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2020年1月の8件の記事

盛り沢山の東京法座

 東京支部法座、とてもよかったです。

 20代の初参加の方が、二人。対照的な感じでしたが、真面目に、仏法を求めておられる姿は、尊く思いました。また、長年、ある会で聞いてこられて、友人と一緒、参加された方も、積極的に質問されて、その姿勢はすごいとは思いましたが、あまりにも原理的というか、教義や理論先行で、肝心の自分のところが抜けているのが、勿体なくおもいした。もっとも、ご本人は、真剣なので、自分事として求めておられるのでしょうが、肝心の主人はお留守で、番頭ばかりが質問するという典型的なケース。なかなかそれを捨てるのは難しいですね。

 押すだけが能じゃなくて、一度引てみるのも、一歩踏み出すことです。ここはそういうご教示がないと難しいところです。

 どの法座も、真剣に問う人、逆に、こちからは、相手の想いを越えて関わる人もあって、活発な法座になったのではないでしょうか。新しい血が交じると、活性かされていきます。しかし、求め、捨て、転ぜられるというけれど、求めるところまではお育てをいただいても、捨てるというところが、一大事です。どこまで役に立たないわが身をあてに、聴聞し、そしてそこからどんなに真剣に問を発しても、その問い自体が無意味なのですが、そこが捨てられない。あの手、この手でアプローチしてみたけれど、それが回りの方ご縁になったのではないかと思いました。

 いろいろと触れたいけれど、今回はこのあたりで。これからが非常に楽しみです。

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こころはインドに遊ぶなり

 随分、ご無沙汰している。
 
 報恩講のあとも、「輪読法座」、広島での年忌法要を兼ねた「法供養法座」と法座があったが、「同人会ニュース」の発行や役所の提出資料など、1月中旬は、恒例の事務作業が続いた

 今年は、月末にインド旅行が控えている。それまでに片づけおかねばならない仕事もある。加えて、あっちこっちと修繕(こんどは電化製品やトイレが壊れ、車の修理など,)で、予定外の時間をとられて、かなりバタバタとしている。

 でも、一番大変だったのは、インド旅行の旅のしおりを作ったことだ。実は、前回(第3回)、第2回の池永先生にならって、旅のしおりが作った。たいへんだっのを覚えいるので、今回は、少し早めから取りかかった。ところが、前回とはコースが違うので、一からのとこも多い。何よりも、まだ前回の想いが残っているので、どんどん詳しくなって、ページ増えていく。文章だけならあきるだろうと、地図やカットもいれた。PCの都合で、それらを別に張り付けるというアナログのやりかたである。10日間、「おはようこざいます。昨晩は遅い到着となりましたね。今日は、仏跡地が2箇所もある濃厚なコースとなります」といった調子で、バスはどの道を走り、どの程度、かかるのか。7~8時間の移動はザラなので、そんことにも触れて、各仏跡のあらましや見どころ、地図、そしてお釈迦様の足どり(特に、フッダ最期の旅のコースをたどるので、それにもとどく)などに触れていった。そんな調子、最後の10日目まできたら、「とうとう旅も最後となりました。お疲れさまでした。たいへん意義深い旅となりましね。最後の一言、皆さんにお伝えしておきたいことがあります」などと書いていくと、なにやらほんとうに10日間、リアル旅をした(前回の想いが甦るということもあって)かのように錯覚して、「ああ、よかったな」と思わず、感激してしまったのである。

 まあそれだけの力作、自信策である。あとのコピーや製本は、連れ合いにお願いして、これから東京支部法座に向かう。今回も、新しい参加者が申し込まれている。お参りも多いと聞いている。「こころはインドに遊ぶなり」だったが、もう一度、気合を入れなしてた。

 

 

