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2020年2月の25件の記事

講習会にたどり着くまで

 2月は慌ただしく終わった。インド旅行のガンド冊子がたいへんだった。バタバタとインドに出かけ、帰国後は、すぐに宿泊法座が続き、講習会の準備に入った。ここで法座の合間を縫うように葬儀の依頼。そこへ新型コロナウィルスの発生だ。実体が分からないので、連日の報道をみれば不安が募る。事態は広がる方向で、講習会の前には大型イベントの自粛要請も出される。
 講習会も延期や縮小を提案をされる方もあり、対応を相談する。キャンセルや変更ある。春の子供大会は九州のお寺が会場。先方から開催の有無の相談も続く。中には、自分も感染したと体調不良の方からの信仰相談もある。見えない恐怖に浮足立っているかのようだ。

 結局、運営委員会の皆さんと相談。人数が多くないこと、すべてが連絡がつく特定者であること、出来る限りの対策を行い、また体調の悪い方や不安の方はお休み頂いて、参加は各自の判断にまかせてることで開催を決定した。(人数は減ると予想したが、キャンセルはあったが、他の行事か中止で逆に参加者が増えるという逆転現象。

 葬儀、コロナ問題の相談で、仕事が中断されて集中が難しかった。講習会の方向は決まっていているので、テキストがなくても大丈夫なのだか、開催する以上はしっかりしたものを造りたい。結局、前日は徹夜で作業し、仮眠をとりギリギリでテキスト作り終えた。が、今回は、スライド用の写真の整理が予定外に時間がかかり、途中までしかできなかった。よく考えると、これは例年のことで、綱渡りばかりで、学習能力が低いということというか。こんなところは父親譲りだ。

 それでも無事、開催にこぎつけた。内容も2日間を通して聴いてて頂いた方には、一貫したテーマで、反響も大きく、ほっとした。
 が、3月も大変で、すぐに華光誌の編集作業に入らないと行けない。気が抜けない日々が続く。

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インド仏跡(17)ガヤの街とバザール

 ブッダガヤと霊鷲山というハイライト二ケ所に加えて、世界遺産のナーランドという濃厚な一日を終えた。翌朝、やはり5時起きをして、「ブッダ最後の旅」の行程を行く。王舍城からナーランダ、パトナを通って、バイシャリーに向う。そこからケサリナ仏塔にお参りして、涅槃の地のクシナガラへと入るのだ。今日も、長時間のバスの旅となるのは覚悟の上だ。 
 車窓からの長めも飽きることはない。道路の眺めだけでもワクワクする。しかし、悪路と渋滞には、閉口するしかない。
 ブッタガヤからすぐ、ガヤの街にはいった。ガヤーシーサー(象頭山)見える。この地でのカッサバ三兄弟の帰依によって、仏教教団は、一気に1000名を超す大所帯となり、また燃焼の法話で有名の地だ。

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 ガヤやその郊外のバザールは賑やかで、カラフルな色調が賑やか。その一部をご紹介。
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チャイ用の素焼き。使い捨て↓
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魚屋↓ 日本の衛生概念などぶっ飛ぶ
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ニワトリは生きたままで↓

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昔から変わらないサトウキビジュース↓
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インド仏跡(16)霊鷲山

  ◆霊鷲山◆

  いよいよ霊鷲山へ。霊鷲山の名は、山頂の岩の形が鷲に似ているからとも、このあたりに鷲や禿鷹が住みついていたからとも言われ、王舎城附近の寒林(屍林・死体を棄てる場所)があったのだと、玄奘三蔵は記しておれらます。

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 耆闍掘山とも訳され、『法華経』や『大無量寿経』・『観無量寿経』が説かれた地。真宗念仏者にとっては最大の聖地。日蓮宗の方にも最大の聖地で、頂上に日蓮宗の寺院もあり、ここの物売りは、日本人とみると、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と近づいてくる。その山頂には、インドでは珍しいリフトがあって、インド人観光客で一杯だ。でも、私達が目指すは、第三峰で、歩くしかない(もしはTさんのように籠に乗るのも可)。

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 この道は、ビンビサーラの道と呼ばれ約1㎞ほど。でも、石だたみの坂で、段差のある石段が続いて、早朝からブッダガヤ、ナーランダと続いた夕刻。皆さんはちょっと過酷な行程かと。道の片側には、土産物屋がならび、物売りが付きまとう。岩場で散髪屋が開業。途中、サルの大軍が遊んでる。ベナレスでみたサルと違い、顔が黒くて尻尾が長い。皆さん、サルに大はしゃぎ。(その後も、リスやサルはたくさんみるが、その度に写真を撮りまくるのであった)

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 頂上の手前にあるこの洞窟に、アーナンダ(阿難)とマハーカーシャパ(大迦葉)の二人が住んでおられたという。この地に立つと多くのお弟子方に教えを説かれる釈尊のお姿が目に浮ぶます。

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 登り切ったのが、第三峰とよばれ、ご説法の場、香堂があった場所。ここからの眺望が素晴らしい。山に囲まれ、眼下には大平原が広がる。香堂跡の脇には、鷲の峰の由来とされる岩峰がそびえています。

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 それにしてもこの狭い場所に、「一万二千万という聖者や菩薩が集結するのは、無理じゃないですか」と尋ねた方に、「菩薩方は空中に浮いておられたのです」と悟朗先生は切り返されたとか。なるほど尊いことです。時空を超えてこの会座に集ってこられたところに、私達も磁石に引き寄せられるように集まっている。

 ここで阿難尊者の卓見に応え、迷える濁悪邪見の末世の凡夫のために、弥陀三昧に入られた釈尊が、阿弥陀様の四十八の大誓願をこの世に示してくだったのです。南無阿弥陀仏 

 昔は、日本人だけで、案外、空いていた霊鷲山も南方仏教の方々の聖地になって、たいへんな賑わいにびっくり。40年前は、まっ暗な早朝に、銃をもった護衛付きで登ったこの山も、物売りの店が並ぶ一代観光地で、世界の仏教徒で大賑わい。勤行の場所とりで大揉めになってしまうぼどでした。

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 Iご夫婦が調声で『大無量寿経』の偈文「讃仏偈」を、夕陽を向かってお勤め。姉も美声を披露。Tさんが、父の「南無阿弥陀仏」の屏風名号を広げられた。「おお、ナイスです、Tさん」。姉の仏教讃歌、そして父も一緒に仏跡にいるような想いになって、感無量。南無阿弥陀仏の響きが尊く思えました。

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 夕日が落ちるまで、各自が時間を過ごす。『大悲の呼び声』を唱和する人、中にも、我流の方もあって、面白い。『大無量寿経』の現代語訳を朗読する人、それを涙を流して聞く人。大声でお念仏する人、何もせずたたずみで味わう人、それを写真に収める人(おかけでいい表情の写真が撮れた)、幸せな一時を過ごしました。

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 ブッダガヤ(世界遺産)~ナーランダ(世界遺産)~王舎城と霊鷲山。早朝から濃厚な一日で、段差のある石段に、かなりお疲れの方もあったでしょうが、ほんとうに充実し、大満足で下山した。南無阿弥陀仏

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インド仏跡(15)王舎城

  さて、ナーランダーからもどり、ラージャグリハー(王舎城)である。

 ◆温泉精舎◆

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 竹林精舎の手前に、インドではとても珍しい温泉・サーダーラー・クンドと呼ばれる「温泉精舎」がある。しかも今日は、ヒィンドー教のお祭りがあって、いろいろなところで、パレードや寺院の飾りが目についた。ラージギルの温泉精舎も、ヒィンドー教徒たちで夜まで賑わっている。
 39年前のインド旅行ではここに入場。インド式入浴は下着をつけたまま、石けんなどは使わない。その時の写真↓

