« 大山桜と豊後梅 | トップページ | ささやかな楽しみ »

春の日高支部法座

 コロナの心配をしていたが、予定どおり日高支部法座が開かれた。京都、大阪から6名が参加。Rさん一家に、日高支部の皆さん。会場は3カ所と、法事(法供養)のために1カ所の計4カ所のお家で法座があった。

 老苦、病苦、死苦の現実をまざまざと見せられる。いつものマイペースで張り切っておられる日高のおばちゃんたちだが、ひとり欠け、ふたり欠けだ。今回は、いつも法座会場の会所をしてくたさるSさんと、40年以上も月忌参りに寄っているTさん。日高法座でお会いしないことがないお二人が、そろって入院中で、寂しかった。

 それでも、古い同人で、今生の悩みに翻弄されて、後生が二の次になっておられた方が、自らの聞法不足を告白して、求めてこれらたのは尊かった。この世の中でも、次々と苦に攻められ、不安を募られておられる。しかし「それはそれとして」、「今、出ていく後生となったらどうなのか」。そう厳しくお取り次ぎさせてもらった。この仏法は、後生の一大事の解決のためにあるのだ。そこを外すと、今生も後生もゴチャゴチャになる。「だれのひとも、早く後生の一大事にこころをかけて、弥陀をたのめ」という蓮如上人のお言葉が尊い。

 高齢になられると、聞くことも難しくなる。ひとつ、なかなか聞きづらいのであろう。または理解するのが難しくなるのかもしれない。受け答えというより、ずぐにご自分の所に引き戻って、昔話や今生の悩みの披露に終始されたりもしたが、それにも根気強くつきあって、最後は、お念仏と懺悔で終わった。法座の翌日には、尊いメールが届いたが、まさに「弥陀の回向の御名」のお働きを感じた。南無阿弥陀仏

 

|

« 大山桜と豊後梅 | トップページ | ささやかな楽しみ »

法座と聞法」カテゴリの記事