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2020年4月の31件の記事

百花春至って、誰が為にか開く(2)~梅小路公園~

 往復で40分ほどかかり、公園内を20分ほど散策すると、1時間の散歩コースにちょうどいい。

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  平日だが、午前中はけっこう人が多いので、ここは夕方の散歩コースにしている。

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 まもなく5月になるが、まだ桜の仲間が花開いていた。

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 もろちん、5月のイメージするツツジや、6月のイメージする紫陽花など、花々も季節を交差するように咲いてくれている。

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 「百花春至って、誰が為にか開く」(碧巌録)
 当ブログ。4月は30日分の記事を書いた。久しぶりの皆勤賞だが、新型コロナで法座が中止になった影響で、うれしくはない。Sさんからも「ブログが更新できないほど、お忙しくなればいいですね」と。まったくその通り。

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プレ・スカイプ座談会

 永代経法要が中止になったので、同人会MLに呼びかけて「スカイプ座談会」を始めることにした。呼びかけてすぐに、希望者が4名もあらわれ、反響に驚いた。別に、リモート会議に詳しい人ばかりではなく、スカイブを初めての方もある。顔合せも含めて試験で、個々の方と通話をおこなった。日頃、顔を合せている人でも、とても新鮮に感じた。

 これまでスカイプ会議や一対一のスカイプ相談をしてきたが、あくまで補助的。信仰座談会は初めてだ。進行のために、試験的な「スカイプ座談会」、プレ・スカイプ座談会を開くことにした。

 東京、愛知、大阪、そして熊本の4名の方。これまでご縁の浅かった方同士が出会えるきっかけになる。お互いがほとんどが初対面。顔合わせなので近況報告でも、自己紹介でもいいと思った。参加者から、「あまり仏法の話題がでませんね」というところから、少しお味わいにも触れたが、これはグループを深めてから、ゆっくりすすんでもいい。

 ただ膝詰めでの法座ではないので、進行に関してはまだ試験段階で難しかった。沈黙の扱いが難しいのだ。また日頃よりも、少し積極的に発言しないとつながらないようにも思った。慣れてくれば、もう少し相互に関われるかな。定期的に同じメンバーで行って深めていければいいのだろう。

 緊急事態宣言が続く限り、大きな法座はまず開けない。
 これを逆手にとって、遠方の方や、日頃法座のお参りできない方も含めて、新鮮な顔ぶれで少人数のグループで深めていければいいと思う。
 曜日別に、「土曜日グループ」とか「日曜日グループ」、または目的別に「聖典に親しむグループ」、「華光誌輪読グルーブ」、さらには「懇親会グループ」(リモート呑み会ですね)なども造れるかもしれない。時間さえ許せば、海外の方も参加できるだろう。

 ぼくは、司会役、ファシリテーターに徹していきたいと思う。最初は使い慣れているスカイプで行ったが、zoomを使ってもいい。使用するツールよりも、内容をどう深めるかが課題か。取り合えずは、手さぐりでも行っていきたい。

 次回が第1回。予めDVD「南無阿弥陀仏のこころ」を拝聴してもらいリモート座談会を行う。どうなるか楽しみである。

 

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東寺にて(2)~水鳥篇~

  東寺にて(2)

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 拝観停止は有料区間のみ。境内は散策自由で、散歩には困らない。
 歩いていたら、子供がお世話になった東寺保育園の園長先生に出会った。0歳児を抱っこししながら、迎えのお母さんの話を聞いておられた。ご苦労さまです。

 お掘りの回りには、鷺や小鴨などの水鳥が獲物を狙っていた。

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インド仏跡(33)~ジャイナ教の出家者(2)~

 ところで、成道前の釈尊の苦行を伝える経典には、「身には衣服を着けず、常に裸体」で、「魚・肉・酒をとらず、一日一食より始めて半月に一食をとるに至った」。そして「常にひげや頭髪を抜きとる」などの苦行に徹して、「不注意から、小さな生物を殺さぬよう、道を進むにも退くにも気をつけ、一滴の水にも細心の注意を払った」とある。まるで、ジャイナ教の出家者の姿である。

 この肉体を徹底的に痛めつける苦行こそが、輪廻転生から解脱し、悟りを得るためのインド伝統的な修道法でもあったのだ。

 しかし、釈尊は六年の苦行の末、肉体を限界まで苦しめる行の無意味さを悟り、勇気をもって苦行を捨てられた。若き日の快楽主義でもなく、苦行主義でもない「中道」の教えを説かれた。それは北インドを中心に、釈尊の滅後も発展をしていく。アーショカ王に代表される、強大な権力の庇護もあって、仏教は、インドを超えて、上座部仏教としてスリラカンや東南アジアに。一方、チベットや中国、朝鮮、日本へは、かなり形を変えた大乗仏教が伝播して、世界宗教へと発展していくのである。

 ところが、本家インドでは、仏教内部での分裂やヒンドウー教の巻き返し、社会変化に伴って衰退し、13世紀のイスラム教の迫害によって、密教化、呪術化していた仏教は、ヒンドゥー教に呑み込まれる形で、完全に消滅してしまった。

 同じように迫害を受けたジナの教えだが、2500年を経た21世紀のインドで生き続け、約450万信徒を抱え、今も生きた活動がなされている。
 しかし、仏教のようにインド世界を超えてまで広がることはなかった。厳格な禁欲と苦行が、他者との妥協や融合を拒んだからだろう。それゆえに教えの純粋さは守られインドはで生き残ったが、一方では他民族への広がりを拒んだのである。

 同じところで、同じようにスタートした釈尊の仏教と、ジナ・マハーヴィーラのジャイナ教だが、その広がりや歩みを比較するとたいへん興味深い。

 では、私達の浄土真宗の歩み、そしてこれからの華光の行く末はどうなるのか。歴史に学び照合すると、興味深いことが浮かびあがるようだ。与えられた正解などはない、今、何を聞き、何を喜び、何を伝えていくのかが問われ続け、常に両者(純粋性と寛容性)の葛藤の中で、我が身を問いながら、歩みつづけるしかないのだろう。

 南無阿弥陀仏

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インド仏跡(32)~ジャイナ教の出家者(1)~

    素っ裸で、払子(虫を払う箒)を持ち、堂々と歩むジャイナ教裸行派の出家者の姿を見たときは、衝撃的だった。2500年前の教えが、一気に現実となったのだ。しかも3度までも出家者の姿に出会うことになる。

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 教祖のジナ・マハーヴィーラは、『信巻』にも登場する六師外道の一人「尼乾陀若提子」である。親鸞聖人のご和讃にも、「外道・梵士(バラモン教徒)・尼乾子(ジャイナ教徒)に こころはかはらぬものとして」(『悲歎述懐』618頁)とか、「九十五種世をけがす 唯一仏道きよくます」(『正像末』602頁)の九十五種の外道の一つに数えられている。