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報恩講法要法座

「もしそれ知識の教えなくば 永久の闇路にまどいぬらん」

 最後に声高らかに「報恩講のうた」を唱和して、今年の華光会の報恩講法座も終えた。

 ここでの「知識」とは「善き知識」である親鸞聖人のことである。もしご開山(親鸞様)のみ教えに出会うことがなかったならば、私は、ただ苦から苦へ、闇から闇へと生死(しょうじ)の苦海を漂い続ける、哀れな身であった。私の迷いが深いのは、自分自身が闇路を迷っている身であることを知らないことだ。つまり、迷いを迷いと感じていないのである。

 「抜苦与楽」(苦しみを除き、楽を与える)-これが仏教の金看板の一つである。しかし、この場合の苦しみとか、楽しみとは、私がとられているものと同じではない。私も苦があると感じているが、私が苦しいと歎いていることは、必ずしも仏様が指さしくださる苦しみではないのだ。私の苦とは、自分の思いどうりにならないことを苦しみといっているので、自分の願いがかなっている時は楽しくてしかたない。欲しいものを欲しいと貪欲を募られ、それが手に入れば満足し、手に入らなければ怒りに狂い、苦しいと思うのだ。嫌なものが近づくと、それを避けたい。嫌なものが近づき、好きなものが遠ざかるだけで、いかりの心を募らせるのである。何事も、自分の願いどおりにしたいだけなのだ。
 たとえば、好きな人と、楽しい場所にいき、そこで御馳走やお酒を飲み食いし、豪華な温泉に浸かっている時に、「人生は苦だ」と嘆くことはない。きっと「ゴクラク ゴクラク」と幸せや喜びに浸るだけだ。しかしである。私が喜び、浮かれている姿こそが、実は「苦」のもとで、それが迷いの姿なのだと、仏様は指をさしておられる。そして、仏様がくださる「楽」とは、私の欲望を満たすような、ちっぽけなものではないのである。

 しかし、悲しいかな、仏様の教えに出会わなければ、私はその姿こそが迷いの根源でだとは、絶対に気づくことがない。つまりは、そんな自分中心で、自分のことしか考えられないものこそが、ご本願のお目当てであると、親鸞様のご出世によって、その身をもって示してくださったおかげがなければ、私は、いまもまだ、真実に昏(くら)く、迷いを迷いとも分からないまま、闇から闇へとへ巡りつづるだけなのだ。

 いろいろなことが人生にはある。しかし、この真実に出会えた喜びを、ほんとにう喜べなければ、こんな虚しいものはない。仏法に出会えば、真実の教えに出会えば、ほんとうに、「わあー!よかった!」という目覚めをさせてもらえるのである。そのご恩徳の高さ、深さに、ただ勿体なく、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の喜びしかない。南無阿弥陀仏

 

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駆け込み寺(?)

 「仏書に親しむ会」は、唯一、平日の夜にある法座である。片づけを終え9時を回って、1階の事務所を覗くと、連れ合いが誰かと話いていた。相手は見えなかったが、参加者のお一人だろう。事務のTさんもまだ仕事中で、電話の声が聞こえている。

 何気なく事務所に入ると、連れ合いの前には見知らぬ初老の女性が座り、緊迫した雰囲気が漂う。がしかし、Tさんは、「ワハハハハ」と大声で笑っている。連れ合いには困惑の表情が。そして「死にたいです」という女性が話す。なんだ~この状況は? なぜ連れ合いが対応しているの? しかも一人は大笑いし、一人は泣き崩れ、そして困惑する者と、完全にカウス状態だ。
 
 「???」のまま、ぼくも座って、事情を尋ねる。女性は、初めての方だが、ご実家が同じ町内の方で、ぼくもそのお家は知っていた。なんでも、夫のひどいDV(家庭内暴力)から、家を飛び出して、足の向くままくると、知らぬ間に実家の方に向いていたという。しかし、いまは、代替わりで、彼女の住んでいるところ離れている。がしかし、ひどい暴力に堪えかねて、もう死のうと思っていた時に、華光会館の明かり見えて思い切って飛び込んできたという。たまたまTさんも大切な電話中で、そのことに気づかず、連れ合いだ対応したのだ。

