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下輩段(5)~善知識の金言~

 さて、以上の下輩段を踏まえてのお味わいを追加します。
 いまの私達も、念仏を申していても、どこかで、自分の有り難いとか、勿体ないとかの心がこもった念仏に意味があり、逆に、心が動かない念仏には機械的で意味がないと見なしていませんか。結局、仏様のご苦労ではなく、自分の胸のよし、悪ししか見ていない。それが我が身、我が力を頼りにする自力の計らいであるのに、それが間違いでとは聴けないわけです。この辺りを、ぼく自身の体験上での味わいからひとこと。

「『南無阿弥陀仏』には自力も他力もないぞ」。

 自力一杯で、からだ中でもがき苦しむぼくに向って、善知識の一言が、恐ろしい自力の壁を突き破っていきました。そうだったのです。自分でこの念仏は自力だとか、自分で称えているという恐ろしいうぬぼれがあったのです。ほんとうは全部頂きものの他力なのに、どこかでほんとうの念仏かあるとか、意識して称えているのは自力の念仏だとか、自分自身が決めつけていたのです。それこそが恐ろしい自力の心だったとも知らずに。結局、地獄行きのまっ暗闇の自分の姿も分からず、そんなものを何劫も間見捨てず、働きかけて、南無阿弥陀仏となって飛び込んで来てくださっていたも分からず、遠い遠い、方向違いのところを探して回していました。ほんものの念仏がある。他力の念仏があると、間違った聞法をし続けてきたのです。

 結局、自力を自力で破ることはできなかった。そこを破ってくださっのたが、善知識の一言でした。そして、その声に順って、お念仏申させていただくこうと一歩を踏み出させていただいただけのことです。実は、それまでも狂ったようにお念仏していました。でもそれは、助かりたい、はっきりしたいばかりで、自分ばかり力んだ力んだ、自力一杯で称えていました。

 でも不思議にも、この一言が入ってきたのです。それで、「よし、称えるぞ」と大きく宣言して、「南無阿弥陀仏」と称えました。その瞬間、すべてがひっくりかえってしまったのです。

 でも、ひっくり返ったから意味があったのではありまんせ。それまで絶対に従わず(助けほしいとか、聞かせてほし、といっているのに)実は自分の中ですべて答えをつくり、自分の心境の変化ばかりを眺めて、結局は、仰せに逆らい続け、疑い続けて来ました。まさに、逆謗の死骸でしかなかった。絶対に従うことも、絶対に称えることも、絶対に救われることもないものが、地獄に行くのは嫌だ、助かるはずだと、本末轉倒していただけでした。
 それが、不思議なことに、昿劫の初事で、仰せに従わせてもらったのです。南無阿弥陀仏ですべてでした。それが阿弥陀様でした。それなのに「自力じゃ、他力じゃ」とはからい続けて、逆らい続け来たのでした。ぼくは、ただ墜ちていくだけ、地獄一定の身でしかなかった。そのことが、無明の身にも不思議にも明かにあったのです。すべて南無阿弥陀仏の働き、南無阿弥陀仏の響きです。

 

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