 そのジナ・マハーヴィーラは、バイシャーリー郊外のクシャトリヤ(王族)の家に生まれで、釈尊よりも17歳若い。父親の名前は「シッダールタ」と、釈尊の若き日の名前と同じである。30歳で出家し、12年の苦行の末、真理を悟って「ジナ=勝利者」となった。ジャイナ教とは、「ジナの教え=勝利者の教え」という意味がある。以後、30年間、王舍城を拠点に伝道に励み、72歳でパータリプトラ近郊で没している。つまり、まったく釈尊と同時代に、同地域で活躍しているのだ。共通点は、

 仏教の立場からみれば、六師外道は「外道」と名付けられるように、仏に成れない僞の教えということになる。がしかし、当時のインド宗教界、思想界では、共に最高権威のバラモン教を批判する新興思想であり、新しい自由思想家として共に、ビンビサーラ王やアジャセ王に保護を受けて、同じ地域で活躍していたライバル。バラモン教からみれば、同一視された危険思想ということになろう。

 さてその教えは、「(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行いという「三宝」を重んじること。
  そして、徹底した禁欲の実践である。「五禁戒」-(1)不殺生、(2)不偸盗、(3)不淫、(4)不妄語、(5)無所有を厳守である。仏教の「五戒」に類似するが、仏教では「不邪淫」であるのに対して「不淫」(夫婦での男女関係も禁じられている)。そして、「不飲酒」が「無所有」になっている。つまり、より徹底した禁欲(中でも、不殺生-アヒンサー)と、無所有が強調される。命を捨てる断食や苦行に徹しなければ、迷いの輪廻のから解脱した、真の勝利者になれないというものだ。(つづく)

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インド仏跡(31)~格差社会~

 当初の予定では、スラバスティー(舍衛城)泊だったが、さらに168キロの道を、6時間かけてて走って、ラクノウまで進むことになった。UP州の州都であるこの街には思い出がある。39年前はスラバスティには宿がなく、ここまでバスで走った。その夜、タクシーに分乗して映画館に繰出した。字幕なしのインド映画を鑑賞する。日本でのインド映画ブーム前だったが、ダンスと音楽が溢れた極彩色映画は言葉も分からなくても楽した。それよりインド人(当たり前)満員の映画館の雰囲気が、楽しかった。その時は、飛行機でデリーまで行ったが、予定どおりに飛ばずに、長い時間待たされたので、原っぱで円座になって座談会をしたことも、懐かしい思い出だ。

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  でも今回は大いに驚いた。大都会であることは聞いていたが、情報ではなく、実際に体験することで分かるもとある。日本並の高速道路になったかと思うと、高層ビル群があちこちらに現われたことだ。球場ではナイターもやっていた。野球ではなく、インドの国技といっていいクリケットである。明かりが煌々とついているところは、結婚式場だという。田舎の式もすごいと思ったが、都会は規模が違う。ホテルも、一気にグレードアップして、ぼくたちがとても田舎者で、場違いな場所に来たくらいの想いがした。それほど落差が激しかった。
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≪クリケット競技場↑≫
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≪豪華な結婚式場↑≫
 アグラに向う高速道路はこれまでの名ばかりの高速道路で、実は凸凹の悪路とはまったく違って快適そのものだ。8車線もあるのにまったく車が走っていないのが不思議に思っていたら、これは宿泊したホテルの大富豪が造ったプライベート道路! 料金が高くて一般の人はなかなか走らないというのだ。ガイドのバンシーさんは、「道が良すぎて、運転手が居眠り運転しないか心配だ」と、冗談半分で話してくれた。車窓の風景も違うが、道路格差にも驚かされた。
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≪ホテルもグレードアップ↑≫

 たった8日間とはいえ、インドの田舎を巡回しただけでも、貧富の落差の激しさを実感させられた。いくら格差社会になったと日本では体験できない類のものだった。

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K先生の訃報に接して

 今月の初め、北九州のK先生の訃報を、人伝えにお聞きした。

 次回の誌上法話にするために、晩年の先生の法話CDを拝聴している。会館での最後のご法話は6年前だ。ご病気で倒れられた後で、かなり弱っておられるのが声からも分かる。呂律も回らず、話も同じことの繰り返し。以前のような迫力もはない。明かにその2年前の元気なお声とは違っていた。続けて聞くと、これがハッキリする。これを文字化し、重複部分をカットして要旨をまとめると、半分程度にまとまるだろう。しかし文字にしてだけでは分からない感じを、どこまで伝わることができるのか。文字にして分かり易くなる部分はあるが、ライブならではのお声から察せられる雰囲気が損なわれるだろう。

 「ここは後生の一大事を解決を求める場所。信心をハッキリとさせてもらうところだ」と、病身を顧みず、命懸けのご説法であった。

 それは、K先生の生き方でもある。ご住職ありながら、自らの信心に妥協されることなく、また回りの空気に流されることなく、真実信心を求められ続けられた。どんなに苦しくても、決して諦めることなく、最後の最後まで貫き通れた御方である。その歩み続けられたお姿は、最後の求道者だったかもしれない。

 それは、善知識でもあったご母堂、T枝さんの姿そのものでもあった。

 よく精神を継ぐとか、志を受け継ぐとかいわれるが、K先生の場合は、その生きざま、その態度に、その信の相続が具現されていたと思う。
 では、これからの世。体制に流れることなく、回りに媚びへつらい誤魔化さずに、信じるところを貫き通された、先生の生きざまを引き継ぐ人が現われるのだろうか。南無阿弥陀仏

 

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新月断食

 今日は新月だ。

 今年から、夫婦で話題になっていたある計画を実行に移す。

 新月断食である。丸1日、固形物を食べない。

 以前、インフルエンザになった時、医者に行かずに、別室で4日間、じっと寝たままで何も食べずに(水分と、梅干しは少量食べた)、ひたすら寝て治した経験がある。その後の自力整体の時、からだが羽根のように軽かったことは忘れない。外部から抑えるのではなく、病気のブロセスを妨げないで自然治癒力で対処した経験は、ぼくにとって大きい。体調が悪くなると、食べないでからだを病気の方に集中させてるのが、ぼくの治療法である。でも、元気な時の1日断食は初めてだ。

 夫婦でやるので、お互い励まし合うというか、監視し合うということで励みにもなる。

 いつもの昼食時間の前後、夕食時間の頃は、お腹がすいた(たぶん習慣というか、脳からの信号がでる)ので、この時は、手作りの野菜ジュースを飲んだ。

 昨晩の夕食以降、1日断食を挟んで、翌日の昼食まで食べないので、36時間の断食となる。連れ合いは、「もう1日くらい大丈夫だ」といっている。ぼくも、もう1回、昼食を抜いて、夕食までの48時間断食なら、そう難しいことははなさそうだ。一番つらかったのは禁酒になることだったな。

 二人とも、それほど苦しくはなかったが、逆に、一口食べて「わーおいしいー」というような感激もなかった。
 楽しみにしていた排泄も、まあまあ普通かなーというところ。もう少し期待していたけど…。
 体重はちょうど1㎞痩せていたが、これは2~3日で、許に戻るだろう。

 偶然なのだが、新型コロナの到来と共に、酵素玄米が始まり、解毒スープを呑みようになり、そして今回の新月断食。この調子なら、今後もしばらく続くだろ。

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≪新習慣・堀田先生推奨の解毒スープ≫

 

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気概

 昨晩、 カウンセリングでお世話になっているN先生よりメール。
「明朝、6月のWS『仏教カウンセリングを求めて)』のご相談に窺いますが、ご都合いかがですか」と。
 こんな時に、わざわざお出でにるのですか?

