華光誌輪読法座「平生業成の人」
今月は、誌上感話の「平生業成の人」~母の介護に思う~を、一気に読む進めた。筆者は、僧侶ではないので、法話ではなく感話とした。最初にご讃題がないし、まったく仏教用語も使われていない。しかしこれはもうご立派な法話としかいいようがない内容だ。
70代の後半で脳出血で倒れて、一命は取り留めるも、高次脳機能障害で介護が必要な母親の姿を通してのお味わいである。筆者は、ぼくとまったく同世代(同級生)なので、年老いた母に対する思いなど、とても共感されるもがある。またきれいごとではなく、はっきりと自分を出して語っておられのが有り難い。たいへんな深刻な状況であるのに、華光大会の時も、軽妙に、かつ明るくお話くださったことが、印象的にあった。
ところが、お参りの半数以上は、介護を受けているお母様(しかも1人を除いて女性だった)の世代なので、認知症とは異なるが、状態のありようには似ており、具体的な後遺症の有り様に、我が身の姿を見るようだという声が多かった。同じ文章でも、介護をする側、介護を受ける側で、関心や心が動く場所が違っているなだ。ここは自分ひとりでは味わえないところで、世代や性別も異なる方との輪読するメリットである。
それにしても、本文には一文も、「平生業成」の言葉はないのに、鮮やかに平生業成の心をお話くださっている。
ご法の上でも、世間的にも、立派なお母さんが、このような哀れな姿になったことを、「かわいそうだから、人前に連れてくるな」という同情(?)する人に対して、きっぱりと、母はまったくかわいそうな人ではない。後生の上では、はっきり行き先が決まっている幸せな人です。ただ、母は母の、ぼくはぼくの、それぞれの今生の業を果たしていかねばならないだけのこと。それそれでたいへんであっても、後生の定まったものは、それを受けていくだけのことである。大切なことは、いま、ここでお念仏に合せていただく以外にはないのだと。そして仏様からみれば、おかしいのは母ではなく、自分また同じものだ。迷っているとも、狂っているとも、哀れとも知らないで、もし仏法を聞くことがなければ、どこへ行くのか。だから、元気は、いま、ここでお念仏に会わせてもりましょうと。そんなお心が込められた文章だといただきました。南無阿弥陀仏。
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