大阪支部報恩講~親鸞様のご恩徳とは~
日曜日予定だったのを、他の地方法座の関係で二転三転して、平日に変更してもらった。大阪支部の皆様、ありがとうございました。平日にもかかわらず、お仕事を休んで参詣される方もあり、珍しい参加者もありました。
大阪支部の報恩講様なので、お正信偈から始まる。法話も、「報恩講の意義」について。報恩講とは、親鸞様のご命日を前に、「親鸞様のご恩徳を請(つまび)らかにする集い」という意味がある。では、その親鸞様のご恩徳はどこにあるのか。そのことを皆さんに問ながら聞かせていただく。今、これを読んでくださっている皆様も、ぜひ、自分のところで考えてください。
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その時は、「信心一つで」とか、「悪人正機の教え」「凡夫が救われていく」「他力回向の信心」などのお答えが返ってくる。さすがに皆さんよく聴いておられます。
でも、聖人のご恩徳は、単なる教義の上にあるのではない。その意味では、もっと普通の言葉で考えてもらってもいい気がした。
親の恩とか先生の恩なら、目の前にあって理解できるのだが、親鸞様となると、どうしても遠くなるのもも事実ではないか。ましてや、阿弥陀様のご恩徳はどうなのか。
私なりに味わうに、親鸞様は、身をもって私のところにまで降りきり、肉食妻帯の煩悩生活を送り、そんな泥凡夫こそが阿弥陀様のお目当てなのだと教えてくださったことにある。罪悪深重と内省される祖師はおられても、自ら戒律を破り、凡夫として苦悩の生きざまを示しされたからこそ、「いし・かわら・つぶてのようなわれらなり」という温かいまなざしで私を御覧くださったのである。たからこそ、私にも阿弥陀様のご恩徳の深きことをお聞かせいただけるのである。親鸞様のご恩徳と阿弥陀様のご恩徳は、決して別々に味わうことはできないのである。
つまりは、さまざまなの高僧・お祖師がご出世される中でも、親鸞様のご化導がなければ、この凡夫の私が救われていく真実の道は開かれなかたったのである。
如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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