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◆竹林精舎◆

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 悟りを開かれた釈尊が千人の比丘とともに、王舎城に入られたことを喜び、ビンビサーラ王は、国内の12万人の人びとを引きつれて出迎え、釈尊はこの人びとに教えを説かれ、このうち、ビンビサーラ王をはじめとして1万人の人びとが、在家信者になられたと、南伝大蔵経に記されている。
 そして、釈尊のために、『町より遠からず近からず、往来に便利であり、昼は人で雑踏せず、夜は音声がすくなく、人びとに煩わされることがなく、独り坐すに適したところ』として、ヴェヌヴァナ・ヴィハーラー(竹林精舎)が建てられました。カランダカ長者が寄進された竹林に、ビンビサーラ王が精舎を建てられ、仏教史上最初の精舎(寺院)とされている。
 精舎跡は、日本より移植された竹が、あちこちに生い茂る、公園に整備。中央は広い長方形に掘られた池になっていて、二体の仏像が安置。坐って説法をされているのは、日本山妙法寺が寄進されたもの。立って与願の印を結んでおられるものはこの池の改修工事の際発見されたもので、グプタ王朝時代の立像とか。今回は、時間の関係でサーーッと通り抜けただけ。


 ◆牢獄跡◆

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 釈尊に帰依した名君ビンビサーラ王(頻婆娑羅王)には、お妃のヴァイデーヒー(韋提希夫人)との間に、アジャータシャトル王(阿闍世王)という王子がいた。ところが、その出生の秘密をもとに、釈尊教団の乗っ取りをはかる釈尊の従兄デーヴァダッタ(提婆達多)にそそのかされた阿闍世は、クーデターをおこし、父王を牢獄(七重の牢獄)に監禁した.
   旧王舎城の発掘で明らかになった、ビンビサーラ王が幽閉された牢獄跡。王舎城の悲劇の舞台で、韋提希夫人の七重の牢獄も、この場所で幽閉されたのではないか。
 韋提希夫人にならって、はるか霊鷲山に向かって、「お釈迦様ー」と呼びかけてみました。観経では、神通力で、あっという間に目の前に現われてくださり、ここに『観無量寿経』が説かれるのです。 


◆ギバ大臣の邸宅跡◆

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 霊鷲山の登り口で止る少し手前左側に、ジーヴァカ(耆婆)邸、マンゴー園の跡があるが、今回は、車窓からの拝観。当時の治療器具や手術道具と思われる品々も発掘されるとか。ジーヴァカ(ギバ大臣)は、ビンビサーラ王、アジャセ王の二代渡り医師として仕え。医学の祖とされるギリシャのヒポクラテスよりも、50年も前のこと。仏教精神に基づく平等主義で患者を選ばず、深く仏陀に帰依し、釈尊や仏弟子の病気も治療し、また父王を殺したアジャセ王を悔悟させ、釈尊のもとに導きます。釈尊が涅槃に入り給う時に脈をとったのも言い伝えられています。
 ちなみに、このマンゴー園で悟りを開いたのが、周利槃得さん。

 

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京都支部法座とお通夜

 京都支部法座。終了後、すぐMさんのお通夜がある。さっそく還相回向のお働きか、日ごろお参りされない方も法座に参詣されていた。K先生、1年ぶりにお出でになる。「正直、お通夜がメーンで、法座はついでのような気がしていたが、間違っていました。浄土真宗の一番大切な要の中の要を聴かせてもらった。これもMさんのお働きです」との感想。体調のよし悪しもあるだろうが、ぜひお参りいただきたいものだ。

 お参りされた方と、車に分乗してそのまま葬儀会館に向かう。華光の皆様が30名以上参列され、ホールにお念仏やお正信偈の声が響いて、有り難かった。

 法話も、故人や家族の子供の時からのご縁を想うと、思わず力が入って、何度か声が詰まり、涙となった。京都支部法座からつながった法座のような気分だった。
 主には、法名の御いわれをプリントしてお配りした。阿弥陀様の法の声、呼び声である。また、故人は、大人の法座だけでなく、お子さんが乳飲み子の手を引いて、熱心にお参りされていた。二人のお子さんに、妹さんの二人のお子さんの合せて4名を、小学校1年生から中学3年生まで、月に2度(午前中のみ)日曜学校に、皆勤で参加させられたのだ。参加者がその4名だけという時も、何度かあった。大雪で、交通機関がダメになった時には、雪だるまを造りながら歩いて、子どもたちがこられたことも覚えている。その後、もう一人の妹さんのお子さんも二人も日礼や子供大会に参加してくれていた。その6名がお母さんお父さんとなって列席していた。懐かしく声をかけてくれるかたもあった。ただ、いまはお念仏の相続はない。親族の席から、お念仏もお正信偈の声もあまり聞こえてこなかったのは、不徳の致すところ。これからの法事のご縁で、そのあたりをお伝えしていきたい。ぜひ有縁の皆さんにも、これを契機にお念仏を喜ぶ身になってもらいたい。これがぼくに葬儀を託した、故人の願いなのだから、、。南無阿弥陀仏 

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2月の広島支部法座

 11月以来の広島法座。新型コロナの影響が心配されているが、三連休ということで新幹線も満杯。広島駅から会場に向かう道路も大渋滞。法座会場は、カープのマツダスタジアムに隣接するが、今シーズンのチケットの購入のための整理券が配布されるとかで、何万人もの人が訪れていた。広島、あまりコロナの影響を受けていないのだろか。

 法話は、悲嘆述懐和讃の、機の不実と法の真実の六首のご和讃をいただいた。それに、インドで感じたこと、亡くなってMさんのこと、そしてこの社会状況のなど、話題がつきなかった。いろいろと最近の味わいの影響を受けて、話題豊富だったが、聞き手にとっては盛りだくさんで、散乱したのかもしれない。なかなかテーマをしばらないと、聞き手は、枝葉にとらわれてしまうようだ。要は、虚仮不実の私が、真実に出会うのは、「弥陀回向の御名」として、真実の方から不真実の身に至り届くという形でしか実現しないということを伝えたかったのだが…。

 

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臨終勤行

 ちょうど一年前のこの日、講習会の時に、「昨年末からずっと体調が悪いので、月曜日に検査を受ける」と言われていた。数日後、検査の結果は、膵臓や腎臓などの癌が転移にステージ4で、すでに手術も無理という状態であった。年末から今年に入って、かなり悪いと聴いていてたが、ご本人も、回りもそれなりに覚悟はしいたが、ついにその時がきたのである。

 臨終勤行(世間での枕経)のために最後の対面である。霊安室におかれたご遺体は、一回りも二回りも小さくなられている。在りし日のふくよかな顔だちは見る影もなくだ73歳というのに老婆のようなやつれたおすがたであった。

 40年に及び長いおつきあいだった。熱心に通い続けられた求道の時の姿も印象深い。いまでは信じられないのでだか、そのころは寡黙で、指名しても、「頭が真っ白で何もいえません」というのが精一杯。なかなか心境は進まなかった。

 もろろん、その後のご聴聞の姿も、いいことも、悪いことも含めて何でもあってその思い出は語り尽くせない。ある意味で、むきだしのままでのおつきあいだった。法座での活躍は皆さんもご承知のとおりだが、一方で、腹を立てたり、愚痴を言ったりも容赦なく、一旦、へそを曲げると、延々続く愚痴を何度も聞かされて、閉口したともたびたびあった。彼女を苦手に思っていた人もあった一方で、信心の上で慕っていた人もおられた。

 勤行の最中、見上げて仰ぐ変わり果てた死顔ではなく、元気なころのお顔やしぐさが、お声が、ふとありありと浮かび上がってきて、思わず、声が詰まってしまうことが何度かあった。気持ちを切り換えて、どうにか最後まで勤めあげられた。『阿弥陀経』をお勤めしたのだが、少し前に、インドの祇園精舎で勤行した時の思いも去来してきたからである。

