念仏と黙想と語らいの集い~楽にお念仏~
今年も「念仏と黙想の集い」で、一年の法座を終えた。
一言、とてもいい集りだった。同時に、不思議な集りだと思った。これまで6回行っている。一同で、称名念仏をし、静かな時間を持ち、そして自由に味わいを語り合う。それから、和讃を一首、声に出していただいて味わう、というそれだけの集いで、普段のような法話はない。ところが、毎回毎回のセッションごとに、違った感じや味わいをいただくのだ。同様に、全体の眺めても、第1~6回で感じる印象が、また異なるのである。
一番大きな要員は、どんな顔ぶれが集まったかの違いにあると思った。今回は、初参加の方が多かった。華光にほぼ初めてという方もあった。それなのに、分かち合いの時間が積極的に動いていった。しかも、喜びを率直に表明することが多くなって、全体的にとてもイキイキした感じがしたのだ。すると、お念仏の声にも張りがあった。最初の5分間のお念仏からして、時間を長いと感じることがなかった。よく初参加の方は、「こんなに長い時間のお念仏は初めてで、長く感じた」というにうな声がでるが、今回は、「あっという間でした」という声が多かったと思う。それで、2回目からは長めにお念仏の時間をもち、最後は15分間の称名念仏で締めくくった。
そして、今回ほど、法語が尊く、実感として迫ってきたことはなかった。そうだ、どのお聖教の言葉も、お祖師方は、お念仏の声の中で、書いておられるのである。決して、頭で考え、コネ繰り回すのではない。そのままいただけはいいのである。長い称名念仏のあとで頂く、「現世利益和讃」がここでま尊く感じられたことはなかった。「横川法語」もまたしかりである。それはぼくだけの感じはないようだった。
2日目の昼座は、京都支部家庭法座との合同となったが、750回大遠忌で勤めた「正信偈和讃」の音楽法要を、一同で声に出していたいだたが、これもまた有り難かった。
結局、ただ座って拝聴するのではなく、参加者全員が、平等に声に出した。車座になり、一同で力一杯お念仏を称え、味わいを語り合い、そして和讃や勤行で、また声を出しった。同じ念仏の同朋として、アクティブに参画しているという一体感が生まれてきたのではないだろうか。
大きな声(といって怒鳴ったり、喚いたりではなく)で、力づらく、時には静かに称えさせてもらった。声がリズムとなり、また他者と音楽のように響きあって、とにかく心地よかった。「ああ、お念仏を申すことは楽しいな」、と率直に感じさせてもらう。そうだ、もっともっと気楽に、常もお念仏させてもらおう。仏法というと深刻に、また真面目になりがちだ。きちっとしないといけないという思い込みもある。でも、「胸の詰まるものかと思えば、御なぐせめられ候」である。その時その時、一声の念仏に集中して、楽に、楽しくお念仏をさせてもらえばいいのである。自力じゃ、他力じゃ、ご恩報謝だ、とこねくり回すから、声が詰まるのであす。ちょっこと目を開かせてもらった気がしました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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