四十八願のこころ(22)第41願~第42願
◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋して具足せずは、正覚を取らじ。」(第四十一願・聞名具根の願)
意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前を聞いて、自力の修行を励み、ついに仏果を得まで、その間も六根具足して形がさわやかであらせよう。もしそうでなければ、私は決して仏にはなりません。」
◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、ひとたび意を発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて定意を失せじ。もししからずは、正覚を取らじ。」
(第四十二願・聞名得定の願)
意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前を聞いて、みなことごとく清浄解脱三昧(煩悩の束縛から自由になった清浄な精神統一の境地)をきわめるであろう。そして、その三昧にとどまり、またたく間に無量の諸仏を供養して、しかも静かな禅定の意は動じることはないでしょう。もしこのように静と動を同時に得ることがないのなら、私は決して仏にはなりません。」
四十八願も最後の一段です。これからの四十一~四十八願は、第四十六願を除いて、広く他の仏国土で自力修行中の菩薩方に誓われた願です。これまでが凡夫のための願いであったのが、これ以降、聖者のための願いを兼ねています。たとえ他国の菩薩方であっても、阿弥陀様のお名前を聞く(聞名)ことで、大きなご利益を頂けると誓う願が続きます。
だから、正直、凡夫のわれわれにはピンとこないです。聖者、しかも自力修行の菩薩のための願いだからです。しかし、それだけ、阿弥陀様の願いは広く、深いということですね。低下の泥凡夫の私から他の仏国で修行中の菩薩まで、すべてを救わずにおれないという本願なのです。だから第四十一願の表現は、障がい者に対する偏見や差別のようにうつるかもしれません。しかし、阿弥陀様の本願は、すべてのものを救いたいという無差別の大慈悲心であることを、重ねて述べておきます。南無阿弥陀仏
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