 4月の真宗カウンセリングの月例会を中止する連絡をすると、「6名程度の人数で、あの広さの部屋で、そして十分、注意をしていたら、開催しても大丈夫ですよ」と、一番、残念がられ、一番、強気の発言をされたのだのが、一番、高齢で、お医者さんでもあるN先生だった。

 今日も、定期的なボランティのために介護施設(たまに入所者と間違えられるらしいが)から寄ってくださった。

 ぼくは、80歳を過ぎてからの先生しか知らないのだが、ますますその意気込みに驚いている。6月のWSのためのレジュメと、もし参加できない方のためにと、著書の抜き刷りをコピーを持参くださった。そして、「この道場の広さなら、十分に開催できますから」とのお話である。ぼくらのような素人ではない。京大病院の先生で、大学教授だった先生の言葉だ。

 そして、「もし、ぼくが入院でしていたり、もしものことがあったなら、このコピーを参照してWSを進めてください」とのことである。そして、戦争中の空襲の生死の境をくぐりぬけてこられたことから、今の風情をいろいろとお話くださった。一方で、無責任でとはなく、緊張感をもって臨んでおられる態度が伝わってくる。その気概、姿勢には脱帽である。

 それでも、どうぞお気を付けてお過ごしください、とも思った。

 5月のことでもよく分からない。6月のこととなるとなおさらだが、ぜひ、実現したいものだ。

講座「仏教カウンセリングを求めて」(3)

 日 時:6月27日(土) 13:30~17:30
     18:00~20:00頃(親睦会終了)
 場 所:華光会館(京都)近鉄十条駅徒歩1分
 参加費:(一般)3,000円・(会員・学生)2,000円

 詳しくは、以下をご参照ください。

http://dbpca.web.fc2.com/details/20200627.html

 

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露店のない弘法さん

 例によって、東寺まで散歩する。

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 明日から、有料区間の拝観中止が決まったからか、一昨日より人出が多いような気がした。といっても広い境内、ガラガラある。なぜか、あっちこっちに法被を着た係員が座っていた。その係に話しかけている方の声で、合点がいった。
 「初弘法の時には、こんなことになるとは、夢にも思わなかったわ」と。

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 そうか。今日は21日、「弘法さん」である。

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 21日は、弘法大師空海の入定された日で、東寺では京都の風物詩でもある縁日(こうぼうさん)が開かれるのである。初弘法(1月21日)や終い弘法(12月21日)には、20万人もの人出でごった返すのだった。

 広い境内にも、東寺の周辺にも、びっしりと露店が軒を並べるのであるが、今日はたったひとつの露店もなく、境内は静まり返っていた。こんな静か弘法さんは見たことはない。

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 おかけで、日頃みることのできない宝物の拝観や、外部から金堂の薬師如来のお参りもすることができた。。御いわれによると、承知2年(835年)3月21日(旧暦)は、高野山に入定された当日にあたり、その恩徳を感謝・供養するための理趣三昧等の法要が行なわれるという。それで、4月21日の正御影供では、後七日御修法以外は閉ざされている潅頂院に、絵馬が掲げられていた。まったく予定外で、ラッキーだった。

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よりにもよって、、。

 5月9日まで、毎日が「スティーホーム」のぼくに、たったひとつだけ外出の予定が入っていた。

 歯医者の予約である。

 今、一番、行きたくない場所は病院だが、次いで、歯医者も避けたいところだ。

 でも予約は、1月のインド旅行前。その時に、だれがこんな状況を想像していただろうか。

  幸い、大きな歯医者で、個室になる場所ではあるが、こちら側が知らずに、迷惑をかけるという恐れもあるのが、新型コロナの厄介なところだ。

 かなり迷った。

 が、先送りしたところで、来月も状況は未確定。それなら時間のあるうちにすませておくことにした。

 先方もいろいろと工夫されている。待合室で待たせないように、支払いもその場で聞いて、受付でサッーと支払って、手を消毒して終わった。

 次は、7月末になった。
 さて、その頃は、どんな世界になっていることでしょうか。

 

 

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百花春至って、誰が為にか開く

 今週末は、福井と、広島で法座の予定だったが、すべて中止になる。毎日が「スティーホーム」となった。
 せめて散歩だけは欠かさないことにした。これはもともとの習慣であるが、少しだけ距離を延ばすことにした。とっても半径2㎞圏内のご近所ではあるが、方向やコースに、バリエーションをつけることにした。

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 いちばん近くの公園では、まだ桜が残っていた。よくは分からないが、染井吉野ではなく山桜の一種なのだろうか。今日は、朝方から雨と風がきつかったのに、まだ散りきらずに花を咲かせてくれている。

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 夕方には、日差しも射して、青空ものぞいてきた。すがすがしい光だ。

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 もうひとつの公園では、藤が咲いている。

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 そのまま東寺に向う。境内を横切っていく。こちらは、青もみじが美しい。

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 赤いのは皐月だろう。

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 そして、八重桜がきれいに咲いている。

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 こんな時にでも、花はきれいに咲いてくれている。南無阿弥陀仏

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 「百花春至って、誰が為にか開く」(碧巌録)

 

 

 

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インド仏跡(30)~仏舎利を頂戴~

  インド仏跡巡拝の旅も、祇園精舎のある舎衛城で、無事、すべて終了した。
 と思っていたら、添乗員から、「予定ではこれで終わりでしたが、これから郊外のスリランカ寺院にトイレ休憩で寄ります。もしご住職がおられたら、お釈迦様の仏舎利を拝ませてもらえるかもしれません。博物館で仏舎利を見ましたが、ほんとうに遠くから、どかにあるのか分からないほど。でも、ここのでは間近で拝ませてもらえます」と。

 へえ~、意外なお申し出に驚いるていたら、すぐにスリランカ寺院に到着した。
  本当にこんなところにあるの? といいたくなるような佇まい。
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 トイレを済ませて本堂に戻ると、恭しく仏舎利塔を抱えた ご住職が登場。う~ん、う~ん、どっか胡散臭いな、というと失礼だが正直な感想。
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  そしてサンゴや宝石で飾られた仏舎利塔を拝見してくださる。近づいて写真もどうぞ。
 ああ、これか。
 さらに、頭上に頂戴させていただけるという。せっかくなので皆さんもお願いした。ヒンズー教徒のガイドさんまで仲間入り。
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 本物かどうかはともかく、仏跡巡拝の最後に待っていたサプライズ。

