間でも、3時間でもありありと映し出されるのだ。嫌なものだ。

 い~や、この気持ち、痛いほど分かる。

 しかし連れ合いが言った。

「でも昨日のリモート会議で禿げてた人が、突然、フサフサになったらおかしくないか」

 その通り。こんな滑稽な話はない。

 人は、他人の目を気にしている。しかし、結局、その他人の目とは、自分が「人の目に映っている自分」を気にしているのである。要は、他人ではない、すべて自分の気持ちの問題なのだ。

 あれ、これって聞法でも同じじゃないですか?

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『仏敵』縁他力を超えて~

 『仏敵』の七章後半から八章に入る。大きな転機をむかえる大切な章だ。

 七章の「不可思議光の諦聴」で、水流光明ともいうべきの不思議な光明が届く体験に、喜び一杯に酔いしれていた伊藤先生の姿である。しかしその後、その誤りに驚かれるのだか、その直前に示唆するとこを読んだ。

 第七章ではそれまで苦悩が一転、すがすがしく、喜びを満ちた表現は有り難い。ところが第8章冒頭(一)では、求道物語の流れから、唯一、説教のような解説に変わる場面である。小説としては、流れを断つ不可な部分であるが、求道指南書としては大切な一節である。よくよくお一人お一人の胸に問うていただきたい。同時に、「行巻」の光明と名号、そして信心と往生の両重因縁の引文からの解説で、お聖教に馴染みのない方には、骨が折れるだろう。皆さんも、事前にお読みになってきた方でも、心にかからなかった、もしくは意味が分からないという方が大半たった。

「友よ! 弥陀の大悲に感激する人は、無量無数にいるだろうが、弥陀の仏智不思議に触れた者は、国に一人か、郡(こおり)に一人といわれたくらいのものであります。私はこの光明の世界が真実信の天地だと思っておりましたが、まだまだ誤っていたというのですから、真宗の法(みのり)は、聞いた上にもよくよく思案して聞かねばならぬ教えであります」

 慈母の光明によるお育て(照育)がなければ、私は仏法聴聞などしない。如来様が、私の機根に合せ、幾重にも命をすてたお育てのたまものがある。その温かな慈愛に満ちた光明の働きが縁となって、お名号の一人働きにより真心徹到の身とならせていただくのである。だが大半は、その光明の縁に包まれた喜び、有り難さで留まってしまうというのだ。その恐ろしさ、そこが仏敵の仏敵たる所以である。縁他力で留まらず、そこを破ってお聞かせいただけ、これが華光に流れる精神なのだ。すると、光明の縁は名号の働きの因と和合して、信心の業識となり、往生浄土の因となるというのだ。名号の慈父のお叱りによって因他力まで聞きぬく。いわば、光明の慈母の尊い縁を捨ててこそ、初めて名号の慈父のお働きが発揮されるのではないか。そして本願の実機が知れるのである。

「久遠の実機は、願力の不思議によって、ご回向の南無の機に転じます」

この短い一文が光っている。ここのところは、大事をかけてお聞かせいただきたい。

  日時=6月10日(水)夜18時50分~21時

  『仏敵』第8章「光号の因縁」(2)(3) (光明と名号の因縁ということ)

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63年の歴史に幕

 華光会館を建立され、維持できたことは、同人の皆様方のおかげではある。経済的な面では、創建当時から30年近くは、アパート(間貸し)と文化教室の収入がなければ、借金返済も、維持もできなかった。特に、当初からの文化教室は大盛会で、華光会を支えた一番の功労者であった。毎日、実にいろいろ教室が開かれていた。

 「珠算」「書道」を中心に、「簿記」に、母が担当した「華道」や「茶道」、「図画・工作」は悟朗先生が担当し、「学習指導」、「編物教室」まであった。その生徒さんが、毎日曜日朝の日曜学校にも参加くださったのである。アメリカさんKさんがおられた時には、「英会話」教室も開かれた。終わっていくものもあったが、珠算(週3回、2部制)、書道(夕方と夜の2部制)が主力で、どちらちも100名以上の生徒からがおられた。そして、姉が頑張っていた「ピアノ」「オルガン」教室が加わった。

 終わっていく中で、頑張っていた「珠算教室」が終わり、悟朗先生の最晩年に「書道教室」もなくなった。細々だが、最後まで続いていたのが「ピアノ教室」だ。それが3月からコロナの影響でお休みとなり、そのうち先生が体調を崩された。6月からの再開を約束していたが、先生がステージ4の癌宣告と分かったのは、一昨日のこと。休止中に生徒も減少し、あまり急なことで交代の先生のメドも断たなかった。

 残念ながら、華光文化教室の廃業を決めた。

 突然、63年の歴史に幕が下りた。

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京都シネマの再開

 京都シネマが営業再開をし、約40日ぶりに映画を観る。自粛中、テレビ映画はもちろん、ネット配信もDVDでも、1本の映画も見なかった。案外、これでもOKだと過ごしていたが、再開されるとなるとやはり観たくなるものだ。劇場は一段と厳戒状態で、入り口で手を消毒し、マスク着用が入場の条件。座席も半分以下に制限されている。窓口で座席指定を受けるが、タッチしない。ロビーも長いできないようにイスが撤去。スタッフもゴム手袋やフェイスガードでの対応し、極力、接触をさけている。これが当たり前になってしまうのか。時が過ぎて「あの頃は…」と滑稽な思い出になるのか。今週は、平日に訪れたが、15~20名程度、1本だけ30名ほどの入り。もし満席になっても、通常の半分以下で、採算が採れるのか心配なところ。経営破綻しているだけに、映画館の存続に関わる問題。

 他の映画館もこれから再開するが、ほとんどが鑑賞済みのものや旧作。上映作品の難しさがある。新作も交じっている京都シネマに通った。。
 フランスのドキュメンタリー映画、『21世紀の資本』を皮切りに、
 香港のハートフルな映画『淪落の人』、
 インド映画『プルーム兄貴、王になる』は絢爛豪華で、エンタテーメントと温かさがマッチングした1本。
 そして韓国のコメディー映画『エクストリーム・ジョブ』の4本。アジア映画を観ることが多かった週。

