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「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」~真宗者であることの自覚~

  華光誌輪読法座を終えて、夜は、真宗カウンセリング研究会の月例会へ。『育ち合う人間関係』を読んでいる。第3章の「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」。ビハーラ活動と題されているが、主に「真宗カウンセリング」とは何かが語られている。今日は、その最後のまとめで、真宗カウンセリングの実践的諸問題についてである。
 今年に入って、新会員が積極的に参加くださている。おかげで今夜もずいぶん活気のある集りになった。
  担当者も、6月に新会員になった方だったが、西光先生の深い文章と、自らの法の喜びとが相まって、力強い発表となってずいぶん刺激を受けた。ありがとうございました。
 さまざまな刺激の中でも、冒頭の言葉は印象深い。

「真宗者であるということは、他者による判定をまつのではなく、自覚の問題でなくてはならない。
 具体的に言えば、受け難い人身を受け、弥陀の本願に遇った喜びのあるもの。あるついは、真宗の教えに惹かれ、真宗念仏の本質を知ろうとして、聞法の姿勢を失わない人である」

 この「自覚」という言葉が響いてきた。もちろん、真宗安心の上では、用法に注意が必要な言葉ではあるが、結局のところ、真宗者であるというとこは、先生や資格、組織といった権威から認定されるものではなくて、自らの自覚、つまり「名告り」の問題になってくる。名告る、看板をあげる以上、その責任が伴うのだ。つまり他者の責任に転嫁するのではなく、自らが一人立ちするという厳しい面である。しかも、その自覚とは、わが身は、「罪悪深重の凡夫」であり「愚者」であるという、深い自覚でなくてはならないという、奈倉先生のご指摘に、頷くばかりであった。南無阿弥陀仏

 

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