« 3月の真カ研の月例会 | トップページ | ジンギスカンの匂い »

大阪支部法座~ご示談の心得~

 春のお彼岸。大阪支部法座だが、東大阪との県境にある奈良県生駒市の家庭法座。大阪よりも京都からのお参りの方も多く、普段よりも参加者は大目。久しぶりの方、うれしい参加の方がある。座談会では、新しい方(2回目のご縁)が中心に。真面目に、正面から仏法を受け取っておられる。その姿は尊い。「聞き抜こう」という姿勢が伝わる。ここで出会ったご縁の尊さもよく分かる。

 ある方の強い促して答えて、「聞かせてください」と頭をさげられた。

 その働きも、その姿も尊かった。しかし、まだまだ力み一杯だ。わが身の実相はお留守だし、当然、法のお働きもお留守。

 ぼくは常々よく言っていることだが、仏法は、「今」「今」と急がねばないらない。先に延ばしでは絶対に聞けない。しかしそれは決して焦ることではない。焦るのは、何かを得たい、握りたいからである。譬えるなら、運動会の駆けっこで、コースを走らずに、賞品のところに手を出しながら走っていくようなものだ。真実に出会えば、すべてが剥がされるのであって、決してわが身に足していくことではない。

 だから、相手が欲しがっている時は、逆に突き放すことも大切だ。しかし、お勧め側でこのところは難しい。すぐに何かを与えたがる。変化を欲しているのは、求道者ではなく、伝え手なのかもしれない。だからこそ、伝え手が、先に感情的になってはいけない。大切な場面だからこそ、冷静に、相手をよく見極め、よく聞き、そして我が身も見えていなければならない。

 その点、誰かとのやりとり聞いている時は、冷静に客観視できるのだが、自分が話しだすと、自分の言葉に自分が酔っていくこともある。それで、思わぬ尊い言葉が発せられることもあるが、だいだいは機関車のみがモクモクと煙をあげて走っていくが、ホームにお客を置いてきぼりということが多いのだ。

 もちろん、冷静に見極めていくといっても、たまにはそんなこともお構いなしく、必死に、ガムシャラに伝えねばならいこともある。そこにマニュアルや方法はない。同時に、余計なことをやっているという内省も必要だ。私が手出しできることではなく、念仏者が集い、お念仏の声が響きあう、その躍動するお念仏の場、生きたご法の場を信頼して、そこに我が身を晒し、臨ませてもらうのである。法は自然と動きだすものだ。弥陀の回向の御名なのである。

 尊いご法縁だったが、きれいごとで終わっては勿体ない。

 

|

« 3月の真カ研の月例会 | トップページ | ジンギスカンの匂い »

法座と聞法」カテゴリの記事