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最後の映画は『ロニートとエスティ』

 5年前から続けて学んでいる仏教大学の四条センターは、2月末から休講が続いている。その他の研究会も、3月から休みが続く。

 ただ映画館は開いていた。3月になると観客は少なくなり、4月になると目に見えて減った。京都シネマでは、だいたい10名程度、みなみ会館は、5~6名(いつものことか)程度である。逆に、大手のシネコンはさらに閑散としている。とうとう大スクリーンに、ぼく独りという事態がおこる。一度は、独りで映画を観たいと思っていたが、こんな形で実現するとは想定外だ。しかもである。それが連続して起こった。「一人がためなりけり」である。こうなると、居眠りもしないし、エンディング・ロールの最後までキッチリ見せてもらった。

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 しかし、それも今日までだ。京都の映画館も、明日からすべて休業が決定。急に決まったので、来週に見送った映画が見られなくなった。今週は、焦らずにあまり見なかったのが裏目になった。でも仕方なしだ。

 最後は京都シネマで『ロニートとエスティ』 ~彼女たちの選択~。厳格なユダヤ教のコミュニティーの中で、権威に反発し、自由に生きることを選択して飛び出した女性と、その枠の中で信仰を貫き、自己を殺して幸せになろうと女性が、厳格な指導者であり、父親の死をきっかけに、再び出会っていく物語。主演のWレイチェルが、繊細な心の機微を、または大胆な性愛シーンを激しく好演している。

 あいかわらず一神教の教えでの、厳格な父親の存在が意味を持つ。これはキリスト教やユダヤ教などの一神教の文化圏と、日本のような母性的な多神教の慈悲の寛容さ、母性が表立つ文化との違いがまざまざと出る。これは映画を見ていればよくわかる、普遍的なテーマである。日本映画の大半は、厳格な父親不在、寛容な母性がテーマとなることが多い。一方、この映画は厳格な閉鎖集団内でのタブーへの挑戦は、父親への挑戦でもあり、ぼくの心の琴線に触れるテーマでもあった。

 願わくば、これが今年最後の映画とはなりませんぬように…。

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4月の華光誌輪読法座

 平日の昼 少人数(10名程度)での法座を行う。予め参加者にはマスクを着用をお願いし、座席の間隔を空け、消毒液も玄関や各部屋に配置し必ず使用してもらった。玄関、会場のドアも空け放し、窓も開放。幸い、今日は暖かくてその点では助かった。全員がマスク、目一杯に間隔をあけ壁際まで広がって座っている。三密対策だが、普段の集りから比べると滑稽というか、異様な光景だ。それだけ緊急事態が進行しているのである。この新型コロナが厄介なのは、自分が感染するリスクだけでなく、無自覚に人に感染させるリスクもある点だ。その点も承知の上で、今日も開催することにした。
(ただこの翌日には、全国に緊急自体宣言が適用され、京都は「特定地域」に指定。この法座を最後に、5月10日(日)の「聖典講座」まで、華光会館での法座も中止を決めた。会場提供の集いやピアノ教室は、3月から休業が続いているので、会館も静かである。)

 普段は当たり前の法座に参加することも、当たり前ではないとうことを、身をもって知らされる。単にコロナのせいではなく、すべてご因縁事である。それだけに、たった3時間たらずでも、お互いを大切に、聞き合い、語り合う一時を過ごした。いかに日頃、当たり前に粗末に生きているのかだ。

 巻頭言と聖教のこころを読んだが、その内容はまた後で。インド仏跡の写真と共にお伝えします。南無阿弥陀仏

 

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インド仏跡(29)祇園精舎(サヘ―ト)

祇園精舎跡(サヘート)八大聖地


 舎衛城(マヘート)からは1㎞離れてあるのが、有名な祇園精舎跡だ。これまた有名なおいわれを紹介しておく。 

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 この地にスダッタ(須達多)という長者がいました。貧しい、孤独な人に食物を与えたり、者をほどこしていたので、アナータピンディカ(給孤独)と呼ばれ、慕われていました。ある時、スダッタが商用で言った王舎城で、釈尊の説法を聞き感動して、釈尊に帰依して、釈尊をコーサラ国へ招待しました。スダッタは、釈尊の精舎を建てる場所は、コーサラ国のジェータ太子の所領地、ジェータの森しかないと、太子に交渉します。

 しかし太子は売ろうとはしませんでした。それで、冗談半分に「もしその敷地に、黄金を敷きつめたらそこだけ譲ろう」とふっかけます。大喜びしたスダッタは、早速、私財を投げ出し、牛車何台にも黄金を積んで並べ始めたのでした。驚いた太子、スダッタの熱意にうたれて、この土地を寄進。スダッタと精舎を造ったというのです。

 祇園精舎の正式名は、「祇樹給孤独園」(ジェータヴァナ・アナータピンディカッサ・アーラーマ)で、「ジェータ太子」と、「スダッタ長者(給孤独」)の両名の名前に由来する。それが、2500年もたった日本の各地(京都の祇園や、博多にも)その名が受け継がれいる。布施の力はおそるべしです。

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 とても静かな、そして青空の広がる聖地で、猿の楽園となっていた。霊鷲山て見たのとは、また違う種類ですね。猿以外にも、リスやさまざまな小鳥が飛び交っていて、気持ちのいい公園となっている。

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この地を釈尊せたいへんのこの地を気に入られ、成道後第14年の雨期を最初に、成道20年以降、19回もこの祇園精舎で安居を過されたといる。でも、ただ釈尊お独りはなく、お供の大勢の比丘もおられるわけですから、サンガにお布施をするたそめには、いかにこの都の豪商達が経済的に豊かで、舎衛城が栄えていなければ出来いこと。
 
 5世紀のはじめの「法顕伝」は、「池流清浄、材木なお茂り、衆華色を異にして、蔚然として観るべし。即ちいわゆる祇園精舎なり。……精舎を繞り98の僧伽藍あり、尽く僧の住すあり」。とその盛んな様子を記している。
 しかし、200年後に訪れた玄奘は、「伽藍は、外道の人々は甚だ多い」と、すでに荒廃していることを伝えている。

 この遺跡も、1863年にカニンガムによって発掘され、確定された釈尊の多くの遺跡の中で、もっとも確実性のあるものだとか。早くから発掘整備されたこともあり、とてもきれいな、そして静か公園で、たぶん39年前といちばん変わっていないのが印象的。

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 中央よりやや北よりに、釈尊がしばしば滞在されたガンダー・クティー(香殿)、周囲には、多くの精舎跡、そしてアーナンダツリーにも参拝。

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 ここで、私達は『仏説阿弥陀経』を勤行。『阿弥陀経』は、今生の別れとなる舎利弗尊者に向け、問を待たずに説かれた「無問自説の経」で、釈尊の「一代結経」と呼ばれる。親鸞様は、『大無量寿経』と並んで「出世本懐経」だご覧になられている。

 気持ちよい天候のなかで、仏跡の最後となるのでお勤めを、力一杯勤めた。勤行が始まると、猿が多く集まってきたのが印象的(荷物の中身を盜られた方もあった)。

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 こうして、予定どうりにすべての仏跡巡拝は終わった。最後は、名残を惜しんで、お釈迦さまのみ跡とお別れである。南無阿弥陀仏
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インド仏跡(28)舎衛城(マヘ―ト)

