インド仏跡(28)舎衛城(マヘ―ト)
今日も、また5時起床。インド入国後、初日の4時30分に始まって、ずっと5時台の起床が続く。昨日の反対で、今度はネパールからインドに国境を超えねばならないのだ。そして、ルンビニーから、シュラーヴァースティ(舎衛城)へ向う。最後の仏跡地となる「祇園精舎跡」にお参りをする。
予想以上に寒い朝だった。やはり、ネパール側でも、インド側でも待たされたが、ぞさでもスムーズな出入国ではなかったか。
途中、待望の青空トイレ。今回は初めてで、なるべくタイやスリランカなどの寺院のトイレや、茶店を使っていた。これはこれで思い出にある。(青空トイレの時に)
ホテルで遅い昼食。当初は、ここに泊まる予定だったが、今日のうちに、ラクノウという街まで足を延ばし宿泊することになった。もう好かり慣れて、売店で積極的に買い物されていた。
シュラーヴァースティ(舎衛城)のメーンは祇園精舎だが、紹介はまず舎衛城から。
●シュラーヴァースティ(舎衛城跡)●八大聖地
ここは、王舍城から最も遠いシュラーヴァースティ(舎衛国)の首都で、南の伝道拠点「王舎城」と並ぶ、北の伝道の拠点である。
『仏説阿弥陀経』は、「如是我聞 一時佛 在舍衞国 祇樹給孤独園 与大比丘衆 千二百五十人倶」で始まります。漢訳経典の訳者によって、「舍衞国」「舍衞城」「舍衞国城」とある。「舍衞国」のなかに、「舍衞城」や「祇園精舎」があると考えればよいのだが、経典の場合、同じ意味で「城」と「国」を同一で使っておられる。
さて、舎衛城は、釈尊の時代、大繁栄をみたコーサラ国の首都であった。コーサラ国とは、二大叙事詩で有名な「ラーマーヤナ」の主人公ラーマこそが、コーサラ国の王子である。ラーマーヤナ物語の時の首都はアヨーディヤー市であったが、遷都されてシュラーヴァースティ(舎衛城)が首都として栄える。釈尊在世には、マガダ国と並ぶ二大強国で、釈尊の出身地の「シャカ族」を殲滅させる。この因縁もすごいが、今は略する。しかし、その後、マガダ国の阿闍世王によって滅ぼされていくことになる。この歴史の綾もすごい。
釈尊在世当時は、ハシノク王の居城として栄え、周囲は約6.4㎞にわたって城壁が巡らされていたという。城跡は1.2mから、6~7mの小高い丘だったが、現在はウッタルプラデーシュ州、ゴンダ地方とバーライッヒ地方の境界にあって、単なる遺跡でしかない。
その舎衛城跡は、祇園精舎跡から北へ約1㎞、ラプティ河(アチラバッティ河)の左岸にあります。舎衛城跡は「マヘート」と呼ばれている。
5世紀に、法顕三蔵が訪れた時には、「人家が200戸くらいあった」と記されているが、現在はほとんどが水田や畑の田舎である。
1863年にイギリスのカニンガムによって発掘され、スダッタ長者の旧宅跡と推定した「カッチークティ」。
盗賊アングリマーラーの旧跡と言われる「パッキークティ」の大きなレンガづくりの遺構が残っている程度。(いずれも異説あり)
盗賊アングリマーラーの逸話も面白い。真宗では、歎異抄第13章の「千人殺せ」の話題に通じるお方だが、今は長くなるので省略。祇園精舎のおいわれとなるスダッタ長者のことは、次に触れる。
今は遺跡が残るだけの鄙びた地も、釈尊当時はたいへん栄え、釈尊も好んでこの地に滞在しておられることに心を馳せながら、遺跡を眺めた。とくに、舎衛城(シュラーヴァスティー)の奇跡といって、仏陀釈尊が異教徒を折伏せんがために、神通力を示した「千仏化現(センブツケゲン)」や「双神変(ソウジンペン)」を現したことは有名で、後世に、浮彫図などの題材とした秀作が多数造られていくのである。
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