 また一人、個性的な念仏者が往生され、あの個性的な味わいが聴けないとおうと、やはり寂しい。が、これも仏説どおりで、驚くことでも、歎くことでもない。南無阿弥陀仏 

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インド仏跡(14)ナーランダ大学跡遺跡

 さて、王舎城で昼食後、その前に、ラージギル郊外のナーランダにへ。約16Kmほどです。実は、この道の途中で、たいへん珍しい光景を目にします。この旅でも、3度も出会うことになりますが、それは後ほど。

 ナーランダ大学跡の遺跡も、今は世界遺産に登録されている。広々とした遺跡ですが、今日は駆け足で、味わうだけ。

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 ナーランダは、釈尊もしばしば訪れておられるようですが、この地は舎利弗、目連両尊者の生れ育った地として知られています。
 そしてなにより、世界最古の大学として、また仏教総合大学として、隆盛を誇ったナーランダ大学があった地です。2016年には、世界文化遺産にも登録されました。
 ナーランダ大学跡の入口に、英語とヒンディ語による説明文が掲げられています。

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「これらの僧院・寺院の広大な遺跡は、ナーランダ大学に属するものである。これは、古代の最も大きな大学のひとつであり、東洋の美術・学問の有名な中心地である。(西暦411年にインドを離れた中国の僧、法顕は、この地について言及していないので、その後すぐに、グプタ朝のクマーラグプタ1世(413~455)によって創設されたものと考えられています)。
 中国の僧、玄奘がここで、637~642年まで学んだときには、すでに仏教学研究の有名な中心地となっており、ヴァルダナ朝のハルシャ・ヴァルダナ王(戒日王)(606~647)によって保護された。8世紀から12世紀にかけてのパーラ朝の王たちも、この大学への保護を広げた。この王朝のパーラ王(815~854)は、僧院の維持のためにラジギールの近くに5つの村を与えた。西暦1200年に、イスラム教徒の侵入によって、この大学は破壊された。」(城 正弘訳)

 盛時には、1万人の学生が学んでおり、無著、世親(天親菩薩)、陳那、護法など、大乗仏教の中心となった人々もここで学びました。ここでは、大、小乗18部が学ばれ、ヴェーダ、因明学、医学、声明の講義も開かれていました。

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 ちなみに、玄奘とは、日本では『西遊記』の三蔵法師で有名な方です。中国シルクロードの旅では、玄奘様がトルファンで歓待をうけられた高昌故城跡を訪ねましたね。中国からシルクロードを経て、そしてヒマラヤ山脈を超えて、インドに到達されて、この地でも、5年間(29歳~34歳)、仏教を学ばれます。当日の学長は、唯識(ゆいしき)学派の戒賢(かいけん)だったので、唯識、ヨーガ論が中心に、中論などの中観思想など多くを学ばれ、最後に学長代理まで勤められたそうです。異国の地で、驚くべき大天才だったのですね。
 また玄奘様がインド中を巡礼され、仏跡地の詳細を記録を残して下さったおかげで、今日の私達も仏陀のみ跡を巡拝出来るのです。そして、この地で仏教が発展し、中国、日本へと伝えられたのですから、このナーランダなしには、今日の日本の仏教もあり得ないと言えるわけです。

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≪第3塔主殿・別名は舎利弗塔↓≫
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インド仏跡(13)王舎城への道

 ◆王舎城への道◆


 さて、ブッタガヤから王舎城・ラージャグリハ(ラジギール)までは、約2時30分ほど。一番、違ったのは、新しいバイバスが出来上がっていて、まったく風景が違ったこと。車窓の前半は、広々として農場風景。椰子の木に、芥子菜の黄色、今は緑が豊かで、農村の家々は、以前と変わらず、牛糞とワラでまぜた燃料が張り付けられている。これはあいかわらずの風景。

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≪牛糞とわらのエコ燃料↑≫
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 そして、ゴツゴツとした岩山を迫ってきて黄土色になれば、王舎城・ラージャグリハ(ラジギール)も間近。インドの仏跡地で山らしい場所はここだけで、周りを五山が囲む天然の要塞。この五山から、京都や鎌倉にある「五山」のもとになった説も。また、お寺の〇〇山という山号の言われも、ここからだという説を聴いたこともあるが、諸説あり。

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 「もし、さとりを得られたなら、まず私を済度していただきたい」
 かって、二人の仙人の境地に満足せず、悟りを目指されたゴータマ・シッダールタの並びない威光に、マガダ国の太子になるように要請をして、その出家を思いとどまらせようとしたマガダ国王ビンビサーラ。しかし、シッダールタの固い決意を知って、このような願いをされたのでした。ブッダガヤで悟りを開かれた仏陀は、ビンビサーラ王との約束をはたすために、この地においでになりました。


 ◆王舎城の城門跡◆


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 王舎城・ラージャグリハは、マガダ国の首都で、八大聖地の一つです。
 ビンビサーラ王までの旧王舎城と、父王を幽閉したアジャータシャトル(阿闍世王)が築いた新王舎城に分かれるが、ビンビサーラ王(BC542~491)の時代から、ずいぶん栄えた都市だった。アショカ王の時代(前3世紀)マガダ国王ウダイン(BC459~443)が、水路や陸上交通の良いパトナに都を移住。私達には、観無量寿経に説かれる「王舎城の悲劇」の舞台として慣れ親しむ地も、現在、まったくの廃墟でレンガづくりの城壁が見られるだけ。
 当日のマガダ国は、もっとも有力な王国で、紀元前4世紀には、歩兵20万、騎馬2万、戦車2千、象3千という巨大な軍事力を誇った大国。この地が古くからインドでも最も良質の鉄や銅を産出し、財政的に恵まれていたからです。ソーナ山の崖をくりぬいて作られたビンビサーラ王の倉庫といわれる石室があり、金庫にお金がうなっていたと伝えられます。 
 それを考古学的に示すものとして、ビンビサーラ王時代の鉄の車輪に往来による、戦車の轍(わだち)跡が、発掘され保存されています。2500年も前のこと。ここが、当時、世界最先端の高度な文明が発達していたこまが、窺える貴重な資料と言えるでしょう。あわせて、インド古来のブラーフミー文字が刻まれているが、残念ながら、今回はパス。

 さあ、いよいよ王舎城です。

 

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インド仏跡(12)尼連禅河とスジャーター村

 (苦行を捨てる)
  釈尊は、師と仰いだ、アーラーダ・カーラーマやウッダカ・ラーマプトラに出会っても、真の問題解決を見出すことができず、山林にこもって6~7年間の苦行に入られました。しかし、身体は80歳の老婆のごとく、背骨は曲がり、立ちあがろうとしては四つにはい、坐ろうとすればあおむけに倒れかかるといった状態でした。釈尊は苦行をすてます。
「低き苦行は何であろうと何の益もない。森の中におかれた櫂や舵のように全く利益をもたらさない、と知って、わたしは戒めと精神統一と智慧とさとりへの道を修して来た。いまやわたしは最上の清浄に到達した」(『相応部』経典、悪魔相応)と述べられています。
 釈尊は苦行・断食を捨て、村娘スジャーターの捧げる乳粥を受けて身心を回復させ、ネーランジャラー河(尼蓮禅河)に入って身体を清め、河から少し離れた、一本の菩提樹の下に坐し、真理を悟るまでは決してここを立たないと決意されたのでした。

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≪尼蓮禅河からブッダガヤの大塔を眺める≫

 ◆スジャーター村◆

 大塔を出て、横の道をつきぬけるとネーランジャラー川(尼連禅河)。今は乾季で、300メートルはあるかと思われるこの河も砂原としか見えない。河岸には椰子の林が繁り小鳥がさえずり、南国にいるという実感に。はるか30キロの河向うに、釈尊が成道される6年間、苦行された「苦行林」と、成道前に訪れた「前正覚山」が見せている。成道前、最後の聖地を求めた釈尊の御影が残る「留影窟」がありますが、今回は、訪問できませでした。
 尼蓮禅河を渡って東岸に達し、村娘スジャーターのスジャーター村へ。ストゥーパ跡が小高い丘になっている。のぞかな田園風景。♪スジャータ、スジャータ♪~のコマーシャルソングで、すっかりお馴染み。創業者が、子供のころに日曜学校で聞いたスジャーターさんのエピソードが原点だとか。ただし、「スジャータ」では村男、村娘なら、「スジャーター」という表記が正しいそうです。
 また近くには、スジャーター寺院があります。釈尊が修行されたという苦行林もすぐ近くですが、今回は、そのまま王舎城へ。