 今日も、また5時起床。インド入国後、初日の4時30分に始まって、ずっと5時台の起床が続く。昨日の反対で、今度はネパールからインドに国境を超えねばならないのだ。そして、ルンビニーから、シュラーヴァースティ(舎衛城)へ向う。最後の仏跡地となる「祇園精舎跡」にお参りをする。

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 予想以上に寒い朝だった。やはり、ネパール側でも、インド側でも待たされたが、ぞさでもスムーズな出入国ではなかったか。
 途中、待望の青空トイレ。今回は初めてで、なるべくタイやスリランカなどの寺院のトイレや、茶店を使っていた。これはこれで思い出にある。(青空トイレの時に)

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 ホテルで遅い昼食。当初は、ここに泊まる予定だったが、今日のうちに、ラクノウという街まで足を延ばし宿泊することになった。もう好かり慣れて、売店で積極的に買い物されていた。

 シュラーヴァースティ(舎衛城)のメーンは祇園精舎だが、紹介はまず舎衛城から。


シュラーヴァースティ(舎衛城跡)八大聖地


 ここは、王舍城から最も遠いシュラーヴァースティ(舎衛国)の首都で、南の伝道拠点「王舎城」と並ぶ、北の伝道の拠点である。

 『仏説阿弥陀経』は、「如是我聞 一時佛 在舍衞国 祇樹給孤独園 与大比丘衆 千二百五十人倶」で始まります。漢訳経典の訳者によって、「舍衞国」「舍衞城」「舍衞国城」とある。「舍衞国」のなかに、「舍衞城」や「祇園精舎」があると考えればよいのだが、経典の場合、同じ意味で「城」と「国」を同一で使っておられる。

 さて、舎衛城は、釈尊の時代、大繁栄をみたコーサラ国の首都であった。コーサラ国とは、二大叙事詩で有名な「ラーマーヤナ」の主人公ラーマこそが、コーサラ国の王子である。ラーマーヤナ物語の時の首都はアヨーディヤー市であったが、遷都されてシュラーヴァースティ(舎衛城)が首都として栄える。釈尊在世には、マガダ国と並ぶ二大強国で、釈尊の出身地の「シャカ族」を殲滅させる。この因縁もすごいが、今は略する。しかし、その後、マガダ国の阿闍世王によって滅ぼされていくことになる。この歴史の綾もすごい。

 釈尊在世当時は、ハシノク王の居城として栄え、周囲は約6.4㎞にわたって城壁が巡らされていたという。城跡は1.2mから、6~7mの小高い丘だったが、現在はウッタルプラデーシュ州、ゴンダ地方とバーライッヒ地方の境界にあって、単なる遺跡でしかない。

 その舎衛城跡は、祇園精舎跡から北へ約1㎞、ラプティ河(アチラバッティ河)の左岸にあります。舎衛城跡は「マヘート」と呼ばれている。

 5世紀に、法顕三蔵が訪れた時には、「人家が200戸くらいあった」と記されているが、現在はほとんどが水田や畑の田舎である。

 1863年にイギリスのカニンガムによって発掘され、スダッタ長者の旧宅跡と推定した「カッチークティ」。

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 盗賊アングリマーラーの旧跡と言われる「パッキークティ」の大きなレンガづくりの遺構が残っている程度。(いずれも異説あり)

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 盗賊アングリマーラーの逸話も面白い。真宗では、歎異抄第13章の「千人殺せ」の話題に通じるお方だが、今は長くなるので省略。祇園精舎のおいわれとなるスダッタ長者のことは、次に触れる。

 今は遺跡が残るだけの鄙びた地も、釈尊当時はたいへん栄え、釈尊も好んでこの地に滞在しておられることに心を馳せながら、遺跡を眺めた。とくに、舎衛城(シュラーヴァスティー)の奇跡といって、仏陀釈尊が異教徒を折伏せんがために、神通力を示した「千仏化現(センブツケゲン)」や「双神変(ソウジンペン)」を現したことは有名で、後世に、浮彫図などの題材とした秀作が多数造られていくのである。

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こんなところにも影響が、、。

 3月20日前後だったが、連れ合いがブラジルに荷物を送ってくれた。ブラジルにいる子供が、自分で注文した品物(コミックや文房具、そしてコスメ)に加えて、リクエストされたものがある。お菓子や即席のもとなど、日本でしか手に入らない食べ物もある。せっかくなので、欲しがっていた洋服も同送して、母や連れ合いが心尽くしで作った荷物である。

 何分、地球の裏側の遠隔地で、10㎞ほどの荷物でも、送料は2万円近くかかる。送料は、母が負担してくれることになった。慎重に宛て名書、関税の書類も丁寧に造り、何度も郵便局に足を運び、いろいろと尋ねた。一度、送りかけたところで、相手(届け先)の納税者番号が必要だと分かったりと、簡単には遅れなかった。もちろん新型コロナの影響も心配だったので、取扱局でも、親切に何度も問い合わせをして下さり、やっと送ることができたようだ。

 その荷物が、先日、送り返されてきたのた。もしも荷物が相手先に届かない場合は、「放棄する」「帰路の運賃も支払う」などの選択があったが、「帰路も支払う」を選んでいた。ああ、もしかしてまた2万円取られるのかと、嫌な気分になった。

 4月2日から海外小包の受取に制限がかかたことは、ニュースでみていたが、その10日ほど前に送ったのだ。しかし、結局、ブラジルに行く前に飛行機にすら乗ることはなかった。海外への航空便が激減しているからだ。ブラジルに渡っていないので、料金は全額、返還されるということになった。

 荷物の中の文具や服、化粧品はまだいいが、問題は食べ物だ。賞味期限があるのだ。荷物の再開は見通せない。たとえ送れたも、日数もかなりかかるだろう。ジャガリコ(ボテト)に、アメに、梅干しアメ、干しいもに、パスタの元など、各々10個ずつ。ぼくらが食べないものばかりが山積みとなった。日曜礼拝や法座があれは、飴やお菓子の提供してもいいが、今は休止状態なので、行く当てがない。

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 しかし、いちばん悲しい思いをしたのは、荷物を楽しみにしていた子供たちで、大ショックだ。

 それにもまして問題がおこる。夏には、大学受験の準備で、日本に帰国予定だったのだが、いまの状況では、無事に帰ってこれるかも不透明な状況になった。せめて秋頃にはと願っているが、思わぬ不安材料である。

 

 

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課題に取り組む決意

 土曜~日曜の東京支部法座は中止となる。決定には、何度も相談をしてくださり、1日法座の提案も頂くが、結局は中止になる。た、そのプロセスにも関われて、納得することのできる中止だった。その後、首都圏に緊急事態宣言が発令され、感染者が急増する現状では開催はとても無理な話だった。

