K先生の訃報に接して
今月の初め、北九州のK先生の訃報を、人伝えにお聞きした。
次回の誌上法話にするために、晩年の先生の法話CDを拝聴している。会館での最後のご法話は6年前だ。ご病気で倒れられた後で、かなり弱っておられるのが声からも分かる。呂律も回らず、話も同じことの繰り返し。以前のような迫力もはない。明かにその2年前の元気なお声とは違っていた。続けて聞くと、これがハッキリする。これを文字化し、重複部分をカットして要旨をまとめると、半分程度にまとまるだろう。しかし文字にしてだけでは分からない感じを、どこまで伝わることができるのか。文字にして分かり易くなる部分はあるが、ライブならではのお声から察せられる雰囲気が損なわれるだろう。
「ここは後生の一大事を解決を求める場所。信心をハッキリとさせてもらうところだ」と、病身を顧みず、命懸けのご説法であった。
それは、K先生の生き方でもある。ご住職ありながら、自らの信心に妥協されることなく、また回りの空気に流されることなく、真実信心を求められ続けられた。どんなに苦しくても、決して諦めることなく、最後の最後まで貫き通れた御方である。その歩み続けられたお姿は、最後の求道者だったかもしれない。
それは、善知識でもあったご母堂、T枝さんの姿そのものでもあった。
よく精神を継ぐとか、志を受け継ぐとかいわれるが、K先生の場合は、その生きざま、その態度に、その信の相続が具現されていたと思う。
では、これからの世。体制に流れることなく、回りに媚びへつらい誤魔化さずに、信じるところを貫き通された、先生の生きざまを引き継ぐ人が現われるのだろうか。南無阿弥陀仏
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