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≪スジャーター村へ。ストゥーパ跡↑≫
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  ≪薄っすらと見えるのが前正覚山↑≫
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インド仏跡(11)ブッダガヤ(3)~菩提樹~

 ◆菩提樹◆

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  大塔の背後にまわると大きな枝ひろげた菩提樹がある。釈尊が悟りを開かれた時に座っておられたのが、このアッサッタ樹とも、ピッパラ樹の根元です。シッダールタ太子が悟りを開かれて以後、この樹はBodhi druma 菩提樹(天竺菩提樹)と呼ばれるようになったのです。私達が、見上げるの菩提樹は、四代目スリランカのアヌラーダプラの菩提樹寺から移植されたものとか。BC245年 アショカ王の王子マヘーンドラが、勅命によって仏教をスリランカに伝えた時、ブッダガヤの菩提樹の一部をアヌラーダプラに移植して、逆にそのひこばえが、再びブッダガヤに里帰りしたというのです。 


 ◆金剛宝座◆

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  その菩提樹の下に金剛宝座(Vajrasana)が安置されている。長さ2.4m、巾1.4m、厚さ16.5㎝の砂岩で作られている。この宝座は1880年、この大塔の発掘・修理に当っていたイギリスの歴史、考古学者カニンガムが発見。表面の幾何学模様、側面の鳩や花葉、表面の端にわずかに残る初期ブラーフミー文字で、「宝座奉献」の文字が刻まれているところから、カニンガムは、アショーカ王建立の際のものと断定しています。昔は金剛宝座の前まで入れました。今は参拝者の増大に加え、オウム真理教の麻原彰晃の愚行によって、厳重に囲いがなされてしまいました。残念、無念、近寄れません。


 ◆仏足跡◆

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 また、金剛宝座の入り口に、文様のない仏足石。このシンプルな文様は、紀元前1世紀とかなり古いものです。でも、献花でなにも見えません。


 ◆アショーカ王柱◆

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 また、頭部は発見されていませんが、ここにもアショーカ王柱があります。ブッダガヤであることの決め手になったひとつです。


 ◆ムチャンリング龍王池◆

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 悟りを得て、仏陀となられた釈尊が、七日間の間、感謝の禅 定三昧に入っておられた時、暴風雨が襲った。その時、ムチャンリングの龍王が釈尊を守護して、暴風雨から護ったという言い伝えがあります。大菩提寺の南にある蓮華の池は、その季節には多く蓮華が美しく咲き誇る。池の真ん中には、暴風雨の中で釈尊を守護するチャンリング龍王の像が安置されています。今回、龍王の正体は、コブラだと聞まました。なるほど、日本人に理解できなかったはずです。この逸話は、インドや東南アジアでは、龍王に護られたブッタ像はポビュラーですが、日本ではあまり見かけません。

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   それにしてもチベットパワーは、凄まじいかったです。違和感を感じつつ、これだけの仏教徒がイキイキと躍動していることは、力強く、とても励みにもなりました。それにしても大乗至極の浄土真宗に出会った不思議を喜ぶばかりです。南無阿弥陀仏

 

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インド仏跡(10)ブッダガヤ(2)~マハーボーディ寺院~

 ◆マハーボーディ寺院(大菩提寺・大精堂)◆~世界文化遺産~

 そのブッダガヤの中心にあるので、大塔-マハーボーディ寺院・Mahabodhi Temple(大菩提寺)。「塔」といってもストューパではなく仏像と、金剛宝座をおさめる祠堂の役割をはたすもの。高さ52m、外壁をかざる数多くの龕に仏像が安置されて、その間にさまざまな美しい草花の彫刻がほどこされている。

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 大塔の中は石の壁でかこまれた内陣で、外からの光はほとんど入って来ない。ご本尊釈迦如来は、全身金箔を置かれたチベット風の仏像で、日本様式の仏像に慣れている私たちには異様に感じられます。印は、右手を膝にたれ、大地を指した降魔印、又は触地印です。混雑の中で、御本尊前で合掌。39年前は、階段を登り、二階の回廊を一巡でき、2階から金剛宝座を眺められました。過去のことです。
 回廊の四隅には小塔が配されて、その間に奉献されたストゥーパが立ち並んでおり、これには小さな仏像が刻まれています。

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 大塔の外に出ると、北側に釈尊が成道直後の7日間、悟りを楽しみながら、そぞろ歩きをしたと伝えられる経行処(チャンカマナ)がある。幅、高さとも1m位のセメントで固められている石の台が18mの長さで続いており、蓮の花が刻まれている。釈尊の一足ごとに開いたのだといいます。

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 大塔の歴史は、始めにアショーカ王によって建立された精舎が、数々の増広と修復をへて今日に至ったと伝えられています。紀元前3世紀に作られた草創の姿を示している箇所が、部分的に確認されていつとか。やはり12世紀から13世紀にかけて、イスラム教徒によって、寺院のほとんが破壊され、仏像はこわされ、僧の多くは殺されました。大塔をはじめ付近の寺院もことごとく土の中に帰してしまった。
 カニンガムが、ベンガル政庁の命を受けて1880年に来た時は、虎も棲むかと思われるジャングルだったと。彼は、法顕や玄奘様の記録をもとに、ここが釈尊成道の地と査定しました。仏陀成道の地が確認されたのは、今から140年前のことにすぎないのです。

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インド仏跡(9)成道の地・ブッダガヤ(1)

 いよいよお釈迦様の成道(お悟り)の地、ブッダガヤ(BUDDHA GAYA・Bodh Gaya)の大塔のもとへ。ホテルから、電気自動車!に分乗。以前なら、人力(自転車)のリキシャだったのにね。このあたりは日進月歩。

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  ブッダガヤはたいへんな混雑ぶり。世界中の仏教徒の最大の聖地。特に、チベット僧たちが、回りにテントを張って、終日、大きなマイクで勤行をしてる様は、壮観で、圧倒される。10分足らずでお勤めをして去ってくのは、日本の仏教徒だけのようですね。

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 まごまごしたいたら迷子になるようは人込み。セキュリティチェックを済めせて、みんなが揃って入場というときに、点呼をとると一人足りない。どうやら先に入ったらしい。しかも、携帯・スマホは持ち込み不可で、連絡がつけられない。しばらく待っていたが、戻る気配がないので入場することに。

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 人込みの中、菩提樹のもとで勤行。喧騒と他の読経の声にかき消されほとんど聞こえないけど、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」は確かな響き。

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(成 道)
 ピッパラ樹の下に坐した釈尊に対して、悪魔や魔女が再三再四襲ってくるさまを、経典は詳しく述べている。釈尊の心に浮ぶさまざまな心の葛藤の表現で、八種の大軍とも言われている。
「出家者よ、樹の下に坐って、なにを求めようとしているのか。おまえは、その金剛座に坐る価値のある者ではない。さっさとこの場から立ち去れ!」
「天地に覆われたこの世界で、この座に坐る価値のあるものは、ただ私一人だけだ。前の世からの、善い行いに飾られたものでないと、この座を占むることはできない。地の神よ、すみやかに出でて証明せよ」。
 しかし、釈尊はその悪魔を退けれていく。そして、大地を指さすると、大地は六種に震動し、光明が遍く世界を照らし、太陽や月もその光を失うほどだったと経典に記されてる。大塔の釈迦如来像はこの場面を表して触地印を示しておられる。釈尊の心を重苦しく覆っていた霧が、一瞬にして晴れわたった瞬間です。南無阿弥陀仏

