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少欲知足

 修正会で、頭陀行や五観の偈の法話をしたが、「食」について、正月ほどその浅ましさを実感させられることはない。三ケ日は御馳走三昧だった。いや正確には、正月だけではない。日常生活の中でも、御馳走に囲まれているのである。それでいて足りることを知らない。五観の偈の第三番目には、上食(御馳走)には貪欲を募られ、下食(粗食)には愼恚を起し、中食(普通の食事)には愚痴が起こるとある。
  
 修正会が終わって、今年は先斗町で御馳走をいただいた。その後、義兄と、連れ合いと一緒に、もう一軒、水族館のようなBARで飲んだ。法話の後なので、食のことがひっかかりながらも、御馳走を前にし、アルコールをいただくと、ただ「おいしい」とか「珍しいな」と喜んで食らうだけの、餓鬼や畜生となってしまう。まさに、上食(御馳走)には貪欲の姿である。

 結局、凡夫の身は 死ぬまで「無欲」にはなれない。がしかし、そうだといって、開き直って垂れ流しのままでいいのか。せっかく、「食事の言葉」をあげているのだ。「無欲」にならなくても、一旦立ち止まった、「少欲知足」のお心を考えてみた。

 「欲は少なく足ることを知って、貪り、怒り、愚かさ(三毒の煩悩)を離れていた」。

 法蔵菩薩様の兆載永劫のご修行の中のお姿である。

 悲しいことに、凡夫の身は死ぬまでこの欲から離れることはできない。しかしその時に、「足る知る」という言葉は、尊いことではないか。満足することのない、もっともっと欲望を募らせるばかりの私達。結局、その元は、満たされなさ、欠乏感、そして大きな不安があるからこそ、貪求していくのであろう。この肉体を持つかぎり、煩悩は消し去ることはできない。しかしである。法の上では、唯一満ちる世界があるというのだ。決して、私の力に寄るのではない。阿弥陀様から回向される南無阿弥陀仏のお功徳が、無漸無愧のこの身にも満ち満ちてくださるのである。南無阿弥陀仏ひとつで、大満足する世界。まさに「足るを知る」世界がある。それは、阿弥陀様が、「欲は少なく足ることを知って、貪り、怒り、愚かさを離れて」くださった積み上げたお功徳を、南無阿弥陀仏として成就したおかげというしかないでのある。南無阿弥陀仏

 

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