 これも何かの縁だ。彼女の話を、徹底的にお聞かせに預かった。この場合、仏法の話も、アドバイスも一切なし。ひたすら気持ちに沿いながら傾聴させてもらった。1時間以上、彼女は話しつづけた。現状から生い立ちにも戻り、女の一代記、また父親が済州島から日本に渡ってきた経過なども話され、最後は現状の苦しさに戻っていくの繰り返しで、吐き出すだけ吐き出された。顔色も、どんどんよくなってくる。が、しかし、このまま帰っても、また暴力が続くだけで、何の解決にもなっていない。以前にも、フラフラ川沿いを歩いていて警察に保護されたこともあったという。しかし、そこから先が進まず、同じことが繰り返されている

 そこで聞くだけ聞いて、最後にインテークして、専門の機関に相談してきっぱりと対処することをお勧めした。当面は、以前、保護された警察署の担当者のところに行く決心をされた。幸い、ここから歩いて5分もかかならい。最後は、「ありがとうございました。身も知らずのものなのに、こんなに話を聞いてもらったことも、話したことも生まれて初めてです。死のうと思っていたことも、落ちついてきました。これから警察に行って相談します」と、近くの警察署に向かっていかれた。

 今夜ほど、カウンセリングの勉強が活きたこてはない。聞くことの力を強く感じたのである。南無阿弥陀仏

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仏書に親しむ~『仏敵』第四章・第五章~

 『仏敵』の第四章「学園を乱すもの」(3)(4)と、第五章「火中の清蓮華」を輪読する。

 第四章は、佛教(現龍谷)大学の学生が、自らの悩みや教壇の現状を語り合う。真面目な学生たち(後の桐溪和上も含まれているという)の告白だが、カントやマルクス、大乗非仏説といった話題も含めて、当日の学生たちの悩みが語られる。一方、第五章では、無碍に念仏を喜ぶ、田舎の一文不知の老若男女の体験告白である。学生たちの話題が観念的な机上の空論に近いものだが、しかも深刻な雰囲気が漂っているのに対して、田舎の人々のなんとおおらかな腹底からの喜びであろうか。ここにいまも、華光に流れる喜びがあるといってもいい。「私が獲信したときは…」と、次々と不思議の仏法を喜びあっているのである。

 この対比が際立って、章立てが分かれているところを続けて読んで面白かった。中でも、野口道場に集う人達の短い言葉に感じるものがおおかった。

 ところで、このことなる状況の章を結ぶのは、伊藤先生がやり場のない寂しい心で口ずさむ「さすらひの唄」だ。一方は、同室の北村君の挫折の後、京都の街を徘徊する中で、もう一方は、野口道場の驚きの光景に触れて、まっ暗な田舎の道である。

 古い唄で、大半の方はご存じなかったが、参加者の中には、この一節を唄える方があって、驚いた。さっそくユーチュブで検索してみんなで聞いた。なるほど、こんな寂しい唄を口ずさみながら、伊藤先生は彷徨っておられたのであろう。これを知っただけも、急に親しく思えてきたのである。

 来月は休んで、次回は3月4日の予定です。

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少欲知足

 修正会で、頭陀行や五観の偈の法話をしたが、「食」について、正月ほどその浅ましさを実感させられることはない。三ケ日は御馳走三昧だった。いや正確には、正月だけではない。日常生活の中でも、御馳走に囲まれているのである。それでいて足りることを知らない。五観の偈の第三番目には、上食(御馳走)には貪欲を募られ、下食(粗食)には愼恚を起し、中食(普通の食事)には愚痴が起こるとある。
  
 修正会が終わって、今年は先斗町で御馳走をいただいた。その後、義兄と、連れ合いと一緒に、もう一軒、水族館のようなBARで飲んだ。法話の後なので、食のことがひっかかりながらも、御馳走を前にし、アルコールをいただくと、ただ「おいしい」とか「珍しいな」と喜んで食らうだけの、餓鬼や畜生となってしまう。まさに、上食(御馳走)には貪欲の姿である。