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インド仏跡(8)ブッダガヤへの道

 ガンジス河から戻ると、ホテルで朝食を澄ませて、一、ブッダガヤの街を目指して、約220キロの道をつっ走る。約8時間の長距離移動。大半が高速道路を進む。がしかし、日本の常識の高速道路ではない。工事区間も多くて、凸凹道はびどい揺れ。しかも、信号機はなし。バスの逆走は、当たり前です。降りるところを間違えたら、バックもする。高速道路でも、牛も歩ければ、人も横断、トラクターや馬車も走る。車の定員も関係なし。屋根に乗っても、ドアにしがみつくのもOK。追い抜く時、すれ違う時、クラションを鳴らしつづけます。日本では些細な交通トラブルからで殺人事件になり、また逆走が大問題になっているけれど、インドではすべて吹っ飛びます。


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 すごいのは、バスの運転手さんの腕前。一同、感服し、感謝です。

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 今日の道は、ブッダガヤで悟りを開かれた釈尊が、最初に説法されたヴァーラナーシィ~サルナートへ行かれた道の逆コース。バスで8時間かかる道を、釈尊は10数日かけて一人で歩かれました。当時は、どんな道だったのでしょうか。毒蛇や猛獣もいたこの道を、徒歩で歩まれる釈尊に思いを馳せながら、バスは走ります。これでもレッキとした国道2号線の高速道路。現代のシルクロードと呼ばれる道で、コルカッタ、ヴァーラナースィ、デリー、ラホール、ペシャワル、カイバル峠、カブールを経て中央アジアへと続く以前は、舗装はされていても、乾季で砂ぼこりが、窓をしめてもバスの中にも舞いこんで、車中でもマスクが必要でした。今も、バスの後を見ると煙幕を張って走っているよう。「だから私は歩いて行くのだ」と、お釈迦さまはおっしゃたのでしょうかね?

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 バス移動で、途中、タイ寺院を借りて、お弁当。回りは、熱帯の植物(バナナやマンゴー)に囲まれて、ちょっとピクニック気分。でも、まだ道は半ば。

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 UP州からビハール州に入るとインドの穀倉地帯というべき地域。窓外はどこまでも田畑が続き、芥子菜の黄色が印象に残った。以前のようにガヤの街には入らずに、バイバスを進んで、夕方、ブッダガヤに到着。このホテルは2度目。以前は、40年前は、この地の日本寺で素朴な夕食を頂きました。

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 時間があったので連れ合いたちは、ブッダガヤの街を散策。インドのガイドさんに連れてもらって、なんと、現地の遊園地でのメリゴーランドやバイキングに乗ったそうでが……。手動での恐ろしいもので、中には、顔色が蒼白で、夕食も食べられないという人まであらわれて…。なんかすごいですね。動画を見たけど、これ観覧車じゃなくて、絶叫マシーン。

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 夕食時には、最初の顔合わせで、皆さんから一言。これがなかなかよかったです。明日は、メーン行事か目白押し。早朝から、お悟りの地・ブッダガヤ周辺の参詣、午後は、世界遺産のナーランダ大学跡、そして、メーンイベントのラジギール周辺(王舎城・霊鷲山)と、たいへん濃厚な一日が待っている。

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インド仏跡(7) ヴァーラーナースィの路地裏

 帰路は、狭い路地に店がいっぱい並んだ道を通る。

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 小便くさい狭い路地に並んだ小さな店。たくさんの乞食や物売りの子供たち(日本人はいいカモ)。店先の野菜をあさる牛。建物の屋根を走る猿、ヒンドゥー寺院で祈る人……、まるで釈尊の時と全くかわらないと思われる光景が広がっていた。ただし、この狭い路地に、バイクが走るので、40年前とはその風景は様変わり。途中、チャイのお店で一服。相変わらず。使い捨ての素焼きの入れ物でした。

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 自然と人間と、生と死と、いっぺんにワァーッと飛びかかられたように思う町で、数日は滞在して散策したいところだけれど、ここまで。ホテルの戻って、朝食の後、ブッダガヤまで、8時のバスの旅が待っている。

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インド仏跡(6) ヴァーラーナースィのガンガー(1)

 初日は4時30分起床、今朝も5時起床。早起きは、三文、いや三ルピーの得があるのか。ガンジス河へヒィンドー教徒の沐浴を見学へ。大通を行く。途中、停電で真っ暗にもなるが、もう巡礼者や物乞いで混雑していた。

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≪噛ハミガキ↑≫
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 ヴァーラーナースィを、私たちは「ベナレス」と言い習わしている。北と南をヴァルナ河(Varuna)とアッスィ河(Assi)にはさまれているのに由来するので、ヴァーラーナースィ。初転法輪のところで触れたように、釈尊は、「カーシー(KASHI)へ行く」と言われている。これは「霊的な光にあふれた町」の意味で、昔も今もKASHIで通じとか。ちなみに、ガンジス河のGANGESは英語読み。この聖河はガンガー(GANGA)と、現地名では呼びそうだ。河そのものが神格化されて、女神「GANGA MATAJI」(母なるガンガ様)と崇めらているのだ。ここは、釈尊当時からある世界最古の宗教都市。2500年前ですから、びっくりです。仏跡地ではないけれど、釈尊の最初の伝道の地で、後にこの町の多くの聖者や青年たちが釈尊に帰依することになる。

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 現在の人口は約120万人。ガイドの説明では、約300万人と言われた。ヒンドゥー教の巡礼の聖地で、ガンガーの聖なる水をいただき、沐浴すればすべての罪は浄められる。そして、ここで死に遺灰がガンガーに流されれば、輪廻からの解脱を得るという。だから、彼にはこの地で死ぬことこそ最高の幸福だと、ここで死ぬために家・財産を整理して来る人も少なくないのです。そのことは、インド映画『ガンジスに還る』を観ればよく分かります。
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 河の西岸に沿って60からのガート(GHAT)が並んでいる。ガートとは、岸辺から階段になって、河水に没している堤のこと。沐浴場として使われていって。まだ暗い中、もうすでに大勢のヒンドゥ教徒が、沐浴の準備をしていた。

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 ガートから木造モータ-ボートに乗って、西岸の沐浴や立ち並ぶヒンドゥ寺院を見学。これまではオールでの手漕きぐボートだったけど、これも電動化。火葬に使われるガート(火葬場)は、まだ準備中。薪で焼かれるので、かなりの費用(忘れました)で、貧乏人には難しく、死ぬ時も貧富の格差があるんですね。

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 ボートに乗っていても物売りが寄ってきた。「魚を放流し、徳を積みませんか」というお節介な輩。「誰がその魚を釣ったんやー!」と、つっこみたくなるが、それでも、我々の仲間が、二人も徳を積まれた。こんなことが宿善になるのでしょうね? これが、翌日、ブッタガヤでいい報いとしてかえって来たのです。そのお話はのちで。

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 ただし、靄がかかって、お目当ての美しい日の出は、まったく見られなかったのは、残念。
我々のカルマが悪かったのか。もう一度来いというお諭しなのか?
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  ガートにあがる時、連れ合いがガンガーに飛びこんで沐浴をする。ただし、お友達のご住職が、頭まで浸かる沐浴をして、翌朝からひどい下痢で、大切なレセプションを早退する事態になったとか…。彼女は、準備はしてきたのの、下半身だけの半沐浴に留めた。川底は、ぬるぬるしていたとか。少しは、インドの味がしたのかな。ヒマラヤの万年雪をとかして流れるガンガーも、私達の観念から言えば少しもきれいではありません。それをヒンドゥの人達は、聖河と仰ぎ、聖水を頭からかぶり飲むのです。ガートへ行くまでに並んでいる店には、聖水を家に持って帰る容器がたくさん並べられていた。「ガンガー・ジャリー」といいます。聖水を持って帰ってみんなでいただくのです。日本の河に比べると、「きたない!」と言いたくなるけれど、そう言っている私の身体や心、腹の中は…噫。
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インド仏跡(5)「サルナート」(4)インドの至宝