 

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初のZoom懇親会

 さて、その夜は、これまでの土曜・日曜グループでの初めての懇親会を開く。華光の法座の面白さは宿泊法座にある。その中でも、懇親会は単なる飲み会では終わらない魅力もある。コミニケーション的にも親密になり、自らを、そして法を語り合う場なのである。それが、コロナの今、身体的な密は嫌われた。せめて、さまざまなツールを使っても、精神的には孤立をしないことを試みられている。世間ではZoom飲み会が盛んだが、ここではZoom懇親会と名付けた。

 ぼくもお酒のつまみになるおかずを前に、ビール・ワイン、焼酎、連れ合いはハイポールと、Zoomを前に、夫婦で本格的に飲んだ。皆さんはそれぞれだった。飲むことに主眼のない方もあったが、やはり懇親会は飲み食いしてこそ、楽しい。

 雑談も楽しんだが、不審の方を中心にした仏法の話が盛んだったのではないか。ただ普段の懇親会だったら、大きなグループから、二人、三人の小グループに分かれ、席を移って、話す人も変わったり、また結合したりを繰り返すしていくのだが、リモートではそれは難しい。Zoomでは分かれることせ可能だが、実際のような自由さはないのは致し方なしだ。

 

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新グループでのZoom座談会

 午前中、新しいメンバーでのZoom座談会を始める。

 アメリカ、カリフォルニア州のお同行にあわせて、午前中(アメリカでは夜)に設定した。他に、栃木、広島、岐阜、高山と、地域もバラバラ、今年からの会員に、ベテランの方と、ご縁もバラバラ。お互いに接点のない方もあって、これはエンカウンター的でよかった。第3グループなので、Zoomの開通は苦労された方も多かった。一昨日のテストがうまくいかず、今日は、近くの同人の助けをかりて、無事に画面に向かわれた方もあって、ホッとした。「久しぶりのご法話で、有り難かったです」との声をいただいた。

 初めてなので、緊張気味の方が多く、リードをする。華光誌を読んでの感想だったが、ポイントの章を声を揃えて読んで、解説したり、味わいを分かち合ったりしながら進めた。対面よりも、よくお話される方があったりもした。何よりも、アメリカからの参加者と分かち合いができたことがよかった。午前の法話がしれば、ぜひご参加いただきたいものだ。

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聖典講座~初の試み~

  今日から関西の緊急事態宣言が解除。まだ油断できないが新しい生活スタイルが始まっている。

  先月は休んだ「聖典講座」を開催。参加者は16名。まだ県境越えを自粛される方もあるで、同時にZoomでのライブ発信を行う。急な呼びかけだったが、こちらは10名のご参加。法話をするのも3月20日以来、まる2ケ月ぶり! しかも、初のライブ発信だ。目の前に参詣者もいるので違和感はなく、Zoomのための専用マイクをつけたので、音声も問題なく届いたようで、「まるで私ひとりにご法話を頂いたようだ」とか、「東京にいながら、京都の法座に参加させて頂いているようで不思議だ」という声を頂いた。

 それは華光会館に集う方々も同じ。大半が、このような経験が初めてで、スクリーンに大写しになった皆さんを、もの珍しそうに、興味津々と眺めておられたのが印象的。おかげで、いつもの座談会とは雰囲気違って、道場の皆さんが、スクリーンの皆さんに向き合って、いろいろと話すという雰囲気になっていたのも、面白かった。

 これまで考えたことはなかったが、案外、これはいけるのではないか。コロナが収束しても、遠方の方や参詣できない方にむけた、新しい法座のスタイルになっていくのではないか。

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2度目の新月断食の日に

4月に引き続き2度目の新月断食日。新月は明日だが、法座の関係で1日前倒し。前回の経験があるので心配はないが、食べないということは、寂しいことである。大半は、習慣という脳が食べるのであって、食事時間が近づくとお腹がすく。でもそれが過ぎれば、なんともなくなるのが不思議。夫婦でやるとお互いに励み(もしくは監視)になるので長続きする。積極的に水分は補給するがアルコールは呑まない。まる1日の断食だが、昨晩の夕食後なので翌朝までで36時間断食だ。この分なら、明日の夕食まで進めると、48時間も苦ではない気もする。

今日から、かなり日常が戻ってきている。もちろん徐々にではあるが…。

朝は自力整体の教室があった。午後からは、散髪に行った。久しぶりだ。なんとなく控えていたが、法座も再開されるので2ケ月以上ぶりに短くしてきた。

明日の聖典講座の準備。法話は3月20日以来となるので2ケ月ぶり。まだ府県をまたがる移動は控えぎみなので、急遽、zoomでのライブ配信をも思い立った。教案の準備よりも、ネット配信の作業に時間を費やしている。

夕方、風呂にお湯がたまらず給湯器がエラー標示。給湯器が水浸し。水漏れがしているようだ。ここは改修時には変えなかった部分。やはり歳月による劣化は避けられない。修理は明日以降になった。幸い3階は大丈夫だったので、不自由だが助かっている。ある意味、これもまた日常の出来事。

 

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真カ研~月例会~リアルとZoomとのハイブレッド

   輪読法座に引き続いて、真宗カウンセリング研究会の月例会も開催。いつもの会場の龍谷大学が閉鎖中で、華光会館が会場。

   今回は、試験的にリアルな月例会と、リモートでの参加者での共同開催を行う。幸い、昨年の工事の時に事務所を教室に引っ越して、2階にもネット環境が整っていた。ノートパソコンからプロジェクターでのスクリーンに大写しにして、音声はスピーカーから、zoom参加者の樣子はよく分かった。ただリアルが複数の場合、こちら側の音声が聞き取りづらいという問題が発覚。それでも初めてにしてはよかったのではないか。

  参加者6名に、Zoomが7名、85歳の奈倉先生もわざわざ来館。発表のSさんも頑張ってくださった。また京都での学生時代、常連だった皆さんが、久しぶりに月例会に集いたいせつな指摘をくださり有り難かった。これはコロナの効果である。