 結局、凡夫の身は 死ぬまで「無欲」にはなれない。がしかし、そうだといって、開き直って垂れ流しのままでいいのか。せっかく、「食事の言葉」をあげているのだ。「無欲」にならなくても、一旦立ち止まった、「少欲知足」のお心を考えてみた。

 「欲は少なく足ることを知って、貪り、怒り、愚かさ(三毒の煩悩)を離れていた」。

 法蔵菩薩様の兆載永劫のご修行の中のお姿である。

 悲しいことに、凡夫の身は死ぬまでこの欲から離れることはできない。しかしその時に、「足る知る」という言葉は、尊いことではないか。満足することのない、もっともっと欲望を募らせるばかりの私達。結局、その元は、満たされなさ、欠乏感、そして大きな不安があるからこそ、貪求していくのであろう。この肉体を持つかぎり、煩悩は消し去ることはできない。しかしである。法の上では、唯一満ちる世界があるというのだ。決して、私の力に寄るのではない。阿弥陀様から回向される南無阿弥陀仏のお功徳が、無漸無愧のこの身にも満ち満ちてくださるのである。南無阿弥陀仏ひとつで、大満足する世界。まさに「足るを知る」世界がある。それは、阿弥陀様が、「欲は少なく足ることを知って、貪り、怒り、愚かさを離れて」くださった積み上げたお功徳を、南無阿弥陀仏として成就したおかげというしかないでのある。南無阿弥陀仏

 

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修正会

 穏やかな元日となった。

 今年も、1日の修正会から新年の幕が下りた。

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 例年、修正会は、正信偈(行譜)、「現世利益和讃」、そして「御文章」(聖人一流章)を勤めさせてもらうのが、華光の伝統である。しかし、今年は変化を加えた。年末の「念仏と黙想と語らいの集い」でも勤行した、親鸞聖人の七五〇大遠忌法要に作られた「正信偈」と「音楽法要(念仏・和讃)」を勤めさせてもらったのだ。参詣者の中で、10日間にも勤行された方もあったので、概ねスムーズに進んだのではないか。雅楽や太鼓が入った華やかな音楽が、元旦に相応しく、華を添えたと思う。なんとなく、「2020年」と「令和」の初めてという気持ちがあったのかもしれない。来年からは通常の次第になるが、たまには変化も織りまぜていきたいと思っている。

 法話も、「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし」の御讃題。特に「衣食住の三は念仏の助業なり」に焦点をあてた。お念仏の上からは、衣食住もまた念仏の助けるための助業となるのだが、もし、衣食住の三つを、わが身を喜ばすための貪欲で求めるならば、それは単なる三悪道の業となるのだと。いまの私達はどうか。突き詰めれば、何のために生活をしているのか、何のための人生なのかということになる。そのことを、頭陀行(衣食住に関して欲望を棄てるために行う実践方法)の中の、十二頭陀行を解説し、「食」(じき)を中心に窺った。
 よく「生臭」というが、今は肉食や飲酒について指しているようだが、本来は、自分が食べたいものを選ぶ、つまり欲しいもの欲望のために食をするのことこそが、「生臭」のであるという。
 浄土真宗では用いないが、「五観の偈」(浄土宗のもの)をもとにそのおこころをいただいた。その2番目にはこうある。

  二つには、己が徳行の全欠多減(ぜんけつたげん)を忖(はか)

   つまりは、「自分の行いが、この食事を頂くにふさわしものかを顧みよ」というのである。
 こう問われると、グーの音も出ない。まったく無慚無愧のこのである。食を頂いてるのか、それとも貪り倉っているのか? お念仏に会わねば目も当てられないのである。南無阿弥陀仏

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恭賀新年

 恭賀新年

昨年は、いろいろとお世話になりました。特に修繕事業では、皆様のご厚情に御礼申し上げます。
今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

1月1日の元日は、午後から修正会を厳修いたします。どうぞ、奮ってご参加ください。

  弥陀大悲の誓願を
  ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
  南無阿弥陀仏をとなふべし(正像末和讃)

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