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報恩講法要法座

「もしそれ知識の教えなくば 永久の闇路にまどいぬらん」

 最後に声高らかに「報恩講のうた」を唱和して、今年の華光会の報恩講法座も終えた。

 ここでの「知識」とは「善き知識」である親鸞聖人のことである。もしご開山(親鸞様)のみ教えに出会うことがなかったならば、私は、ただ苦から苦へ、闇から闇へと生死(しょうじ)の苦海を漂い続ける、哀れな身であった。私の迷いが深いのは、自分自身が闇路を迷っている身であることを知らないことだ。つまり、迷いを迷いと感じていないのである。

 「抜苦与楽」(苦しみを除き、楽を与える)-これが仏教の金看板の一つである。しかし、この場合の苦しみとか、楽しみとは、私がとられているものと同じではない。私も苦があると感じているが、私が苦しいと歎いていることは、必ずしも仏様が指さしくださる苦しみではないのだ。私の苦とは、自分の思いどうりにならないことを苦しみといっているので、自分の願いがかなっている時は楽しくてしかたない。欲しいものを欲しいと貪欲を募られ、それが手に入れば満足し、手に入らなければ怒りに狂い、苦しいと思うのだ。嫌なものが近づくと、それを避けたい。嫌なものが近づき、好きなものが遠ざかるだけで、いかりの心を募らせるのである。何事も、自分の願いどおりにしたいだけなのだ。
 たとえば、好きな人と、楽しい場所にいき、そこで御馳走やお酒を飲み食いし、豪華な温泉に浸かっている時に、「人生は苦だ」と嘆くことはない。きっと「ゴクラク ゴクラク」と幸せや喜びに浸るだけだ。しかしである。私が喜び、浮かれている姿こそが、実は「苦」のもとで、それが迷いの姿なのだと、仏様は指をさしておられる。そして、仏様がくださる「楽」とは、私の欲望を満たすような、ちっぽけなものではないのである。

 しかし、悲しいかな、仏様の教えに出会わなければ、私はその姿こそが迷いの根源でだとは、絶対に気づくことがない。つまりは、そんな自分中心で、自分のことしか考えられないものこそが、ご本願のお目当てであると、親鸞様のご出世によって、その身をもって示してくださったおかげがなければ、私は、いまもまだ、真実に昏(くら)く、迷いを迷いとも分からないまま、闇から闇へとへ巡りつづるだけなのだ。

 いろいろなことが人生にはある。しかし、この真実に出会えた喜びを、ほんとにう喜べなければ、こんな虚しいものはない。仏法に出会えば、真実の教えに出会えば、ほんとうに、「わあー!よかった!」という目覚めをさせてもらえるのである。そのご恩徳の高さ、深さに、ただ勿体なく、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の喜びしかない。南無阿弥陀仏

 

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