インド仏跡(27)~ルンビニー園のアショーカ王柱~
●アショーカ王柱●
この地がルンビニー園であることが確認されたのは、この、アショーカ王の石柱を発見のおかげである。石柱の現在の高さは約7mあるそうだが、アショーカ王柱の頭部は欠損し、落雷の跡と言われる亀裂が入っている。しかし、石柱の文字はよく分かり、翻訳もされている。
「天愛喜見王(アショーカ王)は、(即位)灌頂の第二十年(を経て)、自らここに来り、親しく参拝した。ここでブッダ・シャカムニが生誕せられたからである。それで石で馬像を造り、石柱を造立せしめた。ここで世尊が生誕せられたのを(記念するためである)。ルンビニー村は租税を免除せられ、また、(生産の)八分の1のみを支払うものとする」(中村 元訳)
とブラーフミー文字で刻まれている。この文字で現存するのは、アショーカ王法勅文だけで、「アショーカ文字」とも呼ばれている。これが後に梵字になり、13世紀以降、デーバナーガリー文字として普及したとか。改めて、アショーカ王のすごさを教えられた。
他の仏跡巡拝の団体はなく、ゆったりしているんで、お正信偈をお勤めさてもらう。
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言」(正信偈)
お釈迦さまのご出世は、五濁悪時の我々凡夫のために弥陀の本願を説くことにあると、親鸞様。その地が、まさここなんです。
●マーヤー夫人の沐浴の池●
5世紀に、この地を訪れた法顕は、マーヤー夫人の沐浴の池の水を衆僧が取って飲んでいたと記している。しかし、「白象、獅子が横行し、行路は怖ろし」とも記載しているが、その200年後(7世紀)には、玄奘三蔵も巡礼している。そして、アショーカ王柱の石頭が落雷のため、折れて下に落ちていると記している。8世紀に訪れた慧超は、「このあたり森は深く、道には賊あり、巡礼者は方角を知ることが難しく迷い易い」と。四大仏跡の中で、最も早く荒廃したと思われている。
ただし、このあたりは他の遺跡がないようで、仏跡地としては他の関連施設(周辺の各国自院はあるが)はないので、妙なボート遊覧やや金ぴかの誕生仏は、せっかくの静寂の聖跡が世俗化に進みそうで、感心しなかった。
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