 3月20日の大阪支部法座を最後に、地方法座は中止が続く。高山、福岡、筑豊での子供大会、そして4月は、京都、東京、広島、福井と中止。GM中の永代経法要も秋に延期。5月の地方法座もすべて中止になるだろう。6月以降は、未確定だが、現状は厳しい。もしこの状況が1年、そして2年と続くようなら、どうしようもない状況に追い込まれる。

 しかしである。たいへんだと思う一面と、どこかでこれもまたこの世のならい、今生事はなんとでもなるという気持ちもある。楽観視とも、開き直りとも違う意味で、新たな状況の中でもやっていけるという思いである。

 それにしても、今回のことで、自分自身も、また世の中(専門家でも)、いかに虚仮不実の迷いの身であるかを痛感させられる。自分自身も、状況が変われる度に、この迷いの心もコロコロ変わっていく。強気だったり、弱気になったり、何かに憤ったり、誰かを冷笑したり、突っ込んだり批判したり、それでいて恐れたりと、所詮は、状況の変化の度に、自分の想いに振り回されているだけだ。結局、先のことは何一つ見通せない、迷いのいのちを生きていることに変わりはない。

 変わらぬ「仏説まこと」を喜ばずにはおれない。

 土曜も日曜も、終日、家に籠もって、先延ばしてしていたインド旅行の後始末をする。感想文の編集や、全体写真の編集に、そのコピーしてCDを作る作業だ。そのせいではないが、久しぶりにマラサチャイを淹れたり、バナナラッシーを作ったりもした。これがなかなかおいしくて、連れ合いにも好評。彼女は彼女で、酵素玄米に初挑戦。3日間の時間が要するが、2日目に試食したが、おいしくてはまりそうだ。(写真)

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  他にも、朝晩、読書や勉強の時間をもったり、今にしかできないことに取り組もうと思う。すぐに成果がでなくても、今は力を蓄え、抱えている長期の課題に取り組む絶好のチャンスだと切り替えている。この期に乗じて、本腰を入れて頑張ろうと思っている。出張法座や行事の中止は大いに痛いが、一歩、飛躍するきっかけになるのかもしれない。

 

 

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インド仏跡(27)~ルンビニー園のアショーカ王柱~

●アショーカ王柱●


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   この地がルンビニー園であることが確認されたのは、この、アショーカ王の石柱を発見のおかげである。石柱の現在の高さは約7mあるそうだが、アショーカ王柱の頭部は欠損し、落雷の跡と言われる亀裂が入っている。しかし、石柱の文字はよく分かり、翻訳もされている。

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「天愛喜見王(アショーカ王)は、(即位)灌頂の第二十年(を経て)、自らここに来り、親しく参拝した。ここでブッダ・シャカムニが生誕せられたからである。それで石で馬像を造り、石柱を造立せしめた。ここで世尊が生誕せられたのを(記念するためである)。ルンビニー村は租税を免除せられ、また、(生産の)八分の1のみを支払うものとする」(中村 元訳)

とブラーフミー文字で刻まれている。この文字で現存するのは、アショーカ王法勅文だけで、「アショーカ文字」とも呼ばれている。これが後に梵字になり、13世紀以降、デーバナーガリー文字として普及したとか。改めて、アショーカ王のすごさを教えられた。

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 他の仏跡巡拝の団体はなく、ゆったりしているんで、お正信偈をお勤めさてもらう。

 「如来所以興出世  唯説弥陀本願海
  五濁悪時群生海  応信如来如実言」(正信偈)

 お釈迦さまのご出世は、五濁悪時の我々凡夫のために弥陀の本願を説くことにあると、親鸞様。その地が、まさここなんです。


●マーヤー夫人の沐浴の池●



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 お母さまのマーヤー夫人が、沐浴されたと伝えられる池。
周りでは、チベット僧が読経をしています。
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≪無憂樹の枝に右手を延ばされた時に、、↑≫

 5世紀に、この地を訪れた法顕は、マーヤー夫人の沐浴の池の水を衆僧が取って飲んでいたと記している。しかし、「白象、獅子が横行し、行路は怖ろし」とも記載しているが、その200年後(7世紀)には、玄奘三蔵も巡礼している。そして、アショーカ王柱の石頭が落雷のため、折れて下に落ちていると記している。8世紀に訪れた慧超は、「このあたり森は深く、道には賊あり、巡礼者は方角を知ることが難しく迷い易い」と。四大仏跡の中で、最も早く荒廃したと思われている。

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≪39年目のマーヤー堂からアショーカ王柱。なーにもないです↑≫
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 ただし、このあたりは他の遺跡がないようで、仏跡地としては他の関連施設(周辺の各国自院はあるが)はないので、妙なボート遊覧やや金ぴかの誕生仏は、せっかくの静寂の聖跡が世俗化に進みそうで、感心しなかった。

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≪ネパール国旗が掲揚される≫

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インド仏跡(26)~ルンビニー園+新旧3つのマーヤー堂

 ●ルンビニー園と新マーヤー堂


 さて、釈尊のお誕生の地、ルンビニ―園。ここは、1896年、フェーラー博士が発掘調査し、アショーカ王の石柱を発見されルンビニーであることが確認されたとのこと。

 40年前に訪れた時には、遺跡の中央に白い小さな「マーヤー堂」(もちろん、摩耶夫人のお名前)と「沐浴の池」と、「アショーカ王柱」がある程度。回りには草原が広がっていた。それが開発が進んで、きれいな公園になっていてのには驚いた。この公園をマスタープランは、日本の高名な建築家、丹下健三氏だ。ネバールが観光にも力を入れる世界遺産でもある。1992年から世界仏教連盟、中でも日本の仏教界が力をいれて、ルンビニー園の復興事業が動きだし、従来のマヤ堂を解体して、考古学的作業を開始して、多くの出土品を発見、ここが釈尊誕生の地であることを示す「マーカーストーン(印石)が、旧のマーヤー堂の真下から発見されている。写真が、釈尊が生まれられた場所!!

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 そしてぼくが見た、3代のマーヤー堂です。

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≪旧マーヤー堂↑≫
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≪2000年には一回り大きい新マーヤー堂が完成↑≫
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 発掘された内部を見学できるように、新マーヤー堂の内部は回廊が設けられている。数年前、紀元前6世紀に遡る木製寺院の遺構が発掘されたというニュースを耳にした。釈尊の誕生に関わる世紀の大発見かもしれない。その遺構と見れなかった。
 今回内部の撮影は禁止だったが、10年前はOKだったので、そのときの写真を掲載。

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 マーヤー堂の仏陀生誕像は、マーヤー夫人の下に天子が立ち、左に侍女、右に帝釈天と侍女を配する形になっています。左手のかがみこんでいる侍女は、考古学者のバッタチャリャによりますと、マーヤー夫人の妹で、マハー・パジャパティー・ゴータミーで、マーヤーの死後、釈尊を養育し、養母となられた方だと言います。顔はけずり取られ、まっ黒になっています。上の写真が現物で、下が複製。

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 またこの堂の周辺には、煉瓦造りの大小の奉献ストゥーパが点在。1976~78年の発掘調査の際に掘り出されたもの。