 内容は「親鸞とロジャーズ」の項目。ある意味では、真宗とカウンセリングではなく、凡夫が弥陀の本願にめざめる道を身をもって明示された親鸞様と、クライエント中心セラピーを提示されたロジャーズさんとの両者の人間観についての比較である。まずは、親鸞様の人間観、そしてロジャーズさんの人間観のそれぞれを明かにされる項目である。

 今回一番の収穫は、発表者が真摯に、張り切って発表されたことである。だからこそ、参加者も真摯に批判し、また率直な意見が聞けた。結論をいえば、まずは発表は、著者の述べていることをしっかりと抑えていく作業である。その時は、自分の思いは交えずにそのままを要約していく。大切なことは、著者の言わんとする意図を理解し、それう要約する力である。そしてそれができた上で、初めて自分の意見や思いを述べればいい。これはカウンセリングの聴き方や真宗のご聴聞にもつながる要点だ。往々にして、自分のこと思いか、相手の思いかがゴチャゴチャになっていくしまう。日常生活ではだれもそれを指摘されないが、カウンセリングや聞法の場合は、ここは厳密にしてく必要だある。ある意味、それができることが聞けることであるのだ。

 そのことが明かになってのも、発表者が課題に真剣に向き合っておられたからだ。その姿勢の尊さに脱帽である。

 次回も、リアルとZoomでのハイブリット開催である。一度、関心のある方は、Zoomでの参加が可能がいまがチャンス。お気軽にお尋ねください。

 日時:6月17日(水)夕方18時30分~20時30分
 会場:華光会館2階教室
 内容:「育ち合う人間関係」真宗カウンセリングの人間観~親鸞とロジャーズの共通点~

 

 

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1ケ月ぶりのリアル法座~華光誌輪読法座~

 京都府が独自に休業要請の一部解除を決定をうけ、華光会館での法座活動も再開した。
 約40日ぶりの法座は「華光誌輪読法座」。4月の最後も輪読法座だったので、「輪読」は一度もお休みなしである。顔ぶれもほぼ同じだが、大阪の方は欠席が多く、10名の参加。この程度の人数から始めることにした。マスク着用、間隔をあけて着座された。1ケ月ぶりとはいえ、長く自粛生活が続くので、皆さんも再会を喜んでおられた。

 誌上法話は、悟朗先生の正信偈講讃。釈尊のご教化で、信心の五徳についての最初、一念業成の項目。

「能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃」

 語句の解説や意訳まではよかった。が、補足に入って、一念に「行の一念、信の一念」があり、さらに「信の一念」には、時剋と心相があり、またそれぞれに『大経』の出拠と、親鸞様のご本典の出拠がある。これは教義の問題でとどまらず、安心上でもっとも肝要な点であり、さまざまに歴史的な論争を巻き起こした要点でもある。一度読んだくらいで、「はいわかりました」とはならないところで、皆さんも苦戦されていた。今は、詳しくは理解できなくても、しっかり味読していただくことに意義あると思った。 来月もこの続きで、一念の覚・不覚の問題へとつながる。

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新刊~聖教のこころ~『経教は鏡なり』

~聖教のこころ~『経教は鏡なり』が完成した!

3月から準備を進めていた。5月初めの永代経法要での「修繕事業」記念法要でお配りする予定だった。しかし、永代経は延期、記念法要も中止。一方、印刷所も出勤制限の影響を受けて遅れたが、Rさんのご尽力で無事に完成した。今回は、企画からレイアウトのすへてをRさんの提案だ。3、4度と来館され打ち合わせを重ねてくださった。ほんとうにありがとうございました。

華光誌本文の1ページ目、目次上に掲載される「聖教のこころ」をまとめたものである。「聖教のこころ」は華光誌創刊からではない。第35巻2号(昭和51年・1976年)に始まる。44年前からで、合計160篇ほどの記事。その内、半数の80篇をぼくが担当している。それをどうまとめるのか? いろいろ試行錯誤したが、第1集は、浄土三部経(大経、観経、阿弥陀経)を、掲載順ではなく、経典のページ順に並べて再編集した。

一話、見開き二頁に納まるようになった。浄土三部経といったが、冒頭だけは善導様の『観経四帖疏』から頂いた。

「これ経教はこれを譬ふるに鏡のごとし。しばしば読むしばし尋ぬれば、智慧を開発す」

お経は、呪文でも、学問や根拠の対象にするものではない。それは教えであり、教えとは鏡である。鏡に写るのは、ほんとうの私の姿だ。その教えを鏡として、私のほんとうの姿を聞くのが、聞法なのである。

小難しかったり、十分に言い表せなかったりするで、ぜひ味読いただきたい。

題字を書き、表紙写真は今回のインド仏跡旅行で撮影。

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以下から立ち読みできます↓

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Zoom会議、法座続く

自粛が続くなかで、会議もSkypeやzoomを利用することが増えてきた。皆さんのお宅の部屋が一部でも映し出されて、なんとなく親しみも涌く。

法座が開催できない。中止にするのか、延期にするのか。またはリモート開催するのか。リモートならばどうするのが一番いいのか。先のことは誰も見通せないので、すべてを決定するわけにも行かない。状況はコロコロと変わるので、とにかくギリギリまで待って判断するしかない。

この週末も高山法座はなくなったが、土曜日・日曜日とそれぞれzoo信仰座談会。他に、運営委員会を初zoom開催。支部長研修会をどうするか。今後の法座運営をどうするかなど課題は多い。
各支部との相談もある。6月の東海支部は、早々にリモート開催が決定。続いて東京支部の役員さんたちとzoom会議。東京は、予約していた会場が、6月以降、使用不可(コロナで業績悪化が原因か)で、安くて、便利で、集まり易い宿泊できる会場探しが課題となる。しかも、今は首都圏での宿泊法座は開けない。とにかく6月の東京支部法座はリモート開催となった。

日曜日のzoo信仰m座談会では、無料版でも延長サービスが終わって、40分の2コマで途切れては流れを戻するが難しいことがわかった。これは、すぐに有料版に切換えて解決した。
夜は、ブラジルの子供たちと、こちらはSkypeでコミニケーション。ブラジル、南米がパンデミックの中心になっていることを心配している。