◆アショーカ王石柱◆

  さて、この地でも、アショーカ王石柱が出土している。現存は、直径約70センチ、高さ約2メートルの基部のみ。しかし、頭部は背中合せの四頭のライオンは、サルナート考古博物館でじっくりと観ることができました。

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「何人といえど、僧伽を破るを(得ず)。比丘もしくは比丘尼にして、僧伽を破るものには、すべて白衣をきせしめて、精舎ならざる処に住せしむべきなり。かくのごとく、この教勅はこれを比丘僧伽ならびに比丘尼僧伽に告知せしめざるべからず。…」(宇井伯寿博士の訳)と、ブラーフミー文字で刻まれる。

◆州立考古博物館◆

 玄奘三蔵はサルナートについて次のように記している。
「鹿野伽藍は八つの区界に分れ、それぞれ、垣根をまわし、軒をつらねて、幾層も重なった高閣があり、たいへん美しい。そこには1500人の僧が、小乗正量部の法を学んでいた。大垣の中には、高さ60mぐらいの精舎があり……中には銅造の等身大の転法輪像が安置されている」と。ところが、 この地も13世紀ころからイスラム教徒に徹底的に破壊し尽くされる。発掘作業の様子が写真展示されているが、なかなか荒廃ぶりはすごいものであった。

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  しかし、いまは、発掘された出土品が、この博物館に年代順に整理されている。この博物館は、小さいがインドでも重要な博物館の一つで、インドの国宝が目白押し。
 中でも「初転法輪像」はインドの至宝の一つ。素晴らしい!

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 ほとんど拝観者はおらず、独占状態で拝ませてもらった。あるゆる角度から写真撮影。下は、台座部分の五比丘と母子像、鹿も描かれる↑。

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 先程のアショーカ王石柱の頭部。背中合せの四頭のライオン。ほんとうに素晴らしい。アショーカ王が仏法の実践と宣揚を願い,法勅を刻んで国内各地約 30ヵ所に建てたという石柱で、現在は十数基が確認されている。今回の旅では4箇所で拝見。高さは 10~13m。一本石 (モノリス) を用い,表面を美しく研磨している。柱頭には4頭の獅子が背中合せに跪坐する。他に獅子、馬、牛など、4聖獣が刻まれる。それにしても、紀元前3世紀のもので、いまから2400年前!のものとは思えないほど、美しい輝き。

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 釈尊八相図(このうちの七大聖地を訪問)↑

 2世紀ブッダ像も有名。菩薩という説もあるが、仏像のきわめて初期の逸品。天蓋も巨大だ!

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石版の文字が模様のようだ。↓

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これらを間近に、しかも写真が撮り放題。仏教関係のものはすべてカメラに収めて、紹介しきれません、実は、39年前も写真OKでした、より体系的に展示物が増えている感じた。11年前の旅では休館日で中には入らず。それにしても、最初の訪問地のサルナートだけでも、こんなになってしまいました。これでも6分程度に抑える? これからがたいへん。以降は手抜きします。

 

 

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インド仏跡(4)「サルナート」(3) ダーメク・ストゥーパでの輪読

 ◆ダルマラージカ・ストゥーパ◆
 石柱の南側に、アショーカ王によって建立されたと思われるダルマラージカ・ストゥーパの址(あと)。

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 このストゥーパは、創立当初は直径13mで、後世に6回も増広されて壮大な塔となり、7世紀にこの地を尋ねた玄奘三蔵様は、「アショカ王建立のストゥーパは、基壇は崩れ傾いているが、いまも百余尺の高さで、前に70尺余の石柱がある」と記している。しかし、1794年、ヴァーラシー王のディワーン(廷臣)によって完全に破壊。頂上から約8メートルの場所から発見された石箱に収められた緑の大理石の舎利容器の遺灰も、ガンジスに流されてしまうのでした( ;∀;)。もし釈尊の遺灰だったとしたら、残念なことです。

 ◆ダーメク・ストゥーパ◆
 さて、今日のサルナートを象徴する巨大な塔はが、ダーメク・ストゥーパ。

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  基部の直径約28m、高さ43mもあり、威風堂々としている。マウリヤ期の創建とされ、粘土と煉瓦づくりの形を、グプタ朝時代に美しい模様や文字が刻まれた石で覆われている。遠くからは分からないが、近づくと紋様がとても美しい。

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ストゥーパを調査したカニンガムは、頂上より90㎝下に、6~7世紀(一説に3~4世紀)の文字で、「諸法は因より生ず」と記した石板を発見。これは律蔵に出る「すべてのものは因縁によって起る。ブッダはその原因と、その減肅を説く」からとられたものと考えられているが、未だ謎の部分が多い塔だ。

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   今回も、このダーメク大塔の下で『讃仏偈』の勤行。その後芝生に車座になり『子どもの聖典』の「おしゃかさまの一生」を輪読。先程は、野生司画伯の絵画を通して「お釈迦様の一生」を窺い、今度は、子ども向けの文章で、80年のご生涯とそのみ跡を頂いた。これからの旅の指針である。色とりどりの鳥たち(野生インコ)やリスたち走り回っていて、法座が始まると集まってきたのが不思議。感銘深いものがあった。

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香堂址↑

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インド仏跡(3)初転法輪の地「サルナート」(2) 迎佛塔

  一旦、ベナレスに戻ってホテルで昼食。再びサルーナトを訪れる。まずは、◆迎佛塔(チャウカンディー塚・フマユーン塔)◆
 鹿野苑の少し手前、左側に八角形の塔のある小高い丘が、チャウカンディー塚・迎仏塔と呼ばれ、5人の比丘が釈尊を迎えた場所だ。土の丘のように見えても、下から煉瓦を積みあげ、丸い鉢を伏せたように作られている。塔の上かちは公園のように美しく整備されたサルナート全景が一望できるが、今回は入場料高騰につきパス。最初のインドの旅では、この上に登って撮影した。 ただし、頂上の八角塔は、ムガール王朝最盛期の1588年にアクバル大帝が、その父フマユーン帝を記念して建てたもので、もともとの仏教の迎仏塔が占領されてしまったのである。

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(釈尊と五比丘)
 五人の比丘は、近づいてきた釈尊を見て、「友よ、あそこにシッダールタがやって来る。彼はぜいたくで、努め励む心をすておごりに走った。そんな彼にこちらから挨拶したり、出迎えたりする必要はない。彼の衣鉢を受けとるべきではない。席だけは設けてやってもいいだろう」(『ヴィナヤ』大品)。
 しかし、釈尊のあまりにも堂々と威厳に満ちた姿にうたれ、衣鉢を受けとり、座に案内し、洗足の用意をし、釈尊の名を呼び、“友よ”と呼びかる。
 釈尊は、「比丘たちよ、如来に対して呼びかけるのに、名前を言ったり、また、友よ、などという呼びかたをしてはいけない。如来は、供養を受けるにふさわしく、正しくさとった者であるからだ」と。 
 そして、いよいよ説法の地、サルナートへ。

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 ◆鹿の園(鹿野苑)◆ 
 サルナートは、「サーランガ・ナータ」(鹿の王)の省略形に由来します。考古学的発掘の結果、マウリヤ王朝(前3世紀)から、シェンガ期、クシャーナ期、グプタ期、パーラー期を経て12世紀に至るまでの、1500年におよぶ、ストゥーパ・僧院造営の歴史が明らかにされている。今は、緑豊かで、静かな公園として整備されている。とにかく気持ちがいい。この鹿の園の由来は、ぼくもよく如来様の慈悲のたとえとして法話させてもらう「六牙の象の王様」と同じ話で、「黄金に輝く鹿王」の話に由来する「ジャーターカ物語」からだとも言われています。