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インド仏跡(25)~国境を超える(番外編)

 ちなみに39年前のインドーネパール国境はこんな感じだった。昔は降りられたし、写真もOKだった。写真の色にも年期が入ってます。

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≪インド側国境施設。バスが止まると子どもたちが集まってくる↑≫
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≪このポールと向こうのポールが国境線↑≫
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≪この向こうが緩衝地帯(インド側)↑≫
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≪これを超えるとネパ-ル↑≫

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インド仏跡(24)~国境を超える

 クシナガラからルンビニーまでは、やはり6時間のバスの長旅である。しかも、国境を超えてネパールに入らねばならない。インド側の出国と、ネバール側の入国の手続きがあり、ネパール側ではビザも取得する。もし、他の仏跡団体が重なると、何時間も待たされることなるので、早め早めに行動。この先手必勝が幸いし、涅槃堂でも、国境でも、同じ行動をしていたビルマの巡拝の団体より、常に一歩先んじることができた。彼らは、かなりの大人数だったので、これは添乗員さんのファインプレー。
 行儀よく並ぶのは日本人の特出だと思っていが、皆さんも団長の合図ですぐ整列していた。

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 それでも、インド側でもネバール側でも、かなりの時間がかかった。インド側では制度変更の初日ということで、「仕事をしてます」の写真撮影があったのだ。ポーズだけとって、終了。コロナウィルスの問題が起こっていて「チャイニズー?」と何度も尋ねられた。

 外国人と違って、インドやネバールの人は、この国境はフリーバスで往来。
 緩衝地帯ギリギリでも商売しています。一応、写真撮影は不可。一度、中国の新疆ウイグル自治区の『入国』で、痛い目(武装警察が小銃ももってバスに乗り込んだ)写真はやめておいた。

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≪国境の町で買い物する国境警備隊の女性隊員↑≫

 ネパールにはいっても国旗が変わった以外、お金もインドルピーが使えて、特に変わった印象はない。あいからわずの悪路で、ネパール側は工事中で、一層厳しかった。遅い昼食をホテルでとって、ボロボロのワゴンに乗り換えて、ルンビニーへ。

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≪ネパールは、ブッダオイル↑≫



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花祭り

お 誕 生

 『そのとき、ルンビニー園では、木の根元から、枝の先に至るまで、すべて同じように花が咲き乱れていた。枝の間と花の間には、五色の蜜蜂の群や、様々な種類の鳥の群が美しい声で鳴きながら、飛び回っていた。ちょうどルンビニー園全体が、帝釈天のチッタラター園と同じように大偉力ある王が巧みに整備された宴会場のようであった。
 王妃はそれを見ると、サーラ林で遊びたいという気持になった。そこで臣下たちは、王妃を連れてサーラ林に入った。王妃はめでたいサーラ樹の下に行き、そこでサーラの枝を取りたいと思った。するとサーラの枝が、よくぬれた蘆の先のように垂れてきて、王妃の手の方に接近してきたので、彼女は手をのばして枝をつかんだ。ちょうどその時、この彼女は産気づかれた。女官達は、彼女を幕で囲んで準備をし、他の大勢の人々は退いて静観することにした。マーヤ夫人は準備の整った頃、丁度サーラ樹の枝をつかみ、立ち姿のままで出産された。と。その瞬間、四人の浄らかな心の大梵天が黄金の網を持って来て、その黄金の網で菩薩を受けとり、母の前に立ち、「王妃よ、喜びたまえ、大偉力あるあなたの息子がお産れになりました」といった』(「ニダーナカター・ジャータカ」)

「教主世尊は、弥陀仏の 誓い説かんと生(あ)れたもう
 にごりの世にしまどうもの 教えのまことを信ずべし」

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≪姉が、日曜礼拝の子供たちにと、花祭りのスノードームを送ってくれた。残念ながら、日曜礼拝(子供会)は当面は休会。
後ろは、インドで購入した合掌像。南無阿弥陀仏≫

 

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F家の法供養法要

4月上旬は、恒例のF家の法供養法要が営まれる。

 高齢で、ご家族以外のお参りとは減ってきて、今年は合計3名。それでも、少しでもご縁をつけたいという、家人の熱意は頭が下る。このような状況下でも、例年のようにお勤めくださった。ほんとうに有り難いことである。

 ご法話は、「らいさんもん」いただいた。

「われいま幸いに、
 まことのみ法りを聞いて
 限りなきいのちをたまわり
 如来の大悲にいだかれて
 安らかに日々をおくる
 謹んで深きめぐみを喜び
 尊きみ教えをいただきまつらん」

 世間が騒がしい中、この身に何が起こっていても、この尊い南無阿弥陀仏のみ教えにで会い、安らかな日々と頂けるこどが、勿体ない。南無阿弥陀仏
  

 

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宇賀神社の桜

  最近は、毎日、散歩だけは欠かさない。といっても、ご近所を30~40分程度歩くだけだ。

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 コースはだいだい決まっていて、この神社まで往復して歩くことが一番多い。

 今は、とくに桜がきれいだ。

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 今年は、記録的な暖冬。桜も、史上もっとも早い開花になるといわれていたが、開花前後が肌寒い日が続いて、例年のように4月になっても、まで長持ちしている。残念ながらコロナ禍で、例年はごった返す京都も週末でも、閑散としている。

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 この神社は京都通の方でもご存じないところ。札ノ辻河原町の、少しだけ奥まってところにある、小さな神社で、まず人を見かけたことはない。

 宇賀神社という。東九条なので、一つ区域は超えているが、藤原鎌足にまで遡る歴史があり、京都でもかなり古い神社で、ご神木も樹齢600年以上。

 桜は、少し満開は過ぎているが、それでもまだきれいだ。

 夕方の風景。

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 そして夜の風景。 

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 この日は、満月に近かく、桜の合間からも月が見えている。

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 秋の「いちょう」も見事なので、次回は秋にお届けします。

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運営委員会~永代経は延期~

  いよいよコロナウィルスの感染拡大が深刻になってきた。テレビをつけても、ネットをみても、ニュースはコロナ一色。近々緊急事態宣言が発動される見通しにもなった。 こんな状況で、GM中の永代経法要を開催できるのか。例年は3日間で130~50名のお参りがある。しかも寝食を共にする方もある。法要もあるので、道場に前は、法中の席となり、法要中はかなり詰めて座ってもらう。今年は、修繕事業の記念法要も計画していた。ただ申込みの出足はかなり悪い。もしこのまま開催しても、30~40名の参加しかないかもしれい。それでも全国各地からの人と人との接触が濃厚になる。

 形態を変えて行うのか、それとも中止や延期をするのか。3月20日以降、行事や法座の中止が続いているので、今後の行事予定も見直さねばならない。 

 あらかじめ役員MLを使って意見出していただき、その上でスカイプでのネット会議を行うつもりだったが、全員のネット環境が整わなかった。これはこれからの課題だ。というわけで、委員長、副委員長、そして事務局のTさんと、ぼくの4名が集まって会議。全員、マスク着用し、机も4つ並べて、1人が1つずつ間隔をあけて坐る。かなり異様な光景だが、これが今のスタイル。