法座はなくても、会議や相談が増え、リモート座談会やテスト通話なども続いてけっこう忙しくなっている。十分でなくても、いま、出来る可能性のあることはやっていきたいのである。

 

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土曜日のzoom信仰座談会(4)

 土曜日のzoom信仰座談会。4回目となると少しずつ、何かいい雰囲気になってきた。それぞれが心を開いてきて、率直に表明されている。このことをきっかけに、いろいろとこころが動いたことを表明してくださる方もある。ある意味、エンカウンター(出会い)のグループのようになってきている。

 しかし単なる心理的なエンカウンター(出会い)ではない。仏法のこと、自分のこと、いろいろと話してみても、最後は、法(具体的に南無阿弥陀仏)に帰っていけるかどうかである。何かをお伝えする、何かを喜ぶ、といっても、自分が頑張るのでも、自分が感じて終わるのでもない。最後は、すべて南無阿弥陀仏に帰っていけるのか。そうなると、「私がこう感じた」とか、「私がこう動いた、関わった」などということも、すべて南無阿弥陀仏のお働きということになる。こうなると、人間の言葉で何もいえなくなる。言えなっくなった時にも、ちゃんと用意されている言葉がある。それが南無阿弥陀仏である。もしどんなに有り難いご縁も、尊い言葉も、最後に南無阿弥陀仏に帰っていくことがないのなら、悪臭を放つ我執のなせるものである。抽象的で悪いが、結局、ぼくは、ここのところを聞かせてもらっている。どんな飾った美辞麗句も,法悦の言葉も、私(人間)のところでとどまったら単なる我執なのである。そんなことを感じさせてもらった。南無阿弥陀仏

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そして3つの御陵へ

 訪れた順序では、近衛天皇~鳥羽天皇陵~白河天皇陵だか、ここでは即位順に逆の紹介である。

 まず、第72代の白河天皇陵は、「成菩提院陵」(じょうぼだいいんのみささぎ) と言われている。新堀川通を挟んで西側にある。

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  白河天皇といえば、院政を始めた方で「白河法皇」という名で有名。平清盛は、この白河法皇の御落胤だったとか。
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」
 の言葉が有名。天皇であっても思い通りにならないものの中に、「山法師」、比叡山の僧兵をあげておられる。
 陵は小さな方丘が残っている。

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 次の第74代の鳥羽天皇陵は、「安楽寿院陵」(あんらくじゅいんのみささぎ)と言われる。

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 近衛天皇陵から安楽寿院の前を通ってすくにある。
 方形堂の陵墓で、整備されている。

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  崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の三代28年に渡り、この地に鳥羽離宮を造営し、鳥羽上皇として院政を敷いていた。

  その第九子が、第76代の近衛天皇陵で、「安楽寿院南陵」と言われる。
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 近衛陵は歴代天皇陵では唯一の多宝塔で、とても美しい。昔、近鉄電車からもよく見えて、何かお寺があると思っていたが、御陵だったと知ったのは、最近の話。
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 散策も含め100分ほどで小旅行。かなり暑かったことと、幹線道路を進む道中が面白くなかったので、帰路は少し脇道を歩いたが、見どころ満載で面白かった。

 必ずぼくの前を中年の男性が、そしてぼくのあとを初老の男性が、ほぼ同じコースで歩いて写真をとっていたのが、面白かった。どこにでもマニアック人はいるもの。絶対に、ふらっと立ち寄る場所ではないものなー。

 

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北向不動院から安楽寿院へ

 あいかわらずの自粛生活だ。1カ月以上、電車やバス、そして車にも乗っていない。1度歯医者に出かけたこと。リカマン(酒屋)とジャパン、そして郵便局(ATM)(いずれも徒歩2分圏内の町内)に1度ずつ。外出はそれだけで、自粛生活ではかなり優等生だ。最低限 散歩は毎日している。これも徒歩で動ける範囲で、半径1~2㎞以内、往復1時間程の距離だ。

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   今日は、天気もいいので少し足を延ばした。目標は、竹田駅(近鉄なら2駅)周辺の「北向山不動院」界隈だ。堀川通りを真っ直ぐ下っていくだけ。2、6㎞、40分弱。往復しても5㎞強。散策も含め90分ほどで歩けるコースだ。実際は暑かったこと、幹線道路を進む道中が面白くなかったが、ゴールは見どころ満載だ。
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 観光地とは無縁だが、鳥羽離宮があった地で天皇陵や古刹が密集している。天台や真言宗などの聖道門だが、いずれも阿弥陀仏を祀ったり浄土教の影響を受けているお寺である。平安末期の末法思想の影響を強く受けているのではないか。
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 まずは、北向不動院へ。新堀川通に面しているが、お寺は少しだけ奥まったことろにある。境内には、お不動様(重要文化財)や薬師如来や、お稲荷さんと習合である。今回驚いたのは、興教大師覚鑁(かくばん)の創建であることだ。興教大師は、弘法大師の真言宗であるが、法然聖人などの念仏や浄土思想の影響を受けて、真言教学に受容し、いかに捉えるかを理論化して、「密厳浄土」思想を唱えて「密教的浄土教」を大成されたお方。真言宗中興の祖であり、また新義真言宗始祖の御方である。

 お念仏の教えといえば浄土教で、それに対して聖道門の教えを捉えてしまうが、法然様や親鸞様当時は、比叡山の天台宗でも、南都の奈良仏教でも、そして真言宗でも(つまり、当時のほぼすべての仏教)が、念仏や浄土の教えが幅広く学ばれていたのである。それに対して、法然様が「専修念仏」(念仏ただ一つ)と宣言されたのだから、革命的な出来事である。

 余談でした。

 北向不動院の隣に「安楽寿院」がある。真言宗智山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来だ。鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とし、皇室ゆかりの寺院である。このお寺は、非公開寺院の特別拝観で紹介している。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-5488.html

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  この回りには小さいながら石碑や石仏が立っていて、これが面白い。

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 ≪鳥羽離宮の基礎石↑≫
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 ≪薬師三尊↑≫
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≪ 介護施設前に立つ五輪塔↑≫
無防備に立つが重要文化財

 

