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西光寺報恩講(1)~本当のことを聞く~

朝一番で、華光誌同封の「年間行事表」の手直しをする。印刷所への渡しは託して、バタバタと西光寺の報恩講様に向かう。

昨年、一昨年は、4月の永代経にお招き頂いていたが、今年は、報恩講様である。報恩講は5年ぶりだ。3日間で、7座も法席がある。華光誌編集に追われて、法話の準備は十分にはできなかった。それでもこの1年の集大成だと位置づけ、最近の課題やテーマを中心にメモなしに臨んだ。それだけの経験は積ませてもらっている。

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教案はだいたい考えていた。だいたいというのは、参詣の雰囲気や顔ぶれによって、一部は代える可能性があるからだ。今回は、聖典講座の関係もあって、観経の「三心」(至誠心、深心、回向発願心)を一座(2席)ずつお取次ぎ。至誠心は親鸞様の「唯信抄文意」を、深心は「二種深信」、回向発願心を「二河白道の譬え」を取り上げた。これをひとつの流れの中でお取次ぎするのが、今回の要である。
至誠心は、真実心であるが、真実心であろうとすればするほど、虚仮不実の自己と出会わざるおえない。そこを善導ざまは、懺悔しつづけられるのであるが、その自覚が「機の深信」へとつながり、さらには、二河譬の「火の河、水の河」へとつながっていく。そこでは「火の河、水の河を消してこい」とは言われていない。むしろ、そこにかまわず、畏れず、一歩を踏み出せていう思し召しだ。「衆生の煩愼煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる」のである。

それには、ほんとうの自分を知らせてもらうしかない。自分のことは自分でわからない。それは、法の働きによる以外にはない。そこでお教えいただく自分とは、自分では目を背けたい事実である。ところが、不都合の真実を聞くことが、苦なのかというと、楽になれる道である、大逆転するのだ。迷いの人生とは、無人空迥の澤-たったひとりで、しかも真実を教えてくださる方に出会うことなく、死んでいくのである。どれだけ馬鹿騒ぎをしようとも、これほど虚しいことはない。ところが、仏法に出会って、自分に不都合なことでも、初めてほんとうのことを教えてもらえるのである。それは、「仏様が御覧になっている」ほんとうの私といってもいい。虚仮不実の迷いの中で、これまで誰も教えてくださらなかった真実に出会うのだ。これ以上の喜びはないではないか。同時に、それが聞けるとき、これほど楽になれる世界もない。バカをバカと聞ける、地獄行きを地獄行きと聞けるのである。もう代える必要も、飾る必要もない。そのまま願力に乗託するだけである。法の深信で「彼の願力に乗ず」とお示しされ、二河譬でも、二尊の意(おこころ)に信順して、水火二河を顧みないで、「彼の願力の道に乗ず」と示されている。白道とは「本願力の道」なのである。

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