華光誌79ー2号の発送
生駒から助っ人をお願いして、華光誌発送しました。
インド仏跡旅行の特集号です。華光誌に加えて、「永代経法要(法名軸掲載)のご案内」と、新刊(西光義敞先生の巻頭言の「閉目開目」と、「和讃通信講座のお知らせ」が同封されています。ご確認ください。
各地でご法座が中止になるなかで、ぜひ華光誌の味読ください。
もし、4月3日までに届かない場合は、ご面倒でもご一報ください。ただし、アメリカ、ブラジルの海外はもう少しかかります。
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生駒から助っ人をお願いして、華光誌発送しました。
インド仏跡旅行の特集号です。華光誌に加えて、「永代経法要(法名軸掲載)のご案内」と、新刊(西光義敞先生の巻頭言の「閉目開目」と、「和讃通信講座のお知らせ」が同封されています。ご確認ください。
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もし、4月3日までに届かない場合は、ご面倒でもご一報ください。ただし、アメリカ、ブラジルの海外はもう少しかかります。
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夜、長女とスカイプ(テレビ電話)をする。
今日が彼女の誕生日である。2000年のミレニアムだったので、20歳になったのだ。子供が成人する歳になったが、まだピンとこない。遠く離れているということもある。
地球の裏側でも、コロナの話題一色だ。日本と同じく(2月から新学期だが)学校の休校が続いているという。ぼくが話す前から、志村けんさんの話題、東京で雪が降ったこと、「京都も寒かったか」と尋ねられた。今回のコロナウィルスが、一瞬での世界中での蔓延(パンデミック)になったのも、如何に世界が小さくなったかである。グロバール化いわれているが、関心をもってアンテナを張ってさえいれば、情報にはボーダーがないのである。
彼女は、今日は熱があってしんどくて、終日、寝ているとのことだ。「コロナじないよね?」と、やっぱり尋ねていた。
さて、改めて、自分の二十歳のときの原点は? ちょっと考えた。
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先週の高山支部法座に続いて、今週の福岡での九州支部法座も中止になった。週末に法座がないことか2週連続になるなど、これまでになかったので、妙な感じだ。リズムが悪くと拍子抜けしてしまうが、忙しく法座が続くほうが張りがあるようだ。
特に、今回の九州支部法座は、続けて筑豊地方のお寺で初開催の「春の仏の子供大会」を計画していた。大人の法座と、子供の法座を連続開催する計画。少々、無理もあったのだが、それだけ期待していた。昨年の名古屋に続いて、今回は関門海峡を超えた初めての子供大会だった。遠方で、九州の方が中心かと思っていたら、予想以上に反響が大きかった。福井、京都、滋賀、大阪、和歌山、奈良,豊岡、そして広島と、夏の子供大会並の申込があったのた。加えて地元の参加者に、九州の幼児連れのママさん世代の参加予定があっただけに、たいへん残念である。
筑豊での子供大会中止に伴って、京都での1日だけのミニ子供大会を計画したら、それなりに申込みがあったか、コロナの自粛要請もあって、キャンセルが続出。法話担当者も単調を崩して欠席となったので、今回は、無理をせずにこちらも中止と決めた。
今回は無理だったが、夏には、同じ筑豊で2泊3日の日程で開催できないかと考えている。
この先のことはまだまだ不確定だが、今は緊張感と覚悟をもって、臨んでいきたい。
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◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋して具足せずは、正覚を取らじ。」(第四十一願・聞名具根の願)
意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前を聞いて、自力の修行を励み、ついに仏果を得まで、その間も六根具足して形がさわやかであらせよう。もしそうでなければ、私は決して仏にはなりません。」
◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、ひとたび意を発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて定意を失せじ。もししからずは、正覚を取らじ。」
(第四十二願・聞名得定の願)
意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前を聞いて、みなことごとく清浄解脱三昧(煩悩の束縛から自由になった清浄な精神統一の境地)をきわめるであろう。そして、その三昧にとどまり、またたく間に無量の諸仏を供養して、しかも静かな禅定の意は動じることはないでしょう。もしこのように静と動を同時に得ることがないのなら、私は決して仏にはなりません。」
四十八願も最後の一段です。これからの四十一~四十八願は、第四十六願を除いて、広く他の仏国土で自力修行中の菩薩方に誓われた願です。これまでが凡夫のための願いであったのが、これ以降、聖者のための願いを兼ねています。たとえ他国の菩薩方であっても、阿弥陀様のお名前を聞く(聞名)ことで、大きなご利益を頂けると誓う願が続きます。
だから、正直、凡夫のわれわれにはピンとこないです。聖者、しかも自力修行の菩薩のための願いだからです。しかし、それだけ、阿弥陀様の願いは広く、深いということですね。低下の泥凡夫の私から他の仏国で修行中の菩薩まで、すべてを救わずにおれないという本願なのです。だから第四十一願の表現は、障がい者に対する偏見や差別のようにうつるかもしれません。しかし、阿弥陀様の本願は、すべてのものを救いたいという無差別の大慈悲心であることを、重ねて述べておきます。南無阿弥陀仏
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●荼毘(だび)塚●