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この世のことは、なんとでもなる

 今月も、会計士のY先生と、スカイプでの会計(月次)の説明。

  法座が開けないのだから分かっていたことだか、4月の収入が振るわない。前年同月比で60%の落ち込みだ。それでもまだ4月は前半に法座があった。5月以降はさらに厳しくなることか予想される。もちろん厳しい状況は世間も同じ。幸い、会館は、家賃(以前は借地だったのであった)や借金の負担がない分、助かっている。それでも、この先が見通せない以上、運営や経済的な不安はつきまとう。

でもこのような状況であればあるほど、真実のお法りが光が輝いてくる。そして、先師の悟朗先生のお言葉が思い出される。

「この世のことは、なんとでもなる」

というのが常の仰せだった。
別に、単なる楽観論でも、心の持ちようをいったものでもない。「なんともならない」というのは、ただ私の都合が悪い方に進行するだけのことであって、たとえ、自分にとって最悪の方向に動いたとしても、今生事ならばなんとでもなるというのである。

ほんとうの大事、問題は別にある。「後生の一大事」である。後生の解決こそが、一大事なのであって、この世の経済も、生活も、今生事であり、因縁ならば何が起こるかわからないのだと。
そのことをお聞かせに預かり、その後生の解決に焦点をあてて、聴聞させてもらってきた。そして、有り難いことに、後生の夜明けをさせててもらったのである。

確かに、今の状況は厳しく、先行きは不安だ。法座が開けず同人とも語り合えない寂しさもある。しかしである。どこかで、それもまたこの世の中の出来事。業ならば受けていくしかないと、落ち着いて腹を括らせてもらえるのが、なんとも不思議である。

しかしながら、いまの華光会も「コロナの一大事」が看板になってしまった。改めて「だれのひとも、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたの」めとの勅命をお聞かせいただきたい。

親鸞様は、行巻に『楽邦文類』を引用されている。

「一たび人身を失ひつれば、万劫にも復せず」。

これは、いのちは貴重だら大切に守れというような寝惚けた意味ではない。前後を現代語訳(本願寺出版)で示しておく。

「人生は、夢幻ようであり、真実のものは何一つない。寿命ははかなくて、長くたもつことができない。わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。ひとたび人としての命を失えば、もはや一万劫を経てももとにはかえらない。今この時 目覚めなかったなら、仏にも、私たち衆生をどうすることもできない。どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。」

 今、聞かずにいつ聞くのか! 南無阿弥陀仏

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マスク

 3月の広島法座、Sさんから布マスクのブレゼントがあった。まったく手に入らない時だったので、たいへん助かった。

 その後、日高支部のTさん、続けてまたSさんからも「事務所の皆さんへ」と、多くのマスクを送ってきてくださった。ありがとう!!

 そのころから、高額ながらネット販売でもマスクが売られるようになっていたが、今では市中でも出回り、値段もかなり落ち着いてきている。マスクが手に入らないことから、手作り派のも増えてきて、工夫されたお洒落なマスクが目につくようになった。

 そして、先日も、高山支部のFさんがマスクを送ってくださった。こちちは、お手製。器用な方で、ひとつひとつデザインの違う布が使われて、素敵だった。

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 マスクの喜捨がおこなわれる世の中になるとは想像もしておりませんでしたね。
 皆さん、ほんとうにありがとうございます。

 肝心の「アベノマスク」は、まだ届いておりません。

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アオサギの子育て~散歩道(4)~

 春、鳥たちは誕生の季節、そして子育ての季節である。

 散歩コースの梅小路公園でも、東寺の堀りでも、コガモが誕生している。今年は、人通りも少なくて、より静かな環境で育てられることだろう。

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 東寺の南門では、アオサギ2羽。まるで仁王様のように、東寺の入り口のところに並んでいた。
 、嘴の色などが、微妙に違うことが分かった。
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 ふと松の木をみると、1羽のサギがてっぺんとまっている。

 よくみると、枝の中で、何かがゴソゴソと動いている。
 もう1匹いる。卵を温めているのか、子育て中なのかは分からないが、夫婦仲睦まじく巣を守っているではないか。オスは、エサをとりに堀りに降りてくるが、メスは、巣を守っていた。ちなみに。アオサギは、一夫一婦制で、抱卵やエサ集めといった子育てにオスも積極的に参加する、イクメンだそうだ。

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 国道一号線の喧騒の中でのたくましい姿に、感激。これから散歩が楽しみになった。

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境内からみるとこん感じ。メスが守っています。

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母の日

   靜寂の連休が終わった頃、お花の宅配便が届く。母の日は、5月の第2日曜日。宅配集中を心配してかなり早く申し込んで、平日を指定日にしておいたのだ。

  ところが母宛ではなかった。宛名は、連れ合いの名前だ。

 彼女へのプレゼント? 誰から贈られたのか? 

 賢明な皆さんは、なんとなく結末はお分かりだろう。

 彼女は、数年前、5月と6月とを1ケ月も間違って贈る失敗をしたことがあった。それで、今年は早めに準備をしていた。

 今回は日にちは間違えなかったが、もっと大切なことを間違ったのである。

 贈る相手である。北海道の母のもとには届かず、自分に贈ったのだ。

 ちなみに、送り主は連れ合いの旧姓、旧住所。古い自分から、新しい自分への花のプレゼントだと思えば素敵だけれど、。
 
 北海道へ転送する間には萎れるので写真を転送。再度の失敗に、彼女の背中もしょんぽり萎れていた。

 そして自粛で誰も来ない玄関を飾っている。せめて写真で愛でてやってください。

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ちなみに母へは翌日、無事届きました。紫陽花です。
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姉からもおしゃれなお花
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日曜日のZoom座談会で味わってこと

 土曜日から一週遅れて始まったので、今回が2回目。メンバーがひとり抜けて、ひとり加わって、7名が参加。

 こちらは若手の僧侶やベテランの方もおられて、雰囲気が違う。一方で、いま、熱心な新会員もおられて、新鮮。

 常に涙になって聞いておられる方がある。その姿は尊い。しかし、S先生の明言に、「涙は真実を曇らす」とある。聞き手も感情に酔うが、説き手も知らぬ間に焦ってしまい、プロセスを踏まずに勧めようとしてしまう。こんな時は、説き手に覚めた目が必要だ。
 
