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4月の仏書に親しむ会~『仏敵』~

  支部法座の中止が続く。そんな中でも細々と小人数(10名程度)の法座を、十分配慮しながら続けている。もちろん、どんなに配慮してもリスクはあるし、選択が間違っているのかもしれない。ある意味では、かなり厳しい状況が続いている。

 今日は雨。夜の2時間だけの法座にお参りはないかもしれない。ところが、10名の方がお参りくださる。皆さんの顔をみるだけでも、少し胸が熱くなった。地元の常連の方だが、「夜の会合がすべて中止になったので」という、初参加者もあってびっくりした。

 『仏敵』を読む。第6章の信疑の白兵戦(3)~第7章の不可思議光の諦聴まで。

 だんだんとクライマックに近づいきて白熱してくる。第6章は、主に、植島藤太郎さんとのやりとり。たまに坊さんが、ちくりちくりと関わってくる。若き日の伊藤青年も、聴聞の焦点があたっているようで、かなりとんちんかんなところもあり、急に反発したり、否定したりという心理描写は、小難しい部分もある。

 それでも、目の前におられる田舎の在野の生きた念仏者の信仰体験を尊く拝聴される姿がある。いくら反発したり、理屈を並べてみても、学問では得られない回向信の世界があることを、肌で感じていかれるのである。このあたりの雰囲気がぼくは好きだ。結局、根拠や理屈を並べても、最後はそれを超えた力のようなものを感じるかどうかという部分が大きいと思う。それが出会うということの意味ではないか。

 およしさんと藤太郎さんのやりとりも尊い。今生のご因縁はご因縁として、今、出ていく後生となったらどうかと迫られて、ぐうの音もでなくなるのだ。そして、その後のお味わいも尊い。

「……ほんとうに我々凡夫はあさましい日暮らしをして、なんにも知らぬが、実にそら恐ろしい魔境に住んでおります! 入る息は出る息を待たぬほとの大無常ぞ! と示されるように、親の御眼から見ると、それはそれは哀れなざまでございまするぞ…」

 まさに、コロナ、コロナと戦々恐々としている我々の哀れな姿そのものである。南無阿弥陀仏

 次回は、5月13日(水)夜18時50分~21時を予定しています。

 いよいよ水流光明の不可思議光の体験が一転、見事なまでに潰されて、何もかも分からなくなるところですね。ここがまた有り難い。

 

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