さて、『ブッダ最後の旅』~大パリニッバーナ経~によると、釈尊のお涅槃のあと、その遺骸は、クシーナガラのマッラ族によって荼毘にふされることなります。ところが、なかなか火がつきません。それは、お涅槃の知らせを聞いて、急ぎ向っていたマハーカーサパー(大迦葉尊者)を待っていたからです。彼の到着によって、荼毘にふされることになりました。その荼毘塚は、ラマバル塚とも呼ばれています。
その後、釈尊の舎利(シャリーラ、遺骨)を巡って争いが起こりますが、ハラモンの仲裁により、八分割されます。そして、八基のストゥパーが建立されたという伝説は、歴史的にも正しいと見られています。舎利の分配を受けたのは、次の通りです。
1)マガダ国のアジャータシャトル王 (阿闍世王)
2)ヴァイシャーリのリッチャヴィ族
3)カピラヴァストゥのシャーキャー族(釈迦族)
4)アッラカッパのブリ族
5)ラーマグラーマのコーリヤ族
6)ヴェータドゥヴィーパのバラモン
7)パーヴァーのマッラ族
8)クシーナガラのマッラ族
このうち、2)は、昨日訪れたヴァイシャーリで仏舎利が出土し、また、4)の釈迦族の故郷でも仏舎利が出土しています。この八分骨を、さらにアショカ王が八万四千に分骨したといわれていますが、実際の真偽はわかりません。
そして、今回は、メンバーの中のお一人が、一昨年亡くなったお母様の遺骨のほんの一部を荼毘塚の脇に埋められました。もちろん、承認をいただき現地の方もお手伝いによるものです。
さて、早朝からの参拝をすませて、今度はお誕生の地、ルンビニーへと向います。今日も、また重要な仏跡地が2ケ所あるハードな1日です。
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●涅 槃(ねはん)●
「茸の食を召したまい 重き病いを得たまいて
腹くだりつつ世尊はいう いざクシナーラーへ われは行かんと」
クリナガラのサーラの林にいたった時、釈尊はすべての力がつきてしまわれます。
「アーナンダよ、わたしはつかれた。横になりたい。あのサーラ(沙羅)の双樹のあいだに床をひいてもらいたい」
床をひいたアーナンダは、いよいよ釈尊の死が近いことを知って、その場を離れて、泣いていると、釈尊が呼んでおられるという。そばへ行くと、
「アーナンダよ、悲しむな。泣いてはならぬ。わたしはいつも教えていたではないか。すべて愛する者とは、ついに別れねばならない。生じた者はすべて、滅する時をもたねばならない。アーナンダよ、なんじは、ながい間にわたって、このわたしによく仕えてくれた。それは立派であった。このうえは、さらに精進して、すみやかに所期の境地をうるがよい。アーナンダよ、あるいは、なんじらのうちに、かく思うものがあるかも知れない。-われらの師のことばは終わった。われらの師はもはやない-と。だが、アーナンダよ、そう思うのは間違いである。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた教法と戒律とは、わが亡きのちに、なんじらの師として存するであろう」
やがて、釈尊は同行の比丘たちをすべて集めて、
「比丘たちよ、なんじらのうち、なお、仏のことや、法のことや、僧伽のことやあるいは実践のことなどについて、なんぞ疑いもしくは、惑いをのこしている者があるならば、いま問うがよろしい。後になって-わたしはあの時、世尊の面前にありながら、問うことを得なかった-との悔いをあらしめてはならない」
アーナンダが進み出て、もはや一人として疑いを残している比丘はいないと告げます。
「では比丘たちよ、わたしは汝らに告げよう。-この世のことはすべて壊法である。放逸なることなくして、精進するがよい。-これが私の最後のことばである。」
そして静かに目をとじられた。静かな静かなご入滅でした。
●涅槃堂と涅槃像●
その中には、大きな涅槃像が横たわっておられます。5世紀の初めのもので、ハリバラという僧の銘が入っています。1876年まで河岸の砂の中に眠っておられたのだそうで、発見された時は、ほとんど粉々といった状態だったのを復元したものです。首から下は、黄色の衣をつけておられます。御顔には、タイの仏教徒が寄進した金箔がはられ、私たちには一寸異様な感じを与えます。
涅槃堂は、1927年にビルマの仏教徒によって建てられたもの。
前庭一ぱいにサーラの林が、当時の様子そのままに立ちつくしています。朝日を受けて、涅槃道も黄色に染まっています。
この地で、ぼくも法話をさせてもらいました。今、私達のところに届いている仏教は、この釈尊のお涅槃から、本当の意味で始まったと言っていいわけです。私たちも、末世ながら如来の唯弟なのです。南無阿弥陀仏
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寒村のクシナガルにも、立派なホテルができてゆっくり休めるようになりました。有り難いことです。
今日も、早起きをして日の出と共に釈尊の四大聖地の一つ、涅槃の地、クシナガラを参拝しました。
ヴァイシャリーからお涅槃に入られる前の釈尊の足どりです。
●チュンダの供養●
ヴァイシャリーから北上される釈尊の足どりは、経典によって地名の順序が逆になったり現在の地名と一致させるのは非常に困難です。
はっきり分かるのは、クシナガラの近くのパーヴァに来られた時に、鍛冶工の子、チュンダに招かれ供養を受けられたことです。
パーヴァは、昨日、バスで「このあたりです」と通過したたげです。残念ながら今回は、お参りできませんでしたが、前回はこの地で「チュンダの供養塔」にお参りしました。その時の村の樣子と供養塔の姿を少し紹介しておきましょう。(11年前の写真)
チャンダの供養は、茸料理とも、豚肉料理ともいわれますが、いずれにせよ、心からの供養を受けたことで、釈尊は、命を終えられる重病になられました。しかし、釈尊は、成道の前のスジャーターの乳粥と、涅槃に入る最後のこの供養の二つこそが、どんな食事よりもはるかに大きな果報と功徳があると語られています。
●最後の説法者●
瀕死の釈尊でしたが、最後にスバダラという修行者(外道)が訪ねてきます。釈尊 最後の力を振り絞って、ご説法をされたと伝えられています。涅槃堂からほど近く、荼毘地に向かって進む道に、小さな精舎が最後の説法地跡だと伝えられています。今回は、そのお堂の中でもお参りさせてもらいました。南無阿弥陀仏。