 聴聞は聞くことにきわまるというが、ただ黙っていることが聴聞ではない。単に鵜呑みにするのでも、知識を聞くのでもない。ましてや自分の心を仏法に合せるのでもない。そのためには、正解を答えるのではなく、まず自分を聞いてもらうことがなければ、心は動いていかない。心が固まったままならば、聞けるわけがないのである。しかし、どうしても、人は正解の方に心をあわそうとしていく。しかし現実の心は違うので、現実と理想のギャップに葛藤を抱えて、常に「これから頑張って聞いてていきます」というようスローガン的聞法で、心を慰めていくのである。心情としてはよく分かるが、それは逆なのだ。正解に合せるのではなく、分からないことは分からない、有り難くないとこは有り難くないと、遠回りのように思えても、まずは自分のところを開いて伝えていくのが肝要なのである。それをよく受け入れ聞いてもらえたならば、私の心も自由さが広がって、どんな感情や思いにも恐れることなく話せるようになってくる。そうなれば、しめたものだ。先手をかけて聞き届けてくださった阿弥陀様は、私のどこを聞いてくださっているのか。決して、聞くことのできない私にも、南無阿弥陀仏の響きが轟き、聞き受けることができる世界があるのだ。

 しかし今日、仏教や浄土真宗が細ってきたのは、このよう機微を語り合う信仰座談会が衰退したことが一因にある。一方的な法話はある。多少の質疑もあるし、勉強会も盛んだ。話し合い法座の大切は建前としては語られているが、ほんとうに聞き会い、育ち会うような関係の法座は、ほぼないに等しい。信仰座談会のほんとうの豊かさ、面白さ、そして重要さを分かっている僧侶や指導者も少ないのが現状である。実地のお育ての経験がない、もしくはそんな知識に出会ったことがない以上、無理もない話であるが、危機感も抱いている。

 コロナ禍で、実際に人と人とが対面して座談会をもつことはできないが、リモート信仰座談会でも、ここまでできるのだというと実証をしてみたいと思っているのである。南無阿弥陀仏

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土曜日のZoom座談会(3)

  土曜日のメンバーは先週と変わらない。ただスカイプからZoom(ズーム)へ移行した。Zoomでのホストが初めてなので、昨晩、一度予行練習をさせてもらったので、開始からスムーズに進む。多少の個人差はあろうが、ぼくは回線が安定していて、皆さんの表情も分かるようになってきた。

 さて、Zoom(ズーム)座談会の流れである。ます「らいさんもん」を共にあげ、長めのチェック・イン(今の気持ちや思い自由に語る)。そして、今回なら「南無阿弥陀仏のこころ」のDVDの分かち合い。それから、隨時、自由に信仰座談会へ。最後は、チェックアウト(振り返りで、今の気持ちや思い自由に語る)を行い、「らいさんもん」を称えて終了するというパターンが、定番になってきた。

 車座のリアルな座談会と違うのは、発言のタイミングをなかなか難しいので、少し積極的に指名していく場面もあることか。多少のもどかしさはあるが、座談会の他のコツは同じである。やはり人の発言は最後までよく聞くこと。そして発言する時は、率直に、自分を開いていくこと。そんな雰囲気を造り出すという点では、リモート座談会でも何も変わらない。土曜日は同じメンバー。しかも3度目の信仰座談会ということで、徐々にグループ形成されつつるのが分かる。今日も、自分の求道遍歴や今の心境を開いて発言する方が増えてきたように思えた。真面目に、もう一度、DVDを拝聴している方ばがり。サラーッと、流してみるのはもったいないという声がでるが、まったくそのとおりである。初ごととして、聞かせてもらえばいいのである。

 それにしても、軽く代行的な意味で始めたリモート座談会だったが、通常の座談会のように深まっていく。いや、もしかしすると、メンバーを固定して焦点を絞って行うことで、週一で開催するエンカンターグループのような効果があるかもしれない。今後の展開が楽しみである。

 ぜひ、他に参加希望の方があれば名乗り挙げてほしい。6名程度で、第3のグループを立ち上げていきたい。

 

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DVD『南無阿弥陀仏のこころ』

「k-企画」(若き日のk先生の撮影・編集)が制作した、DVD「南無阿弥陀仏のこころ」を、3度続けて拝聴する。

 先週から始まったリモート座談会で、この法話をみんなで分かち合うためだ。

 もちろん何度も観てきたものだが、こんなことがなければ、改めて観ることはなかった。皆さんも、すでにお持ちだろうと思ったら、12名の参加者のうち8本が新規で購入、売り上げにも少し貢献したか、、、。

 休憩なく100分の法話だが、やはり後半20分は説法獅子吼は有り難い。同時に、お叱りをうけているようで、反発の心も起こってくるのが感じられた。結局、最後はこの印象が強くなる。逆に前半が心に入ってこない。なんとなく流していくのである。それでもう一度、2度目は少しメモも取りながら聞いた。20年と半年前である。聴衆が若いので、おもわずここは巻き戻した。いまはご講師の先生もまだ大学生。2度も話しかけられるSさんは、まだ高校生。いまは、母となり、さらにお腹の中にもいのちが宿っている中で、今回のリモート座談会に参加中。親のご恩徳のところは、きっと感慨深く聴こえたことだろう。残念ながら、ぼくは反対側にいたので映っていない。

 一度で、終えるのはあまりにもったいないので、今週も、「南無阿弥陀仏のこころ」を拝聴して分かち合うことにした。それで、もう一度拝聴する。3度目、え~、こんな話があったのかという驚きが起こる。いかにいい加減に聞いているかだ。もし話し合うことでもなければ、まともに見てはいないだろう。「南無阿弥陀仏のこころ」というより、タイトルは「南無阿弥陀仏のすがた」か「南無阿弥陀仏のおいわれ」でもよかったなーと。

 聞き放しではなく、一緒に味わい、語り合うことが決まっていると、こんなにも聴き方が違うのかと、自分のいい加減さを実感。皆様のもう一度、聞き直してください。詳しくは以下を華光会HPをクリックしていただくと、冒頭がいただけます。南無阿弥陀仏

