福井での法話会~得道の人~
3月以来の福井での法話会。会場は、福井東別院で、主催は、福井のお東の組(そ)の同朋会(聞法会)である。
演題を「二河白道の譬え」と題しておいた。
昨日の聖典講座は、「散善義」の文に直接あたったが、今回は『子供の聖典』を輪読しながら、お心を頂く。子供向けとはいえ、もともとの原文の内容に沿ったお話で、譬喩の部分と、合法の部分も別になっている。喩がそれで、座談会で、「何度も二河譬の法話を聞いてきたが、初めて全体を知りました」とか、「白道の真ん中で、三定死となると教えられてきました」などという声が多かった。二河譬のテーマだけでなく、遠慮なく、かなり突っ込んだお話を申した。
ただ朝座、昼座と二座のご縁なので、朝座は「得道の人を信じる」というテーマにした。これは、白道の「道」に関連づけたものである。
つまり、親鸞様は、『涅槃経』の信不具足(不完全な信、すなわち自力の信心)について、いつくかの文を引用されているが、その中に、こんな箇所がある。
「また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」。
「道」とは、さとりへの道であり、さとりそのものといってもいい。「得者」は、「得道の人」、つまり悟りを得た人のことである。つまり、さとりへの道があることを信じても、その道を得たという人を信じていないというのである。つまりは、道があっても、その道を得た人には出会えていないということである。
二河白道の譬えでも、行者は、なぜか「西」、つまりお浄土に向かって旅をしている。もうこの人は、聞法者なのである。その中で、忽然と、火の河、水の河、つまり、私の愼恚と貪欲の煩悩のすさまじさに出会っていく。その時、すでに「白道」が、火と水に苛まれつつ、微かであっても、その「道」のあることに出会っている。そして、ひとりぼっちである無常に気づき、後生の一大事と踏み出しても、その白道の手前で、行くも、停まるも、退くもすべて死しかない「三定死」のところにまで押し出されていくのである。
この旅人とは、すぐに煩悩の渦巻く河の中に、「道」があることを見いだしているのだが、次の一歩が出ないでいたのだ。ところが、その「道」がある以上、必ず度すことができるのだと決して、前を向いた時に、この世の中にあっての善知識であるお釈迦様の「畏れずに行けよ!」の発遣の声が、背中を押してくださるのである。そして、阿弥陀様は、「いますぐこい。ただちに来い。必ず護ってみせるぞ」と、招喚の叫びをあげておられるのである。この「道は」は、自分の力でかけるものではない。すでに「道」がかけられているのである。そして、釈迦・弥陀二尊の発遣と招喚に、ただ信順していくだけである。そして、現実では、すでにその「道」を得た「得道」の人との出会いによって、その度るべき道があり、そしてお勧めがあってこそ、私は一歩を踏み出すことができたのである。ただ、「道」を信じるだけでなく、その道を渡った「得道」の人に出会ったことが、私の一番の幸せだったのである。南無阿弥陀仏
| 固定リンク