インド仏跡(3)初転法輪の地「サルナート」(2) 迎佛塔
一旦、ベナレスに戻ってホテルで昼食。再びサルーナトを訪れる。まずは、◆迎佛塔(チャウカンディー塚・フマユーン塔)◆
鹿野苑の少し手前、左側に八角形の塔のある小高い丘が、チャウカンディー塚・迎仏塔と呼ばれ、5人の比丘が釈尊を迎えた場所だ。土の丘のように見えても、下から煉瓦を積みあげ、丸い鉢を伏せたように作られている。塔の上かちは公園のように美しく整備されたサルナート全景が一望できるが、今回は入場料高騰につきパス。最初のインドの旅では、この上に登って撮影した。 ただし、頂上の八角塔は、ムガール王朝最盛期の1588年にアクバル大帝が、その父フマユーン帝を記念して建てたもので、もともとの仏教の迎仏塔が占領されてしまったのである。
(釈尊と五比丘)
五人の比丘は、近づいてきた釈尊を見て、「友よ、あそこにシッダールタがやって来る。彼はぜいたくで、努め励む心をすておごりに走った。そんな彼にこちらから挨拶したり、出迎えたりする必要はない。彼の衣鉢を受けとるべきではない。席だけは設けてやってもいいだろう」(『ヴィナヤ』大品)。
しかし、釈尊のあまりにも堂々と威厳に満ちた姿にうたれ、衣鉢を受けとり、座に案内し、洗足の用意をし、釈尊の名を呼び、“友よ”と呼びかる。
釈尊は、「比丘たちよ、如来に対して呼びかけるのに、名前を言ったり、また、友よ、などという呼びかたをしてはいけない。如来は、供養を受けるにふさわしく、正しくさとった者であるからだ」と。
そして、いよいよ説法の地、サルナートへ。
◆鹿の園(鹿野苑)◆
サルナートは、「サーランガ・ナータ」(鹿の王)の省略形に由来します。考古学的発掘の結果、マウリヤ王朝(前3世紀)から、シェンガ期、クシャーナ期、グプタ期、パーラー期を経て12世紀に至るまでの、1500年におよぶ、ストゥーパ・僧院造営の歴史が明らかにされている。今は、緑豊かで、静かな公園として整備されている。とにかく気持ちがいい。この鹿の園の由来は、ぼくもよく如来様の慈悲のたとえとして法話させてもらう「六牙の象の王様」と同じ話で、「黄金に輝く鹿王」の話に由来する「ジャーターカ物語」からだとも言われています。
(最初のご説法)
さて、五比丘たちに釈尊は、「四諦・八正道」(子どもの聖典・45・47頁参照)の教えを説かれた。その説法を、彼らは歓喜して信受したといいます。
そして、その5名のうち、まずコンダンニャ(阿若驕陳如・了本際)が、「生ずるものはすべて滅するものである」という真理に達した(四沙門果の第一、預流果か)。釈尊による五比丘への指導法は、比丘が2名か3名が順に托鉢を行い、残ったものが聴聞するという方法で、6名の合宿方式で続けられる。コンダンニャに続いて、ワッパ(正願)、バッディヤ(正語・十力尊者)、マハーナーマン(大号)、アッサジ(仁賢・後にナーランダーで舎利弗・目蓮尊者をご教化)の4名が、次々と悟りを得て、五名はすぐに阿羅漢果に達し、ここに釈尊を含めて「六名の阿羅漢が誕生した」と言われている。この一名の師と五名の弟子ではなく、「六名の阿羅漢」という表現こそ、仏教の平等性ではないでしょうか。[( )内の名前は『大無量寿経』の名前]。
そして、ついにここに「仏(ブッダ)法(ダルマ)僧(サンガ)」の三宝が揃ったのです。仏教が仏教となったのは、釈尊の誕生でも、また成道(お悟り)でもありません。「仏法僧」の三宝が揃ったことで、仏教が誕生したのです! 彼らは初期仏教教団を創設し、これから北インド各地で伝道活動に邁進し、教えが広がります。釈尊の人生の四つの転機の一つで、四大聖地の一つなのです。
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