重体のなか、釈尊はクシナガラの沙羅双樹の下で静かに横たわられました。
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さて、以上の下輩段を踏まえてのお味わいを追加します。
いまの私達も、念仏を申していても、どこかで、自分の有り難いとか、勿体ないとかの心がこもった念仏に意味があり、逆に、心が動かない念仏には機械的で意味がないと見なしていませんか。結局、仏様のご苦労ではなく、自分の胸のよし、悪ししか見ていない。それが我が身、我が力を頼りにする自力の計らいであるのに、それが間違いでとは聴けないわけです。この辺りを、ぼく自身の体験上での味わいからひとこと。
「『南無阿弥陀仏』には自力も他力もないぞ」。
自力一杯で、からだ中でもがき苦しむぼくに向って、善知識の一言が、恐ろしい自力の壁を突き破っていきました。そうだったのです。自分でこの念仏は自力だとか、自分で称えているという恐ろしいうぬぼれがあったのです。ほんとうは全部頂きものの他力なのに、どこかでほんとうの念仏かあるとか、意識して称えているのは自力の念仏だとか、自分自身が決めつけていたのです。それこそが恐ろしい自力の心だったとも知らずに。結局、地獄行きのまっ暗闇の自分の姿も分からず、そんなものを何劫も間見捨てず、働きかけて、南無阿弥陀仏となって飛び込んで来てくださっていたも分からず、遠い遠い、方向違いのところを探して回していました。ほんものの念仏がある。他力の念仏があると、間違った聞法をし続けてきたのです。
結局、自力を自力で破ることはできなかった。そこを破ってくださっのたが、善知識の一言でした。そして、その声に順って、お念仏申させていただくこうと一歩を踏み出させていただいただけのことです。実は、それまでも狂ったようにお念仏していました。でもそれは、助かりたい、はっきりしたいばかりで、自分ばかり力んだ力んだ、自力一杯で称えていました。
でも不思議にも、この一言が入ってきたのです。それで、「よし、称えるぞ」と大きく宣言して、「南無阿弥陀仏」と称えました。その瞬間、すべてがひっくりかえってしまったのです。
でも、ひっくり返ったから意味があったのではありまんせ。それまで絶対に従わず(助けほしいとか、聞かせてほし、といっているのに)実は自分の中ですべて答えをつくり、自分の心境の変化ばかりを眺めて、結局は、仰せに逆らい続け、疑い続けて来ました。まさに、逆謗の死骸でしかなかった。絶対に従うことも、絶対に称えることも、絶対に救われることもないものが、地獄に行くのは嫌だ、助かるはずだと、本末轉倒していただけでした。
それが、不思議なことに、昿劫の初事で、仰せに従わせてもらったのです。南無阿弥陀仏ですべてでした。それが阿弥陀様でした。それなのに「自力じゃ、他力じゃ」とはからい続けて、逆らい続け来たのでした。ぼくは、ただ墜ちていくだけ、地獄一定の身でしかなかった。そのことが、無明の身にも不思議にも明かにあったのです。すべて南無阿弥陀仏の働き、南無阿弥陀仏の響きです。
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大阪支部の翌日からの高山支部法座の予定だったが、新型コロナウィルスの影響で中止になる。高山や参加される富山は、いまだ感染者0(ゼロ)、しかも宿泊はないのに、意外な中止の判断だった。決定の前に意見交換をしてほしかった。たぶん中止は無難な賢い対応だろうが、ただ批判を恐れて、世間へ右へ倣えの安易な判断に流されてはいないか。法座のもつ意味、法座を開く意味を、あらためてよくよく考え、話し合った結果の、苦汁の選択が「中止」ならば致し方はない。結局、主催者としての覚悟や緊張感の差が、今後に法座活動に影響を残すのではないかと思う。う~んと悩めばいいのだ。
というわけで、空いた日程で平日に予定していたものを、日曜日にまとめた。
午前中は、仏大の講義で知り合った方との、一般のカウンセリング。
午後から、Mさんの三五日を兼ねた初月忌へ。2月22日から、ちょうど1ケ月過ぎたのだ。その機会に、家族の方ともお話できてよかった。改めていろいろと感慨も深かった。四十九日の打ち合わせもおこなう。それにしても、この1カ月、コロナ禍で、例年と違う月日を送っているなーと改めて実感。
夕方からは、町内会の会合が、華光会館で。会場提供をしているのだ。年度末は、来年度の役員の選挙開票があった。数日前に、露地の長屋で、孤独死した方の話題が出る。ぼくが、町内会長をしていた時に、組長(班長)だったので、何度も訪問している方だ。連れ合いをなくされてお一人暮らし。子供さんは、別に暮らしておられる。でも、まだ隣近所との付き合いがあると思っていたのに、死亡推定から日時は、3~4日前というのである。ただし葬儀は、コロナ影響で内々の家族葬とのこと。他にも高齢になられたり、若手が役職を嫌だって町内会を離れたりで、会長の時には60軒ほどあった町内会員が、いまでは30数軒と半減しているのに驚いた。都会では、地域社会のつながりが半減しているということか。コロナの影響で、御旅所がある伏見稲荷の稲荷祭りが中止になったのもビックリ。
法座は中止となったが、いろいろあって充実の一日。
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大阪支部法座から戻って、今夜はジンギスカンのパーティー。連れ合いが、北海道からジンギスカン鍋を担いできた。その北海道から、おいしいタレつき肉が届く。ジンギスカンは、臭みがあって好き嫌いがあるが、このお肉はおいしい。
学生世代を中心に仏青の4名が集う。大学院を修了して、就職される方の送別会を兼ねている。若い人達には、若い人達で楽しそうだ。
ただモクモクと煙がでてきて、強い匂いがしている。翌朝、出勤された方が、1階・2階の窓を開けている。外からくると、より匂いが分かっただろう。ジンギスカンをした部屋は、その後4日間、換気扇を回しぱなしだった。こんなことでも、強い匂いが染みつくのだ。
さてこの昿劫からの罪業の身。どんな強烈な悪臭が染みついているのだろう。困った事に、自分の匂いは自分では分からない。