 真宗の法座が、不要不急なものなのか。法要や法話は、ネット中継で代用できるが座談会はどうか。ただ、人が集まるからやめるのでは、「後生の一大事」の看板が、簡単に譲ることにならないか。悟朗先生ならどうされたかという声もでる。もちろん、ぼくもそこは常々考えてるところで、そこが師をもった者の幸せである。

 つくづくと顔を合せて話し合うことが、如何に大切かということを思い知らされた。もちろん、メールやラインでのやりとりで事は足りる。しかし、遇わなければわからない、機微というのを感じることもあれはば、触発されて考えが変わることもある。今回のように、これが「正解」というものがない以上、あれや、これや、ああでもない、こうでもないというプロセスこそが大切だ思う。

 個人的には、これを機会に法座の有り様もかえてみたいと思った。あまり活気のない法座で時間を使うよりも、少人数(6名程度)の小さな集りを、きめ細かく開いていきたいと思った。直接的なコミニケーション、しかもグループの力のようなものの重要さを想うのだ。もし今開くなら、「一蓮托生の会」はどうだろうかなも思ったが、当面は、おとなしく自粛することになりそうだ。

 結局は、永代経法要はGM中は取りやめて、9月に延期の決定。もちろん、9月も開けるどうかはかなり不確定。まあ、その時は、その時として考えればいい。他の集いについてもそれそれの状況や地域の判断で、ギリギリまで考え、待つことにした。

 新手目て法座をもつ意義や覚悟が問われているのである。南無阿弥陀仏

 

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独生・独死、独来・独去

 2月22日にご往生された、Mさんの四十九日法要を営む。

 葬儀があったホールでの法要。もともとは身内だけで多くない集いだったが、キャンセルが続いて10名ほどがお参り。全員、マスクで着用、間隔をあけて着座だ。幸い(?)なことに、勤行の声はあまりでなかった。たぶん自粛されていたのだろうか。

 40分ほどの予定していた法話も20分ほどに短縮。四十九日法要の意義、そして還相回向のお働きについて、なるべく平易にお伝えしたが、ほとんど反響が感じられなかった。
 最後は、家族5名と一緒に、会食した。家族ならではの故人を偲ぶ話が聞けた。それでも、彼女の場合、ぼくも35年以上、かなり密接におつきあいさせてもらってきたので、逆にぼくからも話題を提供することができた。

 かなり重篤となってから、それでもまだ意識があるときに、ご主人が

「独生・独死、独来・独去やな。お前はお前の業を、ぼくはぼくの業を、それぞれ受けていかないかんなー」

と話したら、分かったのか、静かに頷いておられとのことだ。そして、これが仏法のことでは最後の会話になったとの話が、有り難かった。

 家族に囲まれようと、どれだけ仲間がいようと、独りで生れ、そして独りで死んでいくのである。しかも自らの業の道理によって、独り出ていくかねばならないなだ。南無阿弥陀仏

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北海道のうまいもの

 北海道の連れ合いの実家から、御馳走が届く。いまは特に夜の外食は控えているので、とても有り難い。ありがとうございます。毛ガニも、イクラも、おいしかった。

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 これまた京都の同人から頂いた日本酒がすすむ。こちらもありがとうございます。でも結局、

 「飯を食うのはうまい!」は源左同行は言われたが、まさに

 「殺生はうまい!」
 「飲酒(おんじゅ)もうまい!」である。

お釈迦様が誡められたものばかりを喜んでいる。これひとつでも轉倒の凡夫である。

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鴨川沿いの桜

  今年は、いつもの桜見物をドライブに切り換えた。高齢の母が心配だったが、歩くのも不自由になってきて、これが楽だと思った。

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 行きは、ぼくが運転し、川端通を鴨川沿いを北山どおりまで上がっていった。帰路は、連れ合いが運転して、今度は、木屋町通を下がった。

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鴨川沿いも、高瀬川沿いも、車窓からでもきれいだった。母も、これはこれできれいだったと喜んでいる。

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 急ぐ時など、渋滞があるとイライラするものだが、今回は、逆にそれが有り難いと思った。停まれば、ゆっくり写真撮れるし、桜も眺められる。要は、自分の都合で、一つの判断にすぎない。自分勝手なのである。

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 木屋町五条の手前の小さなスペースで降りて、桜を眺めて、記念撮影した。いつもとは違う桜見物だったけれど、これはこれで気分転換。

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≪四条大橋の東野菜館をバックに↑≫
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≪鴨川から比叡山を望む↑≫

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4月の仏書に親しむ会~『仏敵』~

  支部法座の中止が続く。そんな中でも細々と小人数(10名程度)の法座を、十分配慮しながら続けている。もちろん、どんなに配慮してもリスクはあるし、選択が間違っているのかもしれない。ある意味では、かなり厳しい状況が続いている。

 今日は雨。夜の2時間だけの法座にお参りはないかもしれない。ところが、10名の方がお参りくださる。皆さんの顔をみるだけでも、少し胸が熱くなった。地元の常連の方だが、「夜の会合がすべて中止になったので」という、初参加者もあってびっくりした。

 『仏敵』を読む。第6章の信疑の白兵戦(3)~第7章の不可思議光の諦聴まで。

 だんだんとクライマックに近づいきて白熱してくる。第6章は、主に、植島藤太郎さんとのやりとり。たまに坊さんが、ちくりちくりと関わってくる。若き日の伊藤青年も、聴聞の焦点があたっているようで、かなりとんちんかんなところもあり、急に反発したり、否定したりという心理描写は、小難しい部分もある。

 それでも、目の前におられる田舎の在野の生きた念仏者の信仰体験を尊く拝聴される姿がある。いくら反発したり、理屈を並べてみても、学問では得られない回向信の世界があることを、肌で感じていかれるのである。このあたりの雰囲気がぼくは好きだ。結局、根拠や理屈を並べても、最後はそれを超えた力のようなものを感じるかどうかという部分が大きいと思う。それが出会うということの意味ではないか。

 およしさんと藤太郎さんのやりとりも尊い。今生のご因縁はご因縁として、今、出ていく後生となったらどうかと迫られて、ぐうの音もでなくなるのだ。そして、その後のお味わいも尊い。

「……ほんとうに我々凡夫はあさましい日暮らしをして、なんにも知らぬが、実にそら恐ろしい魔境に住んでおります! 入る息は出る息を待たぬほとの大無常ぞ! と示されるように、親の御眼から見ると、それはそれは哀れなざまでございまするぞ…」

 まさに、コロナ、コロナと戦々恐々としている我々の哀れな姿そのものである。南無阿弥陀仏

 次回は、5月13日(水)夜18時50分~21時を予定しています。

 いよいよ水流光明の不可思議光の体験が一転、見事なまでに潰されて、何もかも分からなくなるところですね。ここがまた有り難い。

 

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