(最初のご説法)
 さて、五比丘たちに釈尊は、「四諦・八正道」(子どもの聖典・45・47頁参照)の教えを説かれた。その説法を、彼らは歓喜して信受したといいます。
 そして、その5名のうち、まずコンダンニャ(阿若驕陳如・了本際)が、「生ずるものはすべて滅するものである」という真理に達した(四沙門果の第一、預流果か)。釈尊による五比丘への指導法は、比丘が2名か3名が順に托鉢を行い、残ったものが聴聞するという方法で、6名の合宿方式で続けられる。コンダンニャに続いて、ワッパ(正願)、バッディヤ(正語・十力尊者)、マハーナーマン(大号)、アッサジ(仁賢・後にナーランダーで舎利弗・目蓮尊者をご教化)の4名が、次々と悟りを得て、五名はすぐに阿羅漢果に達し、ここに釈尊を含めて「六名の阿羅漢が誕生した」と言われている。この一名の師と五名の弟子ではなく、「六名の阿羅漢」という表現こそ、仏教の平等性ではないでしょうか。[( )内の名前は『大無量寿経』の名前]。
 そして、ついにここに「仏(ブッダ)法(ダルマ)僧(サンガ)」の三宝が揃ったのです。仏教が仏教となったのは、釈尊の誕生でも、また成道(お悟り)でもありません。「仏法僧」の三宝が揃ったことで、仏教が誕生したのです! 彼らは初期仏教教団を創設し、これから北インド各地で伝道活動に邁進し、教えが広がります。釈尊の人生の四つの転機の一つで、四大聖地の一つなのです。

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インド仏跡(2) 初転法輪の地「サルナート」(1) 根本香積寺

  早朝、空路デリーからベナレス(ヴァーラーナースィ)に入って、最初の仏跡地、郊外のサルナート(迎仏塔、ダメーク塔、根本香積寺、州立博物館など)へ

●ムガランダ・クティ寺院(初転法輪寺。根本香積寺)●

 まず最初の訪問地は、サルナートにあるスリランカ寺院。

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 1931年に、スリランカに本部のあるマハーボディ・ソサイアティ(大菩提協会)が建立し「初転法輪寺」とか「根本香積寺」と呼ばれている。しかし、ここが有名なのは、日本人画家の野生司香雪(のうずこうせつ)画伯(日本画)が、協会の要請に応えて、昭和7年11月から4ヵ年かけて、26場面の「釈尊の伝記」が壁面に描かれているからだ。制作には、大変なご苦労があったそうです。
 現在は、修復・保存が続けられていた。トラベル・サライさんも尽力されておられて、ぜひ、皆様にも協力をお願いしたいとのことだ。

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 野生司画伯の絵画を通して、「お釈迦様の一生」を尋ねた。これからの仏跡の旅の出発点に相応しい内容。

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 寺院の回りを散策すると、お釈迦様と五人の比丘の像。前回はなかったので、今回、初めてみた。想像以上に大きなものだが、作品にはかなり違和感。それでも、最初の全体写真をここで撮った。 

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 サルナートは、釈尊が最初の説法の地で、仏・法・僧の三宝が揃った、ほんとうの意味で仏法の始まりの聖地だ。ここに行く前に、ちょっと時計の針を、成道の時にまで戻します。

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(梵天勧請)
 菩提樹下で悟りを開かれた釈尊は、それから七日間は、そこに坐したまま、自ら悟った法を楽しまれたと言う。そして、自ら悟った真理はまことに深遠で難しく、一般の人々にとうてい理解されないのではないかと、伝道・説法をためらわれる。しかし、三たび梵天勧請がくり返され、ついに、釈尊は生きとし生けるものへの、あわれみの心で世間を見て、「甘露(不死)の門は開かれた。耳ある人は聞け、己が過去の信(古き信仰)を捨てよ」と、伝道を決意される。
 
 最初、釈尊は、かっての師アーラーダー・カーラーマとウッダカ・ラーマプトラに伝えようとされるが、直前に二人が亡くなられたことを知り、苦行を共にするも、釈尊がネーランジャラ河で沐浴し、スジャーターから乳粥を受けとるのを見て、「ゴータマは堕落した!」と立ち去った五人の比丘に教えを説こうと、ベナレス郊外のリシ=パタナ(仙人住処 サルナート)へ向かわれるのです。

 最初の日の夕方、苦行派のウパカに出会われる。ウパカは一目で釈尊をただならぬ人と見抜き、出家の目的、師匠の名前などを尋ねた。釈尊は、「わたしは一切を知った者である。一切のものごとに汚されていない、妄執から離れた解脱者である。わたくしに師はない。わたくしが世間で唯一の正覚者である。もろもろの煩悩を捨て去った者は、わたくしと同じく世の中の勝利者である。迷いの世界において甘露の鼓をうち、法輪を転ずるために、わたくしはカーシー(ヴァーラーナースィ)の町へ赴く」と。
 しかし、この言葉を聞いたウパカは、「尊者よ、そうかも知れない」と首を振りつつ、別の道を行ってしまいます。

 まずカーシー(ベナレス)に着かれた釈尊は、午前中に托鉢、食事の後、リシ・パタナ(サルナート)へ向かわれます。

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インド仏跡の旅(1)インドへ

    11年ぶり、3度目のインド仏跡巡拝の旅に出発する。

 当初は、関西空港からエア・インディアを利用する計画だったが、就航便が休止状態で、成田空港からのANAに変更となった。それで、伊丹集合は関西を中心に半数で、。九州、東海や関東の方は、直接、成田空港の搭乗口前でお会いする。
 総勢21名の旅。初めてお会いする方が2名、10年以上ご無沙汰の方が3名、これまで京都の会館にご縁のない方など、かなり新鮮な顔ぶれである。

 もちろん単なる観光旅行ではない。仏跡巡拝の旅だ。それだけに一味の旅の仲間との友好も大切だ。それで、旅のテーマの一つはに、「ONE TEAM」をあげた。たった10日間でも、飛行機もバスも一蓮托生の21名。ここで一緒に旅をするのも何かのご因縁であろう。「積極的に参加者全員にお声をかけしまょう」というミッションを出しておいた。どうしても、夫婦や友達、仲間だけで集りがちになるからだ。しかし、この心配はすぐに解消された。特に女性陣は、アッと言う間に仲間になっておられた。年齢的には、40代が1人、70代が2人で、後は、60代前半から50代と近く、いろいろなところで同級生も多かった。おかげで、終始、和気あいあいとした雰囲気で、いいチームでの旅となった。これは良い旅行の一番の条件である。
 
 さて、お昼過ぎに伊丹空港を出発して成田空港へ。そこから、インド・デリー空港(インディラ・ガンディー国際空港)へ、約6000キロを、10時間以上の飛行だ。深夜の00時(日本との時差、マイナス3時30分、日本時間なら午前3時30分)に到着予定。今回の旅は、交通移動は満点といっていいほど順調で、行きも予定より30分早く到着した。

 快適なフライトだった。といいたいが、アルコールを飲んだ後、飛行機が揺れたこともあって、とても気分が悪くなった。何度もトイレに立つ。吐き気にインドを前に心配わ募る。幸い、地上に着いたら、すぐに納まって一安心。乗り物酔いもあったのだろう。
 が、ここで、いきなりボカ発覚。飛行機の座席ボケットにカメラを忘れていたのだ。しかも忘れ物にも気付いていなかった。荷物の受取を待っていたら、ANAの現地職員が届けてくれた。本人も自覚がないのに、このスビード感にびっくり。さすがにANAの職員。インドでも社員教育が行き届き優秀だ。ありがとう。

 今回は、積極的にシャッターを切った。デジカメなればこそ。10日間で撮った枚数は、2800枚を超え、連れ合いにあきれられた。もしここでカメラを忘れていたら、一眼レフをもう一台もっていたとはいえ、がっかりするところ。しかも、デジカメはフラッシュが故障して、1週間前に、新品に交換されたばかりだった。カルマがよかったとしかいいようがない。