菩薩の三阿僧祇百大劫の修行では、最後の一阿僧祇をかけて、煩悩の臭い余匂を消すだという。もうすでに煩悩を脱していても、永年の臭い匂いが染みついているのである。そして、最後の百大劫をかけて、この身を荘厳していくというのである。
ところが、他力の教えは違う。この泥凡夫の身が、南無阿弥陀仏ひとつで清浄の仏の身になるという。南無阿弥陀仏ひとつで解決するというのであるから、驚く以外はない。
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春のお彼岸。大阪支部法座だが、東大阪との県境にある奈良県生駒市の家庭法座。大阪よりも京都からのお参りの方も多く、普段よりも参加者は大目。久しぶりの方、うれしい参加の方がある。座談会では、新しい方(2回目のご縁)が中心に。真面目に、正面から仏法を受け取っておられる。その姿は尊い。「聞き抜こう」という姿勢が伝わる。ここで出会ったご縁の尊さもよく分かる。
ある方の強い促して答えて、「聞かせてください」と頭をさげられた。
その働きも、その姿も尊かった。しかし、まだまだ力み一杯だ。わが身の実相はお留守だし、当然、法のお働きもお留守。
ぼくは常々よく言っていることだが、仏法は、「今」「今」と急がねばないらない。先に延ばしでは絶対に聞けない。しかしそれは決して焦ることではない。焦るのは、何かを得たい、握りたいからである。譬えるなら、運動会の駆けっこで、コースを走らずに、賞品のところに手を出しながら走っていくようなものだ。真実に出会えば、すべてが剥がされるのであって、決してわが身に足していくことではない。
だから、相手が欲しがっている時は、逆に突き放すことも大切だ。しかし、お勧め側でこのところは難しい。すぐに何かを与えたがる。変化を欲しているのは、求道者ではなく、伝え手なのかもしれない。だからこそ、伝え手が、先に感情的になってはいけない。大切な場面だからこそ、冷静に、相手をよく見極め、よく聞き、そして我が身も見えていなければならない。
その点、誰かとのやりとり聞いている時は、冷静に客観視できるのだが、自分が話しだすと、自分の言葉に自分が酔っていくこともある。それで、思わぬ尊い言葉が発せられることもあるが、だいだいは機関車のみがモクモクと煙をあげて走っていくが、ホームにお客を置いてきぼりということが多いのだ。
もちろん、冷静に見極めていくといっても、たまにはそんなこともお構いなしく、必死に、ガムシャラに伝えねばならいこともある。そこにマニュアルや方法はない。同時に、余計なことをやっているという内省も必要だ。私が手出しできることではなく、念仏者が集い、お念仏の声が響きあう、その躍動するお念仏の場、生きたご法の場を信頼して、そこに我が身を晒し、臨ませてもらうのである。法は自然と動きだすものだ。弥陀の回向の御名なのである。
尊いご法縁だったが、きれいごとで終わっては勿体ない。
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真宗カウンセリング研究会のパンフレットが完成。発送作業を行う。
お手伝いの方は、この半年間に入会された新人2名と、今日が初参加の方2名という、フレシュな皆さん。正直、今年の初めにまったく想像していなかった方4名である。新人2名は、華光の集りで、1度だけお会いしただけの方。それもまた不思議。
月例会も、そのメンバーに、もう一人と、N先生が加わってくださる。皆さん、3年以内のメンバーで、N先生も、3年目に仏教大のビハーラ研究会でお声をかけて以来のご縁。新鮮なメンバーだ。
12月に続いての担当はSさん。自ら担当を名乗り、新しい方にその喜び語ってお誘いしてくださる。レジュメも、すごい内容。本文をさらに補強して、親鸞聖人のご生涯、釈尊から大乗仏教の興隆にいたる真精神を発揮と総花的な仏教の概観を、熱情をこめてまとめてくださっている。結局、話題も多彩で(これも面白かったが盛り沢山すぎて省略する)、結局、予定の半分も進まず、来月の総会の後で発表を継続してもらうことになった。
最後のチェックアウト。 トリに話された85歳になられたお医者様(元京大病院で老年科を立ちあげた大学教授)でもあるN先生の、コロナウィルスの対する見解に心惹かれた。ぼくが聴いた要旨です。
この1ケ月、先生自身も、公演や会合が中止が続いている。反対しても、大半が右へ倣えで、しかも会場等で、役所(公共)とのつながりも強く、結局、責任をとるのを恐れた、ことなかれ主義で、ほんとうに深く問題を考えてはいない。コロナは高齢者、持病をもっているのもには危険だし、まだ特効薬もワクチンもない。医者としても医療崩壊することを恐れている。しかしながら、結局、それは医者が、単なる薬屋になっているのにすぎない。薬が病を治すではない。あくまでも患者さんの生命力(体力、気力、免疫力、治癒力)なのであるが、そのことを忘れて数値ばかり観ている。もう一度、改めて未知なる病が起こった時の、医療者の姿勢が問われている。
自分も、85歳となり、持病もある。若者に比べてもコロナになれば命の危険も増している。それでも、緊張感と、責任を持って、ここに臨んでいる。結局、今回のことは、ひとりひとりの生き方が問われているのであると。
何か勇気づけれた気がした。対症療法も大事だし、安心・安全も大切なことだ。しかし、今回のことは、私達のこれまでの生き方が問われている。ほんとうに大切なものを見直す、いい機会なるかもしれない。
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さて、いよいよ下品下生の大罪人です。
「五逆罪」(五種の重罪で、無間地獄へ墜ちる業因。1殺父、2殺母、3殺阿羅漢、4出仏身血、5破和合僧)と、「十悪」(1殺生、2偸盗、3邪淫=身業・4妄語、5両舌 6悪口、7綺語=口業・8貪欲、9愼恚、10愚痴=意業)の重罪を造るものです。
文言にはありませんが、上生・中生がそうであるのですから、下生の者に、自らの罪について慚愧することはもっとうないでしょう。善知識との出遇いなければ救われていく道がありません。その時の臨終のありさまは、書き下し文で味わいました。
「かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、