  南無阿弥陀仏 声は一つに、(意)味二つ
    親の呼ぶ声 子の慕う声

http://keko-kai.la.coocan.jp/book/dvdnamu.kokoro.htm

 

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法友の往生

 お試しリーモト会議のあと、遅い夕食の途中で、訃報が届く。献身的に華光を支え、大活躍してくださったIさんが、2月に亡くなったというのだ。予想外の話に驚いたが、同時にあまりのことに、まったく実感も湧かないでいた。姉に電話したが、Iさんと親しかった人達も知らなかったようだ。ぼくより9歳の年長だから、まだ60代後半。昨年の11月に倒れられ、意識が戻らないままにお亡くなりになったという。

  思い出は尽きない。中学生の頃から可愛がってもらい、その後も30年以上に渡って、節目節目には必ず彼の存在があり、もっとも信頼を寄せ、共に歩んできた方である。もし彼がいなければ、華光の宿泊行事の運営はできないのではないかは自他ともに認めるほどで、多くの同人からも先生のように信頼をされていた。いまも、華光の中心で動いておられる方や先生方も、ずいぶんお世話になってきたのである。

 しかし、これまたご因縁事で、最初に華光を離れられた時には、僕自身にも大きな試練となった。ご自宅まで会いにいったりもした。その後、活動の場を絞って復活されたが、以前のような密接な関係に戻ることはなかった。そのまま徐々に疎遠となり、もう10年近くになった。時より聞こえてくる噂話は、あまりいいものはなかった。

 それでも、彼から受けたご恩徳は量り知れないし、思い出も量り知れないほどある。同時に10年という歳月の重さも感じずにはおれなかった。たぶん、急激なではなく徐々にくるのだろうと、、。

 2月22日は、奇しくも京都のMさんのご往生の日。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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「SKYPE」から「ZOOM」

  真宗カウンセリング研究会でもリモート月例会の話がでる。会員は、京都や大阪だけではなく、福岡や広島などの遠方の方もおられる。一方で、ネット環境が整わない方もある。「ああだ、こうだ」といっているうちに、お試しでやってみることが決まった。

 最初はスカイプで開始する。初めての方もあって、チャットで教案レジュメが受けられないとか、「ああだ、こうだ」と戸惑いもおこった。それでも、会員同志でも「初めまして」とい方もおられたが、あまり親しくなかった人とつながっていくのが、不思議である。しかし、スカイプだとまったく映像がつながらない方もある。ネット環境や電波状態、人数が増えると、不安定になるようだ。
 
 ということで、このままZOOM(ズーム)に移行しようといことになったが、またここでも「ああだ、こうだ」となった。ぼくは初めてだったが、経験済みの方が多かった。一時は、スカイプを通じてズームの樣子がうつると言う不思議な状態になったり、つながったり、切れたり、「どうするの?」といいながらも、全員がZOOMへも参加することできた。

 結局、「ああだ、こうだ」と一緒に右往左往したのが、けっこう楽しかったりもした。そして、皆さんと親しくなっていくコミニケーションでは、うまくいことばかりがいいとは限られないのであろう。気がつくと、真カ研MLも開始以来の盛り上がり。そして、次回の月例会は、数名がリアルで集い、残りはリモート参加するという形式でおこなうことになった。実験的に試行錯誤しながらいい形式をみつけていきたい。

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鴨川を歩く~散歩道(3)~

 これまでの日常生活が一変している。

 布教も、法座もなくなった。個人的には、映画館は閉まり、月5回受講していた佛教大学の四条センターも9月まで休講、龍谷大学も閉鎖されたままでカウンセリング研究会も開催できない。家族二人と事務所のお二人以外は、1週間の間にお会いする人は、0~2人。経済的にはこれからが不安ではある。

 が、長い自粛生活そのものにはけっこう慣れ、案外楽しんでいる。

 映画は映画館でしか観れないので、映画館が閉まってから DVDでもネット配信でも、まだ1本も観ていない。その分、CDを聞き、本を読むようになった。両方とも10年以上は楽しめる量はある。そしてもう一つは、毎日、近所の散歩の距離が伸びた。1日に1時間の距離を歩くようにしているが、これは1日も欠かしたことことはない。東西南北に進むコースはいろいろと工夫し、また小さく一筋変えるだけでも街の風景が変わって、新鮮だ。

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 その中に、鴨川沿いを歩くコースが加わった。

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 華光同人のF家前を通り、鴨川まで進み、河川敷を歩く。散歩やランニング、サイクリグをする人もけっこうおられた。

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 こんなことがなければ、絶対に歩かなかったコース。

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世界共通

   母も交えて、ブラジルの子供たちとのスカイプ。話題はコロナ一色である。

 これまでは、どんな大災害でも、また世界的祭典でもそうだが、被害にあった国や開催されている地域と、それ以外の国では、ずいぶん温度差があった。要は所詮、他人事なのである。

 ところが今回だけは別だ。カリフォルニアのお同行さんからのメールも、ブラジルのサンパウロ郊外に暮らす子供たちとも、話題は新型コロナばかり。国情の違いで、自粛の程度や回りの雰囲気は多少違うが、最後には「これからどうなるのかなー」という見通せない不安で終わるのも、世界共通である。

 青空の広がるカリフォルニアでも、まだ夏のサンパウロでも、そして初夏の京都でも、その対策は同じ。外出「禁止」か、「自粛」かは別としても、家に籠もり、人との接触機会を減らし、少しでも感染リスクをも下げて、医療崩壊を防ぎながら、「時間稼ぎ」をする。その間に、有効なワクチンや薬の開発(もしくは集団免疫という国もあるが)を急がせているしかないのである。

 結局、今の自粛は根本解決ではない。ただ我慢してやり過ごして「待つ」という対策(ブラジル大統領は強引でサンパウロ州の知事と対立しているそうだが)を、世界共通で取っている。今後は通常の日常生活と、どう折り合いをつけるのかが問題になっている。

 緊急事態宣言は、5月末まで延長されて、自粛生活が続くことになった。
  5月の寺院布教、法事、支部法座、出張法座はすべて中止となり、6月以降も見通しがつかないが、今で出来ることを、喜んでやらせていただくだけである。