 デリーは霧雨だった。2日間連続の雨で、道はぬかるんで水たまりができていた。この時期にしては珍しい。しかも予想より肌寒かった。深夜でも車多かった。1時すぎにホテルに入った。都会のホテルは、入り口で荷物検査と、身体検査がある。

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 せっかくのインド1日目だが、今夜はシャワーをし、2時間程度の仮眠をし、明朝は4時30分起き。国内線でベナレスに向かう。テロの関係で、国内線のセキリュテイも厳しい。ほんとうのインドは明日からである。乞うご期待。

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 伊丹にある公園の日本。3年前、近くのホールで同人のお葬式
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 ニューデリーは38年ぶり。ずいぶん様変わり
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せっかくのホテルも短時間で出発

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東海支部法座~浄土真宗に帰すれども~

「愚禿悲歎述懐」和讃の前半、機相の悲嘆の6首を、前半の3首(機根の不実)、後半の3首(如来の願船」)としていただく。

 冒頭のご和讃

「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」

とある。この「浄土真宗に帰すれども」の一行が尊い。帰するとは、帰命する、帰依することである。一般の教えなら、何かに帰依したならば、努めて煩悩を廃し行や徳を成していくのが当たり前である。ところが、浄土真宗のお法りは違う。この場合の浄土真宗は、宗派、セクトとして浄土真宗ではなく、大無量寿経に説かれた選択本願、すなわち、南無阿弥陀仏によって凡夫が仏になっていく真実の道を指している。その真実の浄土真宗に帰依しているのにも関わらず、この身には、真実心も、清浄心も、微塵もないというのである。

 普通は、少しぐらい自分の中に、真実や清浄のかけらを見つけたいものだ。そして、それを伸ばししていく。またその真実を信じてたよりにしていきたい。ところでじる。まったくお恥ずかしいことに、私には真実心も、清浄心も、そのかけらさえもまったくないといわれるのである。それを「心」というレベル。すくに宗教という心の持ちようくらいに考えてしまうが、ここでは「身」というレベルまで掘り下げて聖人は味わっておられる。この場合の身には、単なる心と体というレベルではなく、心も、体も含めた「身」としかいいようがないレベルで、もうどうしよもない虚仮不実の身だと押さえておられるのだ。(6首のうち4首までは「身」と示され、最後の3首、6首目は対応するよにう「こころ」と示されている)

 しかも、その身を知らされるのは真実である浄土真宗に帰したればこそでである。ここは、よく聞き間違えをされるところだ。法によって照らされた機(私の方)の真実なのに、自分で自分が分かっているかのように錯覚する。しかし、決して自分で自分を否定しているのでも、自己嫌悪でもないのだ。この懺悔もまた浄土真宗に帰してこそ現われてくる、仏智によって照らされて知らされた、まさに如来様の目に移った真実の私の姿にほかならない。つまりは、これも他力回向の賜物である。いうならば、浄土真宗に帰しているにもかわらず、なんというお粗末であろうかという懺悔の一面と、浄土真宗に帰したればこそ、真の姿をお教えいただけるという歓喜という両面があるというのである。

 機の不実、いいかえれば、法に照らされて明かになった機の真実3首と、法の真実、如来回向の願船の3首を、かなりつっこんでお話させていただいた。ただ、座談会の大半が、表面的な言葉のやりとり、枝葉末節なところで終始したのは、これからのお育てが大切なところ。簡単にはいかない。

 もう一つ、インド仏跡をご一緒した方々のインド熱がまだ冷めず、ずいぶん昂揚した尊い話が聴けたのは特筆していい出来事。とても有り難かったです。

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58歳

 今年は、記録的な暖冬でスキー場にも雪が降らない異常気象だ。しかし、インドから帰国したら本格的な冬になっていて、空港では寒さに震えた。やっと平年並で、寒い日が続いている。

 2月10日、58歳の誕生日。寒いこともあって、鍋を囲みながら、ワインをあけて、誕生日のお祝いをしてもらった。

  例によって母が言った。

 「あんた生まれた時も、今日みたいに寒かったなー。昼過ぎだったけど、雪がチラチラ舞っていたわ」と。

 そして、これも例によって、ぼくもそれをだだ聞かせていただく以外にない。
 自分の生まれた時のことなのに、同意も、反論も何もできない。ただ母の話を頷いて聞くしかない。もし他にあるとすれば、産んでもらったことに一言。

 「ありがとうございます」。

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福岡家庭法座

1月の東京支部法座を終え、すぐにインドの仏跡の旅に出かけた。帰国後も、すぐに福岡での家庭法座、東海支部法座と続く。

  我ながら、タイトな日程を組んだものかと思ったが、なんとなく自信もあったのだ。

 幸い体調は大丈夫だった。仏跡巡拝のハードな日程、香辛料たっぷりのインド料理、胃腸が強くないぼくとしては、下痢や腹痛の心配した。ホテルの料理は外国人向けなのかとてもおいしかった。しかし、念のために腹8分目、最初は腹6分目に抑えた。さらにうがいも水道水使わず、氷や生野菜もほとんど食べないようにした。おかげで、下痢することもなく、連日アルコールも飲むこともできた。ただ揺れるバスや飛行機で爆睡する連れ合いを横目に、移動での睡眠はあいかわらず苦手だ。それでも体調も崩すことなく、元気に帰国できたおかで、法座に臨むことができた。

 福岡家庭法座の初日の夜は、「しゃぶしゃぶ あり田」でのご馳走が恒例だ。これもおいしく頂けた。その後、ご自宅で呑み直し。こちらも最後までつきあえて、体調の方はOK。ただ酒席の話題がねえ、、このあたりはお互いさま、どうかほどほどに。

 まだインドの高揚感が残っているのが、法話や座談にも力がはいった。
 時代を越えて、国を越えて、また形を越えて、この令和の時代に、この日本の片隅で、お釈迦様がお悟りになり、お伝えてくださり、そして釈尊亡き後に、真の意味で仏教か誕生して以来、脈々と受け継がれ伝わってきた真実が、弥陀の本願となって、この私のこの胸にもイキイキと息づいてると思うと、いい加減なお取り次ぎはできないのである。自分の小さな殻に留まっておられる方には、どうかそこを、一歩踏み出してもらいたいの想いが強く、少々強い口調にもなってしまった。もちろんは焦ってはいけないし、分からない人は分からないのだが、せっかく宝の山に入なりがら空しく帰ってもらっては、あまりにも勿体ないのである。もっとも、こちらの思いとは別に、ご本人は案外ケロッとしておられる。ほんとうに極難信の法である。「法蔵菩薩のご修行」と題して法話であったが、今もまだ、法蔵様に修行のやり直しをさせているのだと思うと、ほんとに勿体ないことである。
 
 いろいろと小さな想いが去来したので、帰路の新幹線でメモをした。ツイッターのように短い断想を、このブログにもちょくちょく綴っていこうと思っている。

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インド仏跡巡拝から帰国

インド・ネパール仏跡巡拝の旅から無事帰国しました。21名、皆さん元気に帰国できました。

毎朝5時起き、次の仏跡地まで、8時間の悪路のバス移動。なかなかハードな旅。途中、下痢や腹痛などの体調不良もの数名おられましたが、重症の方はなく、大半が元気に過ごせました。中には、日本にいるときより元気だとか、食事が美味しくて太るのではなど、日本より好調という方もあったほどです。

初めての方や非同人の参加もありましたが、すぐに21名が、フランクで、one teamになって、わきあいあい、楽しく、そして有意義な旅となりました。もちろん、七大聖地などでは、勤行や法話もあり、インドの仏跡地にお念仏が響き渡りました。皆さん大感激で、これから支部法座などでも、不参加の方が嫉妬するくらい、いきいきとした感想が語られると思います。また次号は華光誌に特集号を組む予定です。

もちろん、ブログでも順次旅行記をアップする予定。お楽しみに!

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