善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。(他力念仏の勧め)
この人、苦に逼(せ)められて念仏するに遑(いとま)あらず。 (功徳を念じる自力念仏)
善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。
かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。(転教口称の念仏)」
この最後の段を善導様は、
「六には、善友(善知識)苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす」(『散善義』)
と頂かれました。最後の「転教口称の念仏」というのが、有り難いですね。
善知識の最初の念仏も、ほんとうは他力念仏をお勧めになられたのではないでしょうか。しかしながら、受け手側は違います。功徳を念じたり、観念の自力念仏をしようとするわけです。しかしながら、「苦に逼(せ)められて念仏するに遑(いとま)あらず」とあるように、苦しみから心を静め、念い続けるような自力の念仏など出来る状態ではなかった。お手上げです。そこで、最終手段。善知識は、「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむる」。すなわち、転教口称のお念仏を勧めるわけです。きっと、一文字一文字「南」「無」「阿」「弥」「陀」「仏」と言葉でお勧めを、それに順ってこの口で称えたわけです。そこは「称えよ」という仰せに順った姿でした。
最後に親鸞様のお言葉です。
「『汝若不能念』〈なんぢもし念ずるあたはずはし〉(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよ、とすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。『応称無量寿仏』〈まさに無量寿仏を称すべし〉(観経)と、のべたまへるはこのこころなり。『応称』は、となふべしとなり。」『唯信鈔文意』)
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京都、大阪からの同乗者と一緒に、日高支部法座に向う。車は、少なめという感じがした。
途中、お昼ご飯を食べに、少し手前のICで降りた。以前は、このお店の前を必ず通ったが、日高町まで専用道路か伸びて、今は通らなくなったのだ。同乗者が一緒だったので、囲炉裏や掘ごたつの中で、よもぎうどんを食べることにした。昨日までの春の陽気から、冷たい小雨になったが、雪にはならない。今シーズンは、豪雪地帯にもう、雪はほとんどなかったが、今日は肌寒い。なんともやさしい味の、あたたかいうどんを食べて温まった。
帰路は、道の駅に寄るのが定番。連れ合いは、地元の農家の新鮮な野菜をお目当てにしている。今日は、三大ネギのひとつという、岩津ネギが大々的に売られていた。確かに、粘りけが強く、しかも甘かった。蕗の薹や菜の花などの春の山菜も手に入った。こちらは、天ぷらやおひたしで食する。少し苦みもあるが、自然いっぱいの味だった。ちょうど但馬の銘酒である香住鶴の呑み比べセットを頂いた。
春の気配を感じながらの晩酌。ささやかな楽しみである。
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コロナの心配をしていたが、予定どおり日高支部法座が開かれた。京都、大阪から6名が参加。Rさん一家に、日高支部の皆さん。会場は3カ所と、法事(法供養)のために1カ所の計4カ所のお家で法座があった。
老苦、病苦、死苦の現実をまざまざと見せられる。いつものマイペースで張り切っておられる日高のおばちゃんたちだが、ひとり欠け、ふたり欠けだ。今回は、いつも法座会場の会所をしてくたさるSさんと、40年以上も月忌参りに寄っているTさん。日高法座でお会いしないことがないお二人が、そろって入院中で、寂しかった。
それでも、古い同人で、今生の悩みに翻弄されて、後生が二の次になっておられた方が、自らの聞法不足を告白して、求めてこれらたのは尊かった。この世の中でも、次々と苦に攻められ、不安を募られておられる。しかし「それはそれとして」、「今、出ていく後生となったらどうなのか」。そう厳しくお取り次ぎさせてもらった。この仏法は、後生の一大事の解決のためにあるのだ。そこを外すと、今生も後生もゴチャゴチャになる。「だれのひとも、早く後生の一大事にこころをかけて、弥陀をたのめ」という蓮如上人のお言葉が尊い。
高齢になられると、聞くことも難しくなる。ひとつ、なかなか聞きづらいのであろう。または理解するのが難しくなるのかもしれない。受け答えというより、ずぐにご自分の所に引き戻って、昔話や今生の悩みの披露に終始されたりもしたが、それにも根気強くつきあって、最後は、お念仏と懺悔で終わった。法座の翌日には、尊いメールが届いたが、まさに「弥陀の回向の御名」のお働きを感じた。南無阿弥陀仏
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日高法座の前に散髪に行く。梅小路公園を通るので、少し散歩する。
今は、コロナの影響で、水族館も鉄道博物館も休館している。閑散としていると思ったが、びっりくした。芝生の公園は、子供たちや若者で一杯だ。今日は、平日だが、休校とさまざまな施設の閉鎖で、行き場のない子供たちが走り回っている。しかも、今日は天気もよく、日差しも温かだ。休校問題は、いろいろと物議を醸し、また休校中の外出もいろいろと批判もあったが、外で運動はある程度、推奨もされている。
今年は異常な暖冬たったので、桜の開花もかなり早い。大山桜という種類。例年は、4月上、中旬なのに、もうすでに満開近く開花していた。
豊後梅のまだ咲いている。
子供たちの歓声と、梅と桜のピンクの共演。華やかな空気が包まれれる。しかしそれも一瞬だけ。世間は、まだまだコロナ禍の不安が増すばかり。まったく気分は冴えないな~。
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2月下旬は、葬儀に、講習会、そしてコロナの対応。予想外のこともあってたいへんだった。3月1日の講習会が終わったら、すぐに華光誌の作業である。印刷所の渡し日が、13日と決まっているのだ。とにかく頑張るしかない。その間に、支部法座や聖典講座をこなし、並行しての華光誌編集。
とにかく集中して頑張った。事務所のIさんも、頑張ってくれた。ありがとう。
誌上講話は、正信偈講讃で、信心の五徳にはいる。内容はともかく座談会のところで、かなり微妙な話が続く。獲信の時の覚、不覚の問題だ。講義時の雰囲気や口頭でのニュアンスはよく分かるのだが、それを文章にするとなると、慎重にならざるえない。まあまあ無難な、それでも言うべきことはかなりつっこんだ表現にしたつもりだ。
加えて、今号はインド旅行の感想記が中心である。皆さんの興奮や喜びが伝わってくる。濃厚な旅だっただけに、内容も濃厚。加えて、どの方も長い長い。そのまま載せるのは到底不可だ。霊鷲山やボイントを絞ってくださった方はよいが、10日間を総花的に記載された方も数名あって、それだけ合せても華光誌1冊分にもなる。こちらでボイントを絞ったり、短くしたが、なかなかこれが難しい。どこにも思いが深いからだ。加えて、少し写真も掲載した。
21名の参加者で、19名(1名は印刷渡し直前で不可で18名)もの方が、感想をよせてくださっただけでも、感銘の深さが窺える。それだけいい仲間との感銘深い旅だった。
とにかく無事、印刷所に渡った。発送は3月31日の予定なので、どうぞお楽しみに。
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次は、下品中生の悪人です。
「破戒」(五戒、八斎戒は在家者、具足戒は出家者の戒を破る)と、「盗僧祇物」(サンガの財産を私物化したり、盗む)と、そして、「不浄説法」(名聞(名声や名誉)や利養(利益、生活)を目的に説法する。もしくは、悟ってもいないのに体験したかのように説法する)というのです。
お寺のものを私のものとして使い、名誉や生活のために説法をする。または信心を得たふりをして人に説く。寺院に暮らすものには、まったく耳の痛いことばかりがならびます。つまり、下品中生は、僧侶(出家者)罪というけわけです。
しかも、下品上生と同じく、自らの罪について慚愧することがない、自覚することもない愚人ということになります。それが、臨終の時、地獄の猛火が迫ってくるというのだすがら、これはもうたいへんです。
やはり、人に遇わねばなりません。臨終で、善き知識のご説法にあいます。
では、何が説かれ、何を聞くのか。
「十力威徳」とは、如来が備えている十種の力のすぐれたお徳。
「光明神力」とは、阿弥陀如来の光明の不思議な救済力。
そして、「戒・定・慧・解脱・解脱知見」とは、最高の悟りの境地に至ったものが具備する五つの功徳です。
以上の「十力威徳」「光明神力」「五分法身」を、これを、善導様は「弥陀の名号」だと教えてくださいました。第十七願と成就文との関係でも明かです。
十七願文「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずば…」
十七願成就文聞「十方恒沙の諸仏如来、みなもとに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したもう」
善導様「弥陀の名号を聞きて、すなはち罪を除くこと多劫なる」『散善義』
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では、もう少しポイントを絞って下輩段を観ていきましょう。
まず下品上生です。軽罪で、種々の悪を造る愚人だが、仏法は謗らない。しかしながら、自らは、罪について慚愧することがないものです。だからこそ、人に遇わねばばならないです。臨終で、善き知識の導きを受けることで、自らの罪を知ることができるのでしょう。
この時の善知識のお勧めが二つあります。「聞経」と「称名」です。
聞経とは、善知識の大乗経典の経題を褒め讃えるのを聞くのです。経題には、その経典のいわれが顕されているので、経典を読誦したのと同じ功徳があるわけです。しかしながら、聞経の功徳は、「ただ千劫の悪業を除く」だけで、浄土往生の功徳になりえません。
そこで、善知識は、「合掌し『南無阿弥陀仏』と称えよ」と教えます。愚人が、それに従って称名をします。その功徳によって、五十億劫もの間の生死流転の重罪が除かれ、浄土往生の身となるわけですが、その際、臨終来迎の化仏方は、阿弥陀仏の名前を称えたことを褒め称えます。
それで、この二つの行の優劣を、善導大師を受けた法然聖人が、『選択集』の「化讃章」と「八選択」で顕されています。
つまり、化仏は、聞経よりも称名をする者を讃嘆されて、すぐれた本願念仏を選ばれているというのです。
「弥陀の化仏来迎して、聞経の善を讃歎せずして、ただ念仏の行を讃歎したまふ文」(『選択集』)
「次に『観経』のなかにまた三の選択あり。一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。(略)二に選択化讃といふは、下品上生の人、聞経・称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故 諸罪消滅 我来迎汝」( なんぢ仏名を称するがゆえに、もろもろの罪消滅す。われ来たりてなんぢを迎う)(観経)とのたまふ。ゆゑに選択化讃といふ。(『選択集』)
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ヴァッジ国の首都、バイシャリを後にされた釈尊は、ヴァッジ国の村々に立ち寄ってご説法されます。そして国境の街、ケサリアに入られました。
玄奘三蔵様によると、釈尊を慕うリッチャヴィ族の人々が、釈尊の容態が悪いことを聞き知って、この国境の街まで見送りにきたといわれています。別れを惜しみ、なかなか立ち去り難い人々を前に、釈尊は神通力で大河を造って分かち、仏鉢を記念に残したというのです。その後、この地にストゥーパが建立され、アシャーカ王のマウリア朝からグブタ朝にかけて増築を繰り返し、46メートルの世界最大級のものではなかったかと推測されています。
しかし、その後、イスラム勢力により破壊され土に埋没していました。それが、20世紀になってから発掘され、今世紀(2001年)になってからやっと公開されていた遺跡です。だから、ぼくも今回初めて訪れることができました。
現在のケサリア仏塔は、高さ33メートル、直径105メートル。六層からなり、最上層には一部損傷しているものの円筒方のストゥーパが残されています。また一部、仏像が残れていますが、イスラム教徒に破壊されたのか、頭部が切り取られた痛々しいものでした。
そして、いまもまだ発掘途中で、裏手に回ると、まだ土で覆われた丘のようになっています。将来の復元された姿が楽しみです。
ケサリア仏塔にお参りした後は、涅槃の地、クシナガラへ。バスに揺られる旅はまだまだ続いて、途中、橋の上でのトラクター事故の影響で、大渋滞に。ガイドのバンシイーさんが交通整理をして、1時間ほどの渋滞で終えることができました。
渋滞中の路上で夕日が沈んでしまって、日の出のように地平線に落ちる姿は見られなず、残念。
それにしても、今日も日の出前か、夜遅くまでの長い長いバスの旅で、クシナガラは遅い到着となりました。
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では、バイシャリの遺跡を紹介しておこう。
●仏舎利とストゥーパ●
紀元前2世紀から紀元後5世紀のグプタ朝時代の建築物の遺構が発掘され,修復中だ。
この遺跡を有名にしたのは、宮殿後から、1㎞たらず先で、釈尊が荼毘にふされた後、その遺骨を八分割されたものの一つといわれる舎利容器が発掘されたのだ。銘文は刻まれていないが、パトナ博物館に収納されている。舎利容器が出土したストゥーパ跡に参詣。
ついで、有名なアショーカ王柱へ。14メートルを超すアショーカ王柱が完全な形で残っている。サルナートやルンビニーのアショーカ王柱も有名だが、いずれにも頭部が折れているが、ここは、柱頭の一匹のライオン像までき完全な形できれいに残っている、きわめて貴重なものだ。ただしアショーカ王の詔勅文は刻まれていない。
その王柱の横に、高さ4、6メートル、直径20メートルのストゥパーがある。アーナンダ・ストゥパーと称されている。
またアショーカ王柱の南には、猿猴池と名付けられる沐浴池。かって釈尊が、この地に逗留中、猿が釈尊のために池を堀り、湧き水で満たしたという伝説によっています。また釈尊と修行者が鉢を並べて置いていたところ、猿は、釈尊の鉢に、マンゴーの蜜を満たして奉じたそうで、それが猿王奉蜜の地といわれる所以。人間だけでなく、広く畜生をも教化された釈尊の偉大さを表している。
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今日も日の出前からの出発となる。八大仏跡の一つ、バイシャリーに向う。王舍城からバイシャリー、ケサナリー、そしてクシナガラに向うルートは、まさに『ブッダ最後の旅』の行程である。途中、朝日が美しい。
最晩年の釈尊は、王舍城の霊鷲山での最後のご説法(バイシャリーの人々のありさまについて)の後、ナーランダをへて、パトナでガンジス河を渡られる。釈尊は渡し船を使われたが、ぼくたちはガンジス河に7㎞にも及ぶ大橋を渡って、バイシャリーに向った。
早朝からバスに揺られて、遅い昼食のためにバイシャリーのホテルへ。長旅で、誰が音頭をとるわけでもなく自然とラジオ体操が始まった珍しそうにバスの運転手が眺め、その姿を撮影していた。これでもまだ行程の半分以下だ。
ここも大切な仏跡だが、ほくは参拝は初めて。道中の写真と一緒にちょっと紹介しておこう。マンゴ―園の話があるが、写真がにあるようにバナナの栽培が盛ん。
バイシャリー(ヴァイシャーリー)は、当時の十六大国の有力国の一つ、ヴァッジ国のリッチャヴィ族が支配する首都で、商業都市として、隣のマガタ国(首都・ラジギール・王舍城)と競い合い、争っていた。釈尊は、マガダ国の王舎城(竹林精舎)から、コーサラ国の舎衛城(祇園精舎)や釈迦族の故郷、カピラ城に向かわれる時、この地を必ず訪れて、五度に渡って雨安居も過ごしておられる。
この地には、遊女アンババーリーのマンゴー園の寄進の逸話や、猿王が蜜を奉じて布施をした伝説(猿王奉蜜)が残っている。
アンババーリーのマンゴー園は、いわれであるが、商業都市ヴァイシャーリーは、裕福な商人や職人、また各地からの交易商人で賑わい、栄えていた。冨が盛んなところは快楽も盛んで、富裕層をターゲットにした高級遊女がいた。中でも美貌にすぐれたアンバパーリーは大金を稼ぎ、豪邸に住む、マンゴー園を所有。その彼女が、釈尊の説法を聴聞し感激し、自らのマンゴー園を寄進し、教団の人々を供養することになった。釈尊の来訪を知った貴族たちも、釈尊を供養しようと、彼女の所有するマンゴー園を大金で買収しようするが、彼女はその申し入れを断る。釈尊も、遊女だから、女性だからと差別されず、先客だったアンバパーリーの申し出を喜んで受けられた。仏教の平等の精神を見ることができる。彼女は、釈尊から三帰、五戒を受けて、優婆夷-女性在家信者となって、聴聞に勤しんだという。
何よりも、ブッダ最期の旅では、ヴァイシャーリーの人々が「滅びることのない七つの法」を守っていると説かれ、この地の郊外で、有名な「師に握拳なし」と「自灯明・法灯明」の教えが説かれるのである。
また釈尊の涅槃後、八分骨された遺骨の一つがバイシャリーーのリッチャヴィ族にも分配され、ストゥパーが建立されたと言い伝えられてるか、それが発掘されているのは、たいへん貴重である。
他、大乗仏教の経典で、空の真理が説かれた『維摩経』が説かれた地でせある。主人公である維摩居士(維摩吉・ヴィラマキールティ)と文殊菩薩の問答が有名だが、玄奘三蔵は、維摩居士の住居跡を尋ねたと記録されている。
また、第2回の仏典結集の地で、教団の根本分裂(大衆部と上座部)するきっかけとなるなど、たいへん重要な仏教遺跡なある。
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『観経』の正宗分(本論)も散善三観(三福九品)に入っている。精神統一が出来ない者への廃悪修善(悪を廃し善を修める)の行である。これは『大経』の三輩(上・中・下)段に対応し、さらにそれぞれを「上生・中生・下生」と、合計九品に分類する。その中で、今回は、下輩段(下品上生・中生・下生)。つまりは、悪人の救いである。小説も映画も、実生活もそうだが、善人よりも悪人の方が、絶対に多彩で面白い。善人にしても、バカがつく正直ものには面白みはあるが、普通は常識的な一般論を振り回すのだけで終わる。それはともかく、それそれの概観をまとめておこう。
◎まずは下品上生。十悪軽罪の悪凡夫で、仏法は謗らないが、慚愧がない。
その往生の行は、臨終に善知識に遇って「聞経」し、次いで南無阿弥陀仏の「称名」をして、五十億劫の滅罪をする。
来迎は、化仏、観音・勢至二菩薩の化身がお出でになり、
往生の所要時間は、即で、そして、蓮華の開く時間は、七七日(四十九日)
往生後の得益は、観音、勢至のご説法にあい、聞法後、信解し、大菩提心を発し、十小劫の経て、初地の位につく。
◎ついで、下品中生である。破戒次罪の悪凡夫で、施物を盗み、不浄説法。慚愧なし。臨終では地獄猛火が迫る。
しかし、往生の行として、臨終に善知識に遇い、名号のいわれを聴聞して、八十億劫の滅罪。
来迎は、化仏、化菩薩が迎え、往生の所要時間は一念。
蓮華の開く時間は、六劫だが、往生後の得益は、観音、勢至の声で聞法、大菩提心を発する。
◎そして、下品下生は、五逆・十悪の重罪の悪凡夫である。
往生の行は、臨終に善知識に遇って聴聞。観念念仏を勧めも、苦で不可。そこで、転教口称、「南無阿弥陀仏」と十声の称名念仏し、八十億劫の滅罪。
来迎は、日輪の如き金色の蓮華が迎えるが、蓮華の開く時間は、十二大劫もかかる。
往生後の得益は、観音、勢至の滅罪の法を聴聞し、歓喜し、大菩提心を発する。
◎下輩段の共通点は、悪をなす愚人であること。そして何よりも、自分のなし罪の自覚がない。慚愧がないのである。そして悪道に堕する者である。それが、臨終に善知識に出遇いうことによて、聞法や称名をとして、滅罪をするというのである。臨終来迎の後、蓮華の中に往生するが、その後、浄土で聞法し、菩提心を発する。
下輩段の相違点だが、下輩の者は「世福」という仏道以前の世間の倫理的な善すらなしえない悪凡夫の救いが説かれている。それでも罪関して、軽罪、次罪、重罪の差別があり、当然、往生に関しても差別もあるのだ。罪に関してみると、以下のようになる。
下品上生→軽罪=種々の悪を造る愚人。仏法は謗らないが、慚愧なし。
下品中生→次罪=破戒、僧物を盗む。不浄説法。慚愧なし。臨終に地獄の猛火。
下品下生→重罪=愚人、五逆、十悪。悪業で悪道へ。(つづく)
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広島法座に出かける。土曜日の朝、普段なら観光客で賑やかな京都駅もこのありさま、ホームは閑散としていた。帰路の広島駅は、夕方5時台と混雑の時間帯だが、待合室にもほとんど人がいない。車内も、普段の半分以下だ。2週間前、2月の連休も同じ広島だったが、新幹線はまだ満席に近かった。2月末の休校要請から、一気に自粛ムード加速したようだ。
岡山をすぎると、同じ車両にはたった4名だけ。それなのになぜか、指定席の隣にはずっと若者が座り、音楽を聴きながら寝ている。回りは空席ばかりなのにね。「袖触れ合うも多生の縁」-智慧がないので分からないが、これも過去世からの何かのご因縁なのだろう。なんとなくおかしかった。
広島法座は、インドでのジャイナ教徒の話題から、車座になって「お釈迦様の一生」の輪読。人数は少なかったが、じっくり聞き会え、また別離のご因縁もあって、よい法座ではなかったか。
≪↓格好会場の隣の公園では早咲きの桜が満開。今年は一段と早い。ウグイスも鳴いていた≫
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記録的な暖冬が続くが、今夜は寒い。新型コロナの感染者のニュースが、身近なところにまで及んできた。「仏書に親しむ会」は、平日の夜に開くので、京都、大阪の方を中心に10名前後の法座。事務所の方も帰り、こんな雨の降る夜に参加者はあるのか。
ところがである。予想は裏切られて、「仏書」の集いでは最高記録の参加者。初参加の方も数名。東京からも「今夜は開催されますか」と確認の上のご参加。日頃は不参加のMさんも、奥様のご逝去後の初参り。
『仏敵』も第6章で、伊藤先生と植島さんを初めとする野口道場の強信者とのご示談にはいっている。理屈一杯で、まだまだ遠いの若き日の伊藤先生に、植島さんの鋭い勧め方には教えられる。
それはそれとして、「今、出ていく後生となればどうです!」と、今、今、ここに詰めていく迫力は、さすが。
来月の仏書は、4月1日(水)夜6時50分~9時
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講習会に引き続き、予てから計画していたインド仏跡を共にした人々との親睦の集いを行う。御池の木屋町通、高瀬川沿いを上がるムガールというインド料理店へ。春には桜の名所だが、幕末の維新の英傑のゆかりの地でもある。特に長州藩の関連で、右隣が桂小五郎ゆかりの「幾松」、左隣が大村益次郎の寓居の地、そして向いには佐久間章山暗殺の石碑が建つ。わずか150~60年前に、維新の英傑や新撰組たちがが闊歩し、そして近代日本の黎明の地だと思うと、ワクワクしてくる。
さて、新型コロナの影響で参加を取りやめがあった一方、他の会合が中止でり参加されたた方もあって、インド旅行の参加者のうち半数が集まった。日頃は賑やかな木屋町通も静まりかえり、お店も貸し切り状態。暗い気分が漂うの中、旅行の車中と同じく、Tさんのハーモニカの演奏による合唱からスタート。
インド料理も、本格的なでおいしかった。日本人向きなのか本場よりおいしかったかもしれない。最初、「辛いなー」と思っていたものが、だんだん慣れきて、最後には辛く思わなくなるのが不思議。
昨晩の懇親会もインド旅行の話題でずいぶん盛り上がったが、今夜も旅の思い出が、次々と飛び出し楽しかった。連日、早朝から悪路を進むバスに何時間も揺られる厳しい旅を共にした同志としての連帯感が生れているようだ。
詳しくは4月発行の華光誌で特集。長文の方も多かったが、かなり短くした。それだけ皆さんの昂揚した雰囲気が伝わる文章だ。お楽しみに。
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