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東海支部法座~浄土真宗に帰すれども~

「愚禿悲歎述懐」和讃の前半、機相の悲嘆の6首を、前半の3首(機根の不実)、後半の3首(如来の願船」)としていただく。

 冒頭のご和讃

「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」

とある。この「浄土真宗に帰すれども」の一行が尊い。帰するとは、帰命する、帰依することである。一般の教えなら、何かに帰依したならば、努めて煩悩を廃し行や徳を成していくのが当たり前である。ところが、浄土真宗のお法りは違う。この場合の浄土真宗は、宗派、セクトとして浄土真宗ではなく、大無量寿経に説かれた選択本願、すなわち、南無阿弥陀仏によって凡夫が仏になっていく真実の道を指している。その真実の浄土真宗に帰依しているのにも関わらず、この身には、真実心も、清浄心も、微塵もないというのである。

 普通は、少しぐらい自分の中に、真実や清浄のかけらを見つけたいものだ。そして、それを伸ばししていく。またその真実を信じてたよりにしていきたい。ところでじる。まったくお恥ずかしいことに、私には真実心も、清浄心も、そのかけらさえもまったくないといわれるのである。それを「心」というレベル。すくに宗教という心の持ちようくらいに考えてしまうが、ここでは「身」というレベルまで掘り下げて聖人は味わっておられる。この場合の身には、単なる心と体というレベルではなく、心も、体も含めた「身」としかいいようがないレベルで、もうどうしよもない虚仮不実の身だと押さえておられるのだ。(6首のうち4首までは「身」と示され、最後の3首、6首目は対応するよにう「こころ」と示されている)

 しかも、その身を知らされるのは真実である浄土真宗に帰したればこそでである。ここは、よく聞き間違えをされるところだ。法によって照らされた機(私の方)の真実なのに、自分で自分が分かっているかのように錯覚する。しかし、決して自分で自分を否定しているのでも、自己嫌悪でもないのだ。この懺悔もまた浄土真宗に帰してこそ現われてくる、仏智によって照らされて知らされた、まさに如来様の目に移った真実の私の姿にほかならない。つまりは、これも他力回向の賜物である。いうならば、浄土真宗に帰しているにもかわらず、なんというお粗末であろうかという懺悔の一面と、浄土真宗に帰したればこそ、真の姿をお教えいただけるという歓喜という両面があるというのである。

 機の不実、いいかえれば、法に照らされて明かになった機の真実3首と、法の真実、如来回向の願船の3首を、かなりつっこんでお話させていただいた。ただ、座談会の大半が、表面的な言葉のやりとり、枝葉末節なところで終始したのは、これからのお育てが大切なところ。簡単にはいかない。

 もう一つ、インド仏跡をご一緒した方々のインド熱がまだ冷めず、ずいぶん昂揚した尊い話が聴けたのは特筆していい出来事。とても有り難かったです。

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