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月を指す指

 お釈迦様は真理(理法)を悟られ目覚めをされてブッダになられたときに、伝道をためらわれる話は有名だ。体得された深い真理を、欲得に狂う人々に伝えることが、いかに至難の業であるかを分かっておられたからだ。しかし、梵天勧請によって説法による伝道を決意されるのである。そのとき、釈尊が悟られた真理も、またその真理を釈尊が伝えられた言葉も、共に「法・ダルマ」である。前者を「理法」、後者を「教法」というのである。「教法」は真理であるが、言葉は真理そのものではなく、あくまでも真理の月を指し示す「指」なのである。

 リモートでの信仰座談会。表情は見えても生身ではないので、雰囲気や間合いよりも、ますます言葉を頼りに聞く確率が高くなってくる。

 DVD『南無阿弥陀仏のこころ』の中に、
「『はい』でもない、『分かりました』でもない、『称えます』でもない。火に触れたら「熱い!!」と間髪いれずに絶叫するように、一度も死んだことのない業魂に飛び込んできてくださった阿弥陀様の呼び声、「南無阿弥陀仏」しかないのだ」という勧めがあった。

 すると、「はっきりしない、体験のない信心はダメということですよね」という質問が出る。そんなことは仰っていないが、自分で置き換えて理解しようとしている。しかし、お勧めの言葉は、真理の月を導き示す指でも、けっして真理そのものではない。しかし、凡夫の私は、何か手がかりがないと前に勧めないと思いこんでいる。だから、その言葉に固執して、それが自分の胸に腑におちることが信心だとさえ曲解していくのである。

 結局は、聖教の文句やお勧め言葉を頼りにしたり、それを喜べる感情をたよりしたりしている。知的であろうが、情的であろうが、我が身の理解や感情を第一にして、阿弥陀様のおこころを二番手に押しやっているのであるから、ころころ変わる自分のところを一喜一憂しているのにすぎない。

 泣いたのも、分かったのも、有り難いのも、私のこちら側は、すべて虚仮で、まったく用事がないのが、不思議の世界 南無阿弥陀仏。

 

 

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スカイプ座談会始まる

     京都は30度を超えて早くも真夏日になる。本来なら永代経法要の初日だ。母が、「暑い永代経になってたなー」といったが、いろいろな意味で篤い法座になる予定だった。しかし、これも予め仏説に説かれている無常の理で、驚くことではない。何が起こるのかほんとうは分からない世に生きているのに、一分も予定通りになると信じて疑っていなかったのだ。まさに轉倒した迷いの姿がここある。

 緊急事態宣言が全国に適用されてからは、ぼくも法座も、布教も、完全に休業状態。それでも、何かご法に関わることで、いまこそ、同人の皆さんと繋がることはできないかと考えていた。
 華光の法座の特色は、一方的な法話や講話ではなく、それを分かち合い、伝え合う信仰座談会にある。ただ単に一方的に発信すれば済むのではなく、ひとりひとりと関わりを大切にしている。特に、その方の受け止めや味わいを忌憚なく伝えあう雰囲気を造る努力をしてきた。それが、大きな集いではなくても、全国からの参詣者が集まる宿泊行事はしばらく開催は難しいだろう。せめて、スカイプを使った信仰座談会を始めたと呼びかけをした。

     最初の反応に比べて広がりは乏しかったが、6名のグループが二つできた。それを土曜日、日曜日に分けて開催。同支部が偏らないように、これまで出会うことのなかった方にも混ざってもらった。新しいご縁の方の方が積極的でそれもよかった。

 単なる雑談ではなく信仰座談会なので、最初と最後に「礼讃文」をいただき、予め拝聴したDVDの分かち合いなどをおこなう、ご法座である。

 確かに難しい。限界も感じる。
 目の前に生身の人が車座にに坐り集うのなら、例えば沈黙も味わえ待つこともできる。言葉だけでなく、息づかいや雰囲気を感じて動くこともできる。かっこよくいうと、その場の雰囲気や間を、からだで見計らうことが出来るのなが、やはりリーモトとなるとそこは限界がある。さらにそれぞれのネット環境も違うので、うまくつながる人ばかりではない。途切れる人、うまく聞き取れない人も、操作に不慣れで途中で消える人(慣れてくれば解消されていく問題もあるだろうが)もある。一言でいうと、手を伸ばしても届かないもどかしいさがある。

 しかし、いまは完璧を求める時ではない。どんな形でもいいので、遠近各地の人達が画面上でもつながり、法悦を語り合えたことが不思議を味わった。一部では、突っ込んだ話題にもなった。細やかな息づかいまでは聞き取れなくても、涙声が聞こえてきたり、お念仏のつぶやきも聞こえてきた。

 これは求める人の姿勢が大きい。さまざまなツールを使ってご縁を結べるのだがら、とても有り難い世の中にと生れさせてもらっているのである。
お念仏はひとりでも、またいつでも、どこでも称えることのできる。それをネットを使い、たとえガタガタの画面でも、顔をみながら共に称えること出来った。南無阿弥陀仏。
 来週も、引き続きご縁を深めていくことになった。

 

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問題です

 京都新聞に、あるキリスト教系の私立学校が、紙面の見開きを使ったカラー広告を出している。
  これまでの入試問題なのかどうかは知らないが、ぼくもあれこれ考えて楽しんだ。
 要は、知識を問うのではなく、発想力や想像力、考える力を問う問題なので、「正解」があるのではない。模範回答もないのかもしれないが(広い意味では求められる方向はあるのだろうが)、答えの一部が紹介されていて、なるほどという回答がよせられている。それはそれとして、皆さんも童心に帰り考えてください。

 問1、信号の3色に1色追加するとすば、何色にしますか? それはなぜですか?

 問2 手元に1000円あります。
 たくさんの人を笑顔にする方法を考えてください。

 さてさて、1000円ではなく、10万円が支給されることになった。

 みんなが笑顔(幸せ)になるのか? それとも餓鬼や修羅になるのかな? 

 皆さんも自由な発想で、それぞれの回答を、ぜひ同人会